矢部健太郎『敗者の日本史12 関ヶ原合戦と石田三成』

 『敗者の日本史』全20巻の第12巻として、2014年1月に吉川弘文館より刊行されました。本書は関ヶ原の戦いやその前後の日本全域での騒乱状況についてはあまり触れておらず、実質的には豊臣政権を論じた一冊になっています。関ヶ原の戦いの考察にあたって、豊臣政権の構造を解明することは必須だと言えるでしょう。その意味で、私にとって本書はたいへん面白く有益な一冊となりましたが、表題から受ける印象との乖離は否定できないでしょうから、不満に思う一般読者は少なくないかもしれません。

 本書は全体的に、「徳川史観」を否定し、江戸幕府による歴史の捏造を強調する傾向が強くなっています。その意味で、陰謀史観的な印象を受けるところもありますが、史料的な根拠を示して江戸幕府による捏造を推測・指摘しており、専門家だけあってさすがに底の浅い陰謀論本にはなっていません。「冷静で意識の高い」人々からは、陰謀論的な表現のある歴史本は無視・軽蔑される傾向にあるのかもしれませんが、本書をそうした陰謀論的な本と同一視するのはとても、妥当とは言えないでしょう。以下、本書の見解についての備忘録です。

 本書の提示する豊臣政権像は、豊臣氏宗家を別格とする家格秩序に基づき大名連合的性格が強い、というものです。ただし、そのことが「五大老」といった有力大名の「合議」による政権だったことを意味するわけではありません。あくまでも、豊臣政権は秀吉の独裁的なところがありました。それを支えたのが、官位と密接に関係する家格秩序だった、というわけです。こうした家格秩序には、都の貴族社会において長期に亘って形成されてきたものが取り入れられています。武家社会において、関白に就任できる豊臣氏宗家は摂関家と並ぶ他と隔絶した家格であり、その下に「清華成」の大名、その下に「公家成」の大名、さらにその下に「諸大夫成」の大名が位置づけられるといった構造です。

 こうした構造は、豊臣政権においてそれぞれの家の地位に変動はあったにしても、秀吉による小田原攻めの前にはおおむね形成されていました。秀吉晩年の史料を根拠とした「五大老」制についても、そもそも秀吉自身は大老という言葉を用いた形跡はありません。秀吉晩年の史料に見え「五大老」とされてきた有力大名は、秀吉の晩年になって初めて組織されたのではなく、豊臣政権において「清華成」の大名として有力大名が位置づけられたことに淵源があります。

 それは、上述したように秀吉による小田原攻めの前にはおおむね形成されていました。「五大老」が秀吉晩年の混乱期に創出されたかのように江戸時代の記録に見えるのは、家康が豊臣政権の「清華成」大名集団内に埋没していたことを隠蔽し、徳川家が豊臣氏宗家を滅ぼすという「主家殺し」を正当化するために記録が捏造されたから、というのが本書の見解です。なかなか興味深い見解なのですが、江戸幕府による自己正当化とその動機については、今後も検証が必要なのではないか、というのが率直な感想です。

 本書がこうした豊臣政権像を提示する基本的な視点として、じゅうらいの関ヶ原合戦や豊臣政権の位置づけについての研究への疑問があるようです。じゅうらい、関ヶ原合戦や豊臣政権の成立から崩壊にいたる過程の研究においては、「近世への連続性」という観点が重視されてきたが、「中世との連続性」にも留意する必要があるのではないか、というわけです。具体的には、豊臣政権の武家官位を徳川政権のそれと一括して議論するだけではなく、室町幕府以来の「中世武家官位制度」との連続性について考慮する必要がある、ということです。「近世への連続性」という観点が重視されてきたことが、「徳川史観」が横行してきた要因になっているのではないか、との問題意識が著者にはあるように思われます。

 著者の秀次事件にたいする見解は、確か一部マスコミでも報道されたと記憶していますが、本書でも秀次事件についてはかなりの分量が割かれています。本書の秀次事件についての見解は、通説とはかなり異なります。秀吉には(石田三成にも)秀次を失脚させても殺すつもりはなかったものの、秀次は自らの意志で切腹してしまい、高野山で蟄居する秀次に掟を通達する役目を担った福島正則は、共に秀次への使者として赴いた福原長堯(三成とは姻戚関係にありました)の背後にいる三成への対抗意識から秀次の切腹を止めなかった、というのが本書の見解です。

 つまり、秀次の切腹は秀吉にも三成にも想定外であり、秀吉家臣の主導権争いも絡んで、正則は秀次の切腹を止めなかったのだろう、というわけです。これにより、正則と、秀次を殺すつもりのなかった三成との対立がさらに激しくなったのではないか、と本書は推測しています。また、秀次の死後にその妻子が多数公開処刑されたのも、こうした文脈で解釈すべきだ、としています。史料の見直しに基づいた興味深い見解だと思います。ただ本書では、秀次が失脚させられた理由・経緯について、叙述が希薄だった感は否めません。

 また本書は、秀次の関白就任後の豊臣政権の在り様を二元政治的と解釈する見解を否定し、あくまでも秀吉が豊臣氏宗家の家長・最高権力者であり、関白の地位は豊臣氏宗家を継承することを示す地位である、と主張しています。この点では、本書では言及されていないものの、天皇が最高支配者たる治天の君となるために必要な窮屈な地位だった(天皇と治天の君の地位が一致する場合もありましたが)院政と通ずるところがあり、中世的と言えるかもしれません。一方で、天下人と征夷大将軍とが必ずしも一致していなかった、初期江戸幕府と通ずるところもあるように思います。これも、初期江戸幕府が中世的性格を有していた、と解釈すべきなのでしょうか。

 本書における大坂城と伏見城についての位置づけも通説とは異なり、それは豊臣政権における家康の立場についての評価とも関わってきます。伏見城を公儀の城、大坂城を豊臣の城と位置づける認識は、関ヶ原の戦い後に家康が伏見城で最高権力者として振る舞ったことからの類推であり、伏見城と大坂城の位置づけは時期により異なる、というのが本書の見解です。大地震により大きな被害を受けた伏見城は脆弱であり、ここに家康を配置した秀吉の意図は、家康を牽制することに他ならなかった、と本書は主張します。軍事的に強大な大坂城が間近にそびえるなか、家康は脅威を感じていたのではないか、と本書は推測しています。秀吉存命中の豊臣政権の本拠はあくまでも大坂城であり、秀吉死後に家康が伏見城から大坂城へと入ったのも、こうした事情のためだろう、というのが本書の見解です。家康は豊臣政権において独自性・独立性を保ち続けたのではなく、豊臣政権に従属する一大名として位置づけられていました。

 本書では詳しくは言及されていませんが、豊臣政権における有力大名が在京するという体制も、室町幕府と通ずるところがあります。家康の事例が典型的ですが、秀吉は潜在的に脅威となる有力大名を在京させることで統制しようとしました。しかし、在京していた大名が在地勢力を統制できずに下剋上を許してしまった室町幕府体制を知る豊臣政権の有力大名は、在国を望んでいました。徳川家や上杉家のように国替えを命じられてまだ日の浅い大名にとってはなおさらです。ただ、秀吉も大名を在京させることにより容易に統制できると考えていた一方で、大名が在京することにより領国支配が不安定化する可能性も懸念していたようです。そのため、秀吉は宇喜多家をとくに気遣っていたようなのですが、秀吉の懸念は秀吉死後に的中してしまいました(宇喜多家騒動)。

 関ヶ原の戦いについて、一般的には東軍と西軍という分類が浸透しています。しかし本書は、東軍を「維新軍」、西軍を「正規軍」とする分類を提示しています。「維新軍」と「正規軍」が豊臣氏宗家のためという正義・大義名分をかけて軍事的に激突した、というのが本書における関ヶ原の戦いの位置づけです。そのため家康も関ヶ原の戦い後数年は、実質的な最高権力者とはいえ、豊臣政権配下の一員として振る舞わざるをえませんでした。表題のわりには、本書における関ヶ原の戦いそのものの分量は少ないのですが、それでも、興味深い見解がいくつか提示されています。

 関ヶ原の戦いでは石田隊が奮戦したのですが、この中に秀次の旧臣もいました。このことも、三成の讒言により秀次が失脚・切腹に追い込まれたという通説の反証になるだろう、と本書は指摘しています。また、「正規軍」は豊臣政権の家格秩序に制約された布陣となったのに対して、「維新軍」は傘下の大名の家格が低い傾向にあったので、そうした制約から比較的自由であり、それが勝敗に影響したのではないか、との見通しも本書は提示しています。秀頼の出陣を警戒して短期決戦を志向していただろう家康にとって、秀忠の遅参はさほど激怒するものではなく、激怒してみせたのは、大名統制のためでもあろう、と本書は推測しています。

 関ヶ原の戦いの戦後処理について、秀吉存命中よりも九州の重要性が著しく低下した、との見解を本書は提示しています。徳川家の本拠は関東にあり、政治情勢の比重は東に移ったのであって、外様大名が九州など西国に国替えとなったのもそのためだ、というわけです。ただ、家康は貿易およびその統制に熱心であり、関ヶ原の戦いの後に九州の重要性が著しく低下した、という見解が妥当なのかというと、疑問の残るところです。

この記事へのコメント

あーりん
2015年09月08日 08:43
関ヶ原合戦勉強になりました。
2015年09月08日 20:42
本書の見解はなかなか興味深いと思います。

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    Excerpt: これは7月18日分の記事として掲載しておきます。今回は秀次の切腹が描かれました。秀次の切腹は、秀吉に命じられたものではなく、自分の意思に基づくものとなっており、これまで大河ドラマで描かれてきたような展.. Weblog: 雑記帳 racked: 2016-07-17 20:50