『岩波講座 日本歴史 第6巻 中世1』
『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店)の刊行が始まりました。この第6巻は、2013年12月に刊行されました。すでに全巻の構成内容は明かされており、たいへん楽しみですが、どの巻を購入すべきか悩んでいます。金銭的な問題・昨年大々的に部屋を片づけたとはいえ場所の問題・読む時間の問題があるので、さすがに全巻購入はためらいます。すでに刊行されている第1巻と第6巻のうち、迷ったすえに第1巻は購入を見送り、第6巻のみ購入しました。今後、第2巻と第10巻は必ず購入するとして、すでに刊行されている第1巻も含めて、他の巻はどれを購入するのか、悩んでいます。
西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人─旧石器考古学からみた交替劇』(関連記事)の時のように、『岩波講座 日本歴史』も、購入した巻に所収されている各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようかとも考えたのですが、かなり時間を要しそうですし、古人類学よりも優先順位は低いので、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。以下、この第6巻所収の論文についての短い感想です。
●桜井英治「中世史への招待」(P1~28)
『岩波講座 日本歴史』の中世史(全4巻構成)の巻頭論文であり、研究史を踏まえた現状認識・問題点と今後の展望が包括的に論じられています。長大な論文というわけではないのですが、あまりにも多くの重要な論点が提示されており、空間的(日本列島に限定されていない)・時間的に広範な視点から見通されてもいるので、教えられるところが多々ありました。とくに、筆者の専門である中世経済史の画期をめぐる議論は、大いに参考になりました。筆者は、ここ20年の日本中世史学界について、社会史から政治史・国家史へという大きな「逆流」が訪れている、との認識を提示しています。今後、何度も読み返していきたい論文です。
●本郷恵子「院政論」(P29~60)
院政の成立過程についての概論です。白河院には譲位当初、直系子孫への皇位継承という目論見以外に確固たる政治的展望はなかった、とします。院政がある程度制度として固まっていったのは鳥羽院政期で、後鳥羽院の代になって院政が制度として確立した、との見通しを提示しています。父権による直系継承という原則が王家における時間感覚に変化をもたらし、過去から未来へのより長い時間軸が意識されるようになった、との指摘は興味深いと思います。
●川合康「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」(P61~96)
保元の乱から承久の乱までの武士が政権を築いていく過程を概観しています。保元の乱の前、都では京武者が並存していました。平治の乱後、都には平清盛に対抗できるような京武者は存在しなくなりますが、それでも京武者は消滅したわけではなく、伊勢平氏一門と共存していました。治承・寿永の内乱において、源頼朝はこの体制を自己の指揮下に一元化しようとし、源義経の没落もその文脈で解されます。しかし、京武者の並存する伝統的武士社会は根強く、これが最終的に解体されたのは、後鳥羽院権力とそれとは異質な武士社会の秩序に立脚する鎌倉幕府との衝突と位置づけられる承久の乱の後のことでした。
●高橋典幸「鎌倉幕府論」(P97~128)
鎌倉幕府の位置づけについて論じています。中世の政治体制を武家政権に収斂させ、鎌倉幕府を中世の国家機構そのものとみるのが、戦前の通説でした。この鎌倉幕府への「過大評価」の反省として提唱された権門体制論・東国国家論を踏まえつつ(内乱収束後に、鎌倉幕府が軍事権門として存立基盤を固めていったことなど)、両説が鎌倉幕府の成立を自明視する傾向にあったことを指摘し、鎌倉幕府の特殊性・自律性を主張します。鎌倉幕府は反乱軍として出発した軍事政権であり、鎌倉幕府の成立により戦時体制が日常化しました。しかしながら、鎌倉幕府の特殊性・自律性を過度に強調することにも慎重であり、頼朝が挙兵当初より朝廷との交渉を模索し、朝廷との関係により鎌倉幕府の性格が大きく規定されていたことも指摘します。
●鎌倉佐保「荘園制と中世年貢の成立」(P129~162)
荘園公領制概念の提唱とその後の中世荘園形成論の提示という研究史を踏まえて、荘園整理令を中心とする対荘園政策から荘園成立過程を把握し、荘園形成の動きと収取の問題から中世荘園の性格を概観しています。画期となった延久荘園整理令は、荘園と公領の分離・整序が目的ではなく、荘園内に国務負担を見出して臨時課税を行なうための施策だった、と論じられています。また、中世荘園の領有体系は、院政期、とくに鳥羽院政期に進んだ貴族社会の政治編成と連動したものでもある、と指摘されています。中世荘園は、それまでの私領・荘園と新たな私領を吸収し、立券という法的形式をもって認可された土地所有だった、との見解が提示されています。
●高橋修「武士団と領主支配」(P163~196)
地域社会論・在地領主制論の立場から、武士・武士団の成立過程と領主支配の構造について、軍事貴族が治安の悪化した関東に下向した9世紀後半にまでさかのぼり、東国を対象に考察しています。将門の乱の起きた10世紀前半の坂東においては、離合集散が激しく、継続的な主従関係が成立せず、武士の家の継承も不安定で困難だったことが特徴だった、と指摘されています。この状況は、11世紀以降、荘園公領制が形成されていく過程で変わっていきます。兵(武士)に連なる私領主が在地領主化し、その支配権が地主として公認される過程で、同族意識を紐帯とする武士団が成立します。
こうして私領主たる武士団が成立してきた、11世紀末~12世紀にかけて、東国では私戦が頻発します。そうした中、京武者がじゅうらいのように対立する武士団の一方に肩入れするのではなく、中央との人脈も活かしつつ調停者として振る舞うようになり、京武者が地域公権力化していきます。領主支配の構造としては、宿が注目されています。交通の要衝たる宿を支配することにより、さまざまな人的関係を築くことは、成立段階から交通・流通と不可分の関係にあった武士にとって、その本質に関わることでした。東西の比較(畿内とその周辺では、村落共同体が機能し、権門の支配権が貫徹し、継続的な戦乱が展開しなかったことなど)から、東国における領主支配を基盤とする武士団の成長は特殊な事態ではないか、との見通しも提示されており、興味深いと思います。
●鈴木哲雄「中世前期の村と百姓」(P197~231)
中世百姓の成立過程・中世村落の在り様とその内部構造を、荘園公領制の形成にも言及しつつ論じています。この論文を読むと、中世の村落がひじょうに流動的であり、近世の村落とは大きく異なるという印象を受けます。この第6巻の対象範囲外ですが、古代の村落はどのように把握すべきなのか、気になるところではあります。神人・供御人については、王権に属する百姓と考えてよいだろうが、神仏や天皇に直属した寄人や神人は、百姓を越えた存在または別次元の存在とみなされた可能性があると指摘し、南北朝時代以降の「聖なるもの」の「没落」という網野善彦説との関連を示唆しています。
●上島享「鎌倉時代の仏教」(P233~272)
近代になって提唱された鎌倉新仏教論も、それへの異議として戦後に提唱された顕密体制論も、二項対立的な把握という点では共通しており、表裏の関係にあるのではないか、との問題意識に基づき、新たな中世宗教像を提示しようとする意欲的な論文です。これは中世史像の見直しにも関わり、筆者はすでに、13世紀中葉を画期として、10世紀中葉~13世紀中葉までを中世前期、13世紀中葉~16世紀中葉を中世後期とする時代区分を提示しています。
顕密体制論の問題点としてまず指摘されているのが、遁世僧の位置づけについての見解です。顕密体制論では遁世僧を「改革運動」として「異端(じゅうらい、鎌倉新仏教とされてきた動き)」と一体とみますが、そうではなく、むしろ「正統(顕密仏教)」に近い存在だと指摘する見解が取り上げられています。本論文は、「正統」対「異端=改革運動」という顕密体制論で提示された図式が成立しなくなったことを指摘します。
ただ、この遁世僧の新たな位置づけも再考が必要だと本論文は指摘し、戒・定・慧という仏教における三学からの逸脱および回帰という視点から、中世の仏教を概観しています。筆者は『週刊新発見!日本の歴史』第17号「平安時代5 院政期を彩った人々」の責任編集者でもあり、本論文の見解の概要はそこで述べられていて、このブログでも取り上げました(関連記事)。また、『週刊新発見!日本の歴史』第21号「鎌倉時代4 鎌倉仏教の主役は誰か」で提示された見解も本論文と通ずるものがあり、その内容もこのブログで取り上げました(関連記事)。
●坂井孝一「中世前期の文化」(P273~310)
白河院政の始まる11世紀末~鎌倉時代末期の14世紀初頭までの文化を包括的に論じています。本論文ではこの期間を、白河および鳥羽院政期・後白河院政期・鎌倉時代前期・鎌倉時代中後期(承久の乱以降)の4期に区分しています。正直なところ、包括的に論じて駆け足になっている感が否めません。もう少し対象か年代を絞った方がよかったのではないか、と思います。裏から見た文化の総決算と言える『古事談』には、編者の源顕兼の、活躍できなかった表の世界にたいする憧れの念が感じられる、との見解は興味深いと思います。
西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人─旧石器考古学からみた交替劇』(関連記事)の時のように、『岩波講座 日本歴史』も、購入した巻に所収されている各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようかとも考えたのですが、かなり時間を要しそうですし、古人類学よりも優先順位は低いので、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。以下、この第6巻所収の論文についての短い感想です。
●桜井英治「中世史への招待」(P1~28)
『岩波講座 日本歴史』の中世史(全4巻構成)の巻頭論文であり、研究史を踏まえた現状認識・問題点と今後の展望が包括的に論じられています。長大な論文というわけではないのですが、あまりにも多くの重要な論点が提示されており、空間的(日本列島に限定されていない)・時間的に広範な視点から見通されてもいるので、教えられるところが多々ありました。とくに、筆者の専門である中世経済史の画期をめぐる議論は、大いに参考になりました。筆者は、ここ20年の日本中世史学界について、社会史から政治史・国家史へという大きな「逆流」が訪れている、との認識を提示しています。今後、何度も読み返していきたい論文です。
●本郷恵子「院政論」(P29~60)
院政の成立過程についての概論です。白河院には譲位当初、直系子孫への皇位継承という目論見以外に確固たる政治的展望はなかった、とします。院政がある程度制度として固まっていったのは鳥羽院政期で、後鳥羽院の代になって院政が制度として確立した、との見通しを提示しています。父権による直系継承という原則が王家における時間感覚に変化をもたらし、過去から未来へのより長い時間軸が意識されるようになった、との指摘は興味深いと思います。
●川合康「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」(P61~96)
保元の乱から承久の乱までの武士が政権を築いていく過程を概観しています。保元の乱の前、都では京武者が並存していました。平治の乱後、都には平清盛に対抗できるような京武者は存在しなくなりますが、それでも京武者は消滅したわけではなく、伊勢平氏一門と共存していました。治承・寿永の内乱において、源頼朝はこの体制を自己の指揮下に一元化しようとし、源義経の没落もその文脈で解されます。しかし、京武者の並存する伝統的武士社会は根強く、これが最終的に解体されたのは、後鳥羽院権力とそれとは異質な武士社会の秩序に立脚する鎌倉幕府との衝突と位置づけられる承久の乱の後のことでした。
●高橋典幸「鎌倉幕府論」(P97~128)
鎌倉幕府の位置づけについて論じています。中世の政治体制を武家政権に収斂させ、鎌倉幕府を中世の国家機構そのものとみるのが、戦前の通説でした。この鎌倉幕府への「過大評価」の反省として提唱された権門体制論・東国国家論を踏まえつつ(内乱収束後に、鎌倉幕府が軍事権門として存立基盤を固めていったことなど)、両説が鎌倉幕府の成立を自明視する傾向にあったことを指摘し、鎌倉幕府の特殊性・自律性を主張します。鎌倉幕府は反乱軍として出発した軍事政権であり、鎌倉幕府の成立により戦時体制が日常化しました。しかしながら、鎌倉幕府の特殊性・自律性を過度に強調することにも慎重であり、頼朝が挙兵当初より朝廷との交渉を模索し、朝廷との関係により鎌倉幕府の性格が大きく規定されていたことも指摘します。
●鎌倉佐保「荘園制と中世年貢の成立」(P129~162)
荘園公領制概念の提唱とその後の中世荘園形成論の提示という研究史を踏まえて、荘園整理令を中心とする対荘園政策から荘園成立過程を把握し、荘園形成の動きと収取の問題から中世荘園の性格を概観しています。画期となった延久荘園整理令は、荘園と公領の分離・整序が目的ではなく、荘園内に国務負担を見出して臨時課税を行なうための施策だった、と論じられています。また、中世荘園の領有体系は、院政期、とくに鳥羽院政期に進んだ貴族社会の政治編成と連動したものでもある、と指摘されています。中世荘園は、それまでの私領・荘園と新たな私領を吸収し、立券という法的形式をもって認可された土地所有だった、との見解が提示されています。
●高橋修「武士団と領主支配」(P163~196)
地域社会論・在地領主制論の立場から、武士・武士団の成立過程と領主支配の構造について、軍事貴族が治安の悪化した関東に下向した9世紀後半にまでさかのぼり、東国を対象に考察しています。将門の乱の起きた10世紀前半の坂東においては、離合集散が激しく、継続的な主従関係が成立せず、武士の家の継承も不安定で困難だったことが特徴だった、と指摘されています。この状況は、11世紀以降、荘園公領制が形成されていく過程で変わっていきます。兵(武士)に連なる私領主が在地領主化し、その支配権が地主として公認される過程で、同族意識を紐帯とする武士団が成立します。
こうして私領主たる武士団が成立してきた、11世紀末~12世紀にかけて、東国では私戦が頻発します。そうした中、京武者がじゅうらいのように対立する武士団の一方に肩入れするのではなく、中央との人脈も活かしつつ調停者として振る舞うようになり、京武者が地域公権力化していきます。領主支配の構造としては、宿が注目されています。交通の要衝たる宿を支配することにより、さまざまな人的関係を築くことは、成立段階から交通・流通と不可分の関係にあった武士にとって、その本質に関わることでした。東西の比較(畿内とその周辺では、村落共同体が機能し、権門の支配権が貫徹し、継続的な戦乱が展開しなかったことなど)から、東国における領主支配を基盤とする武士団の成長は特殊な事態ではないか、との見通しも提示されており、興味深いと思います。
●鈴木哲雄「中世前期の村と百姓」(P197~231)
中世百姓の成立過程・中世村落の在り様とその内部構造を、荘園公領制の形成にも言及しつつ論じています。この論文を読むと、中世の村落がひじょうに流動的であり、近世の村落とは大きく異なるという印象を受けます。この第6巻の対象範囲外ですが、古代の村落はどのように把握すべきなのか、気になるところではあります。神人・供御人については、王権に属する百姓と考えてよいだろうが、神仏や天皇に直属した寄人や神人は、百姓を越えた存在または別次元の存在とみなされた可能性があると指摘し、南北朝時代以降の「聖なるもの」の「没落」という網野善彦説との関連を示唆しています。
●上島享「鎌倉時代の仏教」(P233~272)
近代になって提唱された鎌倉新仏教論も、それへの異議として戦後に提唱された顕密体制論も、二項対立的な把握という点では共通しており、表裏の関係にあるのではないか、との問題意識に基づき、新たな中世宗教像を提示しようとする意欲的な論文です。これは中世史像の見直しにも関わり、筆者はすでに、13世紀中葉を画期として、10世紀中葉~13世紀中葉までを中世前期、13世紀中葉~16世紀中葉を中世後期とする時代区分を提示しています。
顕密体制論の問題点としてまず指摘されているのが、遁世僧の位置づけについての見解です。顕密体制論では遁世僧を「改革運動」として「異端(じゅうらい、鎌倉新仏教とされてきた動き)」と一体とみますが、そうではなく、むしろ「正統(顕密仏教)」に近い存在だと指摘する見解が取り上げられています。本論文は、「正統」対「異端=改革運動」という顕密体制論で提示された図式が成立しなくなったことを指摘します。
ただ、この遁世僧の新たな位置づけも再考が必要だと本論文は指摘し、戒・定・慧という仏教における三学からの逸脱および回帰という視点から、中世の仏教を概観しています。筆者は『週刊新発見!日本の歴史』第17号「平安時代5 院政期を彩った人々」の責任編集者でもあり、本論文の見解の概要はそこで述べられていて、このブログでも取り上げました(関連記事)。また、『週刊新発見!日本の歴史』第21号「鎌倉時代4 鎌倉仏教の主役は誰か」で提示された見解も本論文と通ずるものがあり、その内容もこのブログで取り上げました(関連記事)。
●坂井孝一「中世前期の文化」(P273~310)
白河院政の始まる11世紀末~鎌倉時代末期の14世紀初頭までの文化を包括的に論じています。本論文ではこの期間を、白河および鳥羽院政期・後白河院政期・鎌倉時代前期・鎌倉時代中後期(承久の乱以降)の4期に区分しています。正直なところ、包括的に論じて駆け足になっている感が否めません。もう少し対象か年代を絞った方がよかったのではないか、と思います。裏から見た文化の総決算と言える『古事談』には、編者の源顕兼の、活躍できなかった表の世界にたいする憧れの念が感じられる、との見解は興味深いと思います。
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