佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』
まだ日付は変わっていないのですが、2月23日分の記事として掲載しておきます。『日本古代の歴史』全6巻の第4巻として2014年1月に吉川弘文館より刊行されました。本書は、8世紀後半の長岡京への遷都から、菅原道真が失脚した10世紀初頭の昌泰の変までを扱っています。あとがきにて「本シリーズの企画段階では、高校生にもわかるようになるべく平易な内容とし、かつ高校日本史の教科書に記されたことには、原則としてすべて言及するという方針があった」と述べられていますが、本書はその方針をかなりの程度実現できた、手堅い初期平安時代史になっているのではないか、と思います。この『日本古代の歴史』を4巻まで読んできましたが、おおむねそうした方針が貫かれており、一般向け通史はかくあるべき、と思います。以下、本書で提示された興味深い見解を備忘録的に述べていくことにします。
9世紀は、後世において規範とされた国制が整備されていった時期と言えます。本書は冒頭にて後代の史書に言及し、摂関期においても中世においても、当時の人々には9世紀後半以降が自分たちと直接つながっているという歴史認識が見られたことを指摘します。本書はささらに、その歴史認識が江戸時代半ばの新井白石にまで継承されていることを指摘しています。現代日本社会において、一般的に8世紀後半~10世紀初頭は人気の低い時代なのでしょうが、「古典的」国制の整備されていったことからも、その重要性がもっと一般にも認識されるべきなのでしょう。
本書では平安時代初期の特徴として、公卿が少なかったことが挙げられています。これは左大臣の空位期間が長かったこととも関連しています。また、後の時代と比較すると公卿に藤原氏が少ないことも特徴で、蘇我氏の末裔たる石川氏や紀氏・阿倍氏・大伴(伴)氏などの伝統的有力氏族とともに、坂上田村麻呂・菅野真道・秋篠安人など、じゅうらいは公卿を輩出していなかった氏族からも、功績・能力によって公卿に登用される人物が出現したことが特徴です。これは平安時代初期の桓武天皇や嵯峨天皇が多くの氏族からキサキを迎えたこととも関連し、天皇が貴族の力を抑えて自身の権力の強化を図るとともに、姻戚関係を通じて天皇が貴族社会の頂点に立つという構造が形成された、と本書は指摘します。
平安時代初期の政治史的な意義として、天皇の位を退いた太上天皇(上皇)の地位が変容していったことが挙げられます。本書でも、この問題が取り上げられています。日本の律令制では天皇と太上天皇が同等の権能を有しており、それが時として政治的対立に至りました。薬子の変で敗れた平城上皇は、その後も諸司の官人を従えており、天皇と同じく「朝廷」を持ち続けていました。
しかし嵯峨上皇は、上皇として天皇と同等の権能を行使することはなく、これにより、上皇が直接国家の官僚機構を動かして国政を担うという従来の体制は消滅しました。上皇の生活・財政を担う職員として院司が設置されましたが、院司は正規の官人ではなく、上皇個人の任命する職員でした。上皇が国政に関与する場合、天皇との親族関係(兄弟・親子など)を通じて天皇に働きかける必要があり、上皇は公的な人格を持つもう一人の天皇から一私人へと変わりました。
平安時代初期に天皇の在り様が変わっていったことは、「唐風化」などとして一般にも知られるようになってきたと思います。本書は、新天皇を群臣が承認する儀式から、新天皇を群臣に公表する儀式へと、即位儀の性格が変わったことを指摘しています。上述したように、平安時代初期の天皇は多数のキサキを迎えました。その結果として、天皇の子が多数生まれることになり、国家財政負担の軽減のために、賜姓により皇籍を離脱させることが増えました。
これには、皇位継承をめぐる混乱を回避する目的もあったのではないか、と本書は推測しています。それは、じゅうらいのように天皇の子が自動的に親王または内親王になるのではなく、天皇が定めるようになったこと(親王宣下)とも関連しています。平安時代初期における天皇の在り様の変化について、天皇としての権能を行使できる人物が天皇一人に限定され、次代の天皇も含めて天皇に連なる身分を現天皇が決定する体制が成立したことにより、奈良時代と比較して皇位継承がはるかに安定した、と本書はまとめています。それには、蔵人といった令外官の設置・拡充も関わっていました。
こうした天皇の在り様の変化は、天皇と貴族との関係も変えていきました。天皇との関係を、自らの始祖と天皇の祖先との関係を起点とする伝統的なものと捉えていた貴族の意識は、9世紀には次第に消滅していき、天皇個人と貴族個人という個人的な関係が前面に出るようになります。これは、平安時代初期の天皇は皇太子としての期間を比較的長く経験していることとも関連しており、皇太子に側近として仕えた貴族が、即位後に重用されるようになります。9世紀前半は、旧来の氏族的な関係が消滅し、後世よりも身分が固定化していなかったので、前後の時代と比較すると人材登用の柔軟な時代だった、と本書は指摘しています。
9世紀後半に起源を有する摂関制度について、当初から後の摂関と通ずる職掌を有していたとともに、当初の摂関には後代とは異なる性格もあったことを本書は指摘しています。10世紀後半以降の摂関は、本官はどうあれ太政官の一員としての職務は行なわなくなります。しかし、当初の摂関は太政官の上首としての職務を行なっていた可能性が高い、と本書は指摘しています。この前提として、後の摂関とは異なり、当初の摂関は太政官の最高位たる太政大臣が兼ねるものだった、という事情があります。
平城京から(長岡京を経て)平安京へと移行するなか、平安京において都市化が進展したことも、大きな特徴だと本書は指摘しています。平城京の住民には、京外に基盤を有していた者も少なくなかったのですが、平安京では、京外との関係が希薄になっていった住民が多く、平安京の市場で売買される米に食糧を依存するようになります。この結果、政変により交通が遮断されたり、災害が発生したりすると、都で飢餓者が出やすくなります。またこの時期には、都での米の売買には一般的に銭が使われていました。
9世紀の日本において漢文作成能力が大いに向上したことも、重要な変化だと本書では指摘されています。その根拠として、六国史の記事の密度や編纂効率が向上していることが挙げられており、なかなか興味深い考察だと思います。これと関連して、9世紀には文人学者が政治に積極的に関わり、高位に登用されることもありました。菅原道真がその代表例ですが、しだいに藤原氏北家により高位が占められるようになり、文人学者の時代も菅原道真の失脚により終焉を迎えます。10世紀には、文人学者にたいする意見聴取の方式である「議」も行われなくなります。
また、9世紀における漢文作成能力の向上は、「国風文化」の前提としても把握できるのではないか、というのが本書の見通しです。形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちが漢詩文を自己のものに消化していった、ということなのでしょう。
日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けている、というのが本書の見通しです。
平安時代初期によく言われる怨霊については、怨霊の登場を神仏習合の一現象と把握していることが注目されます。日本在来の神は非人格的で、それが像として祀られるなど人格を有する存在となるのは仏教の影響だ、というのが本書の見通しです。本書は、怨霊を人格化した神と把握し、神仏習合のなかに位置づけ、御霊信仰へとつながっていった、との見通しを提示しています。その他に宗教面では、最澄と空海の日本思想史における影響力の強さを、本書により改めて再確認させられたことが印象に残ります。
9世紀は、後世において規範とされた国制が整備されていった時期と言えます。本書は冒頭にて後代の史書に言及し、摂関期においても中世においても、当時の人々には9世紀後半以降が自分たちと直接つながっているという歴史認識が見られたことを指摘します。本書はささらに、その歴史認識が江戸時代半ばの新井白石にまで継承されていることを指摘しています。現代日本社会において、一般的に8世紀後半~10世紀初頭は人気の低い時代なのでしょうが、「古典的」国制の整備されていったことからも、その重要性がもっと一般にも認識されるべきなのでしょう。
本書では平安時代初期の特徴として、公卿が少なかったことが挙げられています。これは左大臣の空位期間が長かったこととも関連しています。また、後の時代と比較すると公卿に藤原氏が少ないことも特徴で、蘇我氏の末裔たる石川氏や紀氏・阿倍氏・大伴(伴)氏などの伝統的有力氏族とともに、坂上田村麻呂・菅野真道・秋篠安人など、じゅうらいは公卿を輩出していなかった氏族からも、功績・能力によって公卿に登用される人物が出現したことが特徴です。これは平安時代初期の桓武天皇や嵯峨天皇が多くの氏族からキサキを迎えたこととも関連し、天皇が貴族の力を抑えて自身の権力の強化を図るとともに、姻戚関係を通じて天皇が貴族社会の頂点に立つという構造が形成された、と本書は指摘します。
平安時代初期の政治史的な意義として、天皇の位を退いた太上天皇(上皇)の地位が変容していったことが挙げられます。本書でも、この問題が取り上げられています。日本の律令制では天皇と太上天皇が同等の権能を有しており、それが時として政治的対立に至りました。薬子の変で敗れた平城上皇は、その後も諸司の官人を従えており、天皇と同じく「朝廷」を持ち続けていました。
しかし嵯峨上皇は、上皇として天皇と同等の権能を行使することはなく、これにより、上皇が直接国家の官僚機構を動かして国政を担うという従来の体制は消滅しました。上皇の生活・財政を担う職員として院司が設置されましたが、院司は正規の官人ではなく、上皇個人の任命する職員でした。上皇が国政に関与する場合、天皇との親族関係(兄弟・親子など)を通じて天皇に働きかける必要があり、上皇は公的な人格を持つもう一人の天皇から一私人へと変わりました。
平安時代初期に天皇の在り様が変わっていったことは、「唐風化」などとして一般にも知られるようになってきたと思います。本書は、新天皇を群臣が承認する儀式から、新天皇を群臣に公表する儀式へと、即位儀の性格が変わったことを指摘しています。上述したように、平安時代初期の天皇は多数のキサキを迎えました。その結果として、天皇の子が多数生まれることになり、国家財政負担の軽減のために、賜姓により皇籍を離脱させることが増えました。
これには、皇位継承をめぐる混乱を回避する目的もあったのではないか、と本書は推測しています。それは、じゅうらいのように天皇の子が自動的に親王または内親王になるのではなく、天皇が定めるようになったこと(親王宣下)とも関連しています。平安時代初期における天皇の在り様の変化について、天皇としての権能を行使できる人物が天皇一人に限定され、次代の天皇も含めて天皇に連なる身分を現天皇が決定する体制が成立したことにより、奈良時代と比較して皇位継承がはるかに安定した、と本書はまとめています。それには、蔵人といった令外官の設置・拡充も関わっていました。
こうした天皇の在り様の変化は、天皇と貴族との関係も変えていきました。天皇との関係を、自らの始祖と天皇の祖先との関係を起点とする伝統的なものと捉えていた貴族の意識は、9世紀には次第に消滅していき、天皇個人と貴族個人という個人的な関係が前面に出るようになります。これは、平安時代初期の天皇は皇太子としての期間を比較的長く経験していることとも関連しており、皇太子に側近として仕えた貴族が、即位後に重用されるようになります。9世紀前半は、旧来の氏族的な関係が消滅し、後世よりも身分が固定化していなかったので、前後の時代と比較すると人材登用の柔軟な時代だった、と本書は指摘しています。
9世紀後半に起源を有する摂関制度について、当初から後の摂関と通ずる職掌を有していたとともに、当初の摂関には後代とは異なる性格もあったことを本書は指摘しています。10世紀後半以降の摂関は、本官はどうあれ太政官の一員としての職務は行なわなくなります。しかし、当初の摂関は太政官の上首としての職務を行なっていた可能性が高い、と本書は指摘しています。この前提として、後の摂関とは異なり、当初の摂関は太政官の最高位たる太政大臣が兼ねるものだった、という事情があります。
平城京から(長岡京を経て)平安京へと移行するなか、平安京において都市化が進展したことも、大きな特徴だと本書は指摘しています。平城京の住民には、京外に基盤を有していた者も少なくなかったのですが、平安京では、京外との関係が希薄になっていった住民が多く、平安京の市場で売買される米に食糧を依存するようになります。この結果、政変により交通が遮断されたり、災害が発生したりすると、都で飢餓者が出やすくなります。またこの時期には、都での米の売買には一般的に銭が使われていました。
9世紀の日本において漢文作成能力が大いに向上したことも、重要な変化だと本書では指摘されています。その根拠として、六国史の記事の密度や編纂効率が向上していることが挙げられており、なかなか興味深い考察だと思います。これと関連して、9世紀には文人学者が政治に積極的に関わり、高位に登用されることもありました。菅原道真がその代表例ですが、しだいに藤原氏北家により高位が占められるようになり、文人学者の時代も菅原道真の失脚により終焉を迎えます。10世紀には、文人学者にたいする意見聴取の方式である「議」も行われなくなります。
また、9世紀における漢文作成能力の向上は、「国風文化」の前提としても把握できるのではないか、というのが本書の見通しです。形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちが漢詩文を自己のものに消化していった、ということなのでしょう。
日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けている、というのが本書の見通しです。
平安時代初期によく言われる怨霊については、怨霊の登場を神仏習合の一現象と把握していることが注目されます。日本在来の神は非人格的で、それが像として祀られるなど人格を有する存在となるのは仏教の影響だ、というのが本書の見通しです。本書は、怨霊を人格化した神と把握し、神仏習合のなかに位置づけ、御霊信仰へとつながっていった、との見通しを提示しています。その他に宗教面では、最澄と空海の日本思想史における影響力の強さを、本書により改めて再確認させられたことが印象に残ります。
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