『週刊新発見!日本の歴史』第34号「江戸時代7 村人は豊かだったのか」

 この第34号は江戸時代の村落を取り上げており、全体的に、生業・構成員・役割など、江戸時代の村落の多様な側面を強調しています。江戸時代の村落は包容力と厳しさの両面を有し、その構成員たる百姓は、相互扶助(災害などへの対応)と相互規制のもとで、助け合い、競い合い、規制し合って暮らしていました。こうした村落が江戸時代の社会基盤となっていたわけです。江戸時代後期になると、競い合いとしての自助努力を重視する百姓も増え、その結果、村落における貧富の拡大や相互扶助機能の低下といった問題も顕在化するようになりました。

 この第34号の「新発見」的見解となると、すでに一般にも浸透しつつあるかもしれませんが、「慶安御触書」は実在しなかった、ということでしょうか。「慶安御触書」については、すでに明治時代から疑問が呈されており、戦後になっても、江戸幕府の公式法令集『御触書集成』や近世前期の法令集『御当家令条』に収録されていないことや、内容面からも、実在が疑問視されていたそうです。しかし、幕府法令でなければ何なのか、という疑問が解決されなかったため、その存在は完全には否定されませんでした。

 そうした状況のなか、近年になって、元禄10年(1697年)に甲府藩領において発布された「百姓身持之覚書」32カ条が、「慶安御触書」とほぼ同内容だと確認されました。これにより、東日本に多い村役人や甲斐・信濃の地域的な村役人の呼称が「慶安御触書」に見える理由も明らかとなりました。さらに、この「百姓身持之覚書」の原型は、現時点では、寛文5年(1665年)の「百姓身持之事」という甲斐・信濃の地域的教諭書までさかのぼることも分かりました。

 この「百姓身持之覚書」が「慶安御触書」として認識されるようになった契機は、「百姓身持之覚書」を慶安2年(1649年)2月26日に発令した「慶安御触書」とした木版本を美濃岩村藩が刊行したことでした。これには、岩村藩主松平家の出身で林家の養子となり、幕府学問所総裁となった林述斎が関わっていたようです。林述斎が編纂に関わっていた江戸幕府の正史『徳川実記』に「慶安御触書」が幕府法として掲載され、明治時代になり、司法省刊行の『徳川禁令考』にも収録され、「百姓身持之覚書」は「慶安御触書」として日本社会に定着しました。

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