『天智と天武~新説・日本書紀~』第34話「神と共にある男」
まだ日付は変わっていないのですが、1月11日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2014年1月25日号掲載分の感想です。前回は、中大兄皇子が雷雨のなか、朝倉の杜の神木に伐りかかったところで終了しました。今回は、樵夫や労夫が自分たちに神罰が下ることを恐れているなか、豊璋が馬で駆けつける場面から始まります。
作中の年代は、現時点で661年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)です。豊璋は、2月に泗沘城を包囲していた鬼室福信軍が唐・新羅連合軍に勝利したとの報せが届いたことを中大兄皇子に伝えます。すると、偶然にも雷雨が収まり、陽が差してきます。中大兄皇子は大笑し、斧を持ち上げ、皆の者これで分かったか、恐れるな、神は我と共にある、と高らかに宣言します。
朝鮮半島情勢は中大兄皇子の思惑通りに進んでおり、唐・新羅連合軍はゲリラ戦を展開する百済復興軍に手を焼き、唐が新羅と手を組んだ本来の目的である高句麗攻撃でも、唐・新羅連合軍はたいした成果をあげられていませんでした。新羅が高句麗との戦いに兵を向けたため、旧百済領では新羅軍が手薄となり、倭(日本)では、倭が朝鮮半島に出兵したら百済復興の日も近いのではないか、と考えられるようになっていました。
筑紫では阿曇(安曇)比羅夫が兵士たちの訓練を担当しており、訓練を視察した中大兄皇子は、もっと精度を上げねばならないぞ、と阿曇比羅夫に指示します。その様子を大海人皇子と豊璋が山の上から見ていました。まさか、和平案を反故にしても百済復興は達成できそうだと思ってはいないだろうな、と大海人皇子は豊璋に確認します。そう甘くないことは承知しているつもりだ、と豊璋が答えると、ならばよい、息子の史(不比等)の運命はこちらの手中にあることを忘れるな、と大海人皇子は忠告します。
661年6月、朝倉橘広庭宮が完成し、斉明帝が磐瀬行宮から移ってきます。朝倉橘広庭宮の正確な場所は不明とされており、作中では、博多から30kmほど離れた内陸部にあるとされています。『日本書紀』では、斉明帝が朝倉橘広庭宮に移ったのは5月9日とされています。西暦(ユリウス暦)に換算すると661年6月11日になるので、作中では斉明帝が朝倉橘広庭宮に移ったのは6月とされたのかな、とも思ったのですが、後述する金春秋(武烈王)の死の報せも同時に描くための都合なのかもしれません。
母の斉明帝を朝倉橘広庭宮に迎えた中大兄皇子は、斉明帝に宮の出来栄えを誇ります。ずいぶん内陸に建てたのね、と斉明帝が言うと、ここなら安全だ、戦が本土に及べば海沿いの行宮では簡単に攻め込まれてしまう、と中大兄皇子は説明します。敵に攻め込まれると聞いて驚く斉明帝に、万一を考えてのことだ、と中大兄皇子は言います。敵の新羅・唐が高句麗攻略に手こずっている今出兵すれば杞憂に終わるだろう、その準備もできているので出発の命令を、と中大兄皇子は斉明帝に促しますが、斉明帝には答えません。
そこへ、眼前の池で舟遊びをしている大海人皇子・大田皇女・鸕野讚良皇女(持統天皇)が現れ、斉明帝に声をかけます。風が心地よいので舟で涼みませんか、というわけです。斉明帝は笑顔になり、今行くわ、と言います。すると、まだ話は終わっていない、と言って中大兄皇子が斉明帝の腕をつかみます。しかし、斉明帝は息子の中大兄皇子に冷たい表情を向け、離しなさい、と言います。母の覚悟に気圧されたのか、中大兄皇子は手を離します。大海人皇子・大田皇女・鸕野讚良皇女は舟で楽しく話しており、大海人皇子と中大兄皇子の視線が交差しますが、中大兄皇子は視線をそらし、立ち去ります。
斉明帝が舟に乗ろうとしたところへ官人が現れ、新羅よりの書状を届けます。その書状には、新羅の武烈王(太宗)が薨去し、息子の金法敏(文武王)が即位したとありました。斉明帝は驚き、これで朝鮮半島の情勢も変わるかもしれないのう、と大海人皇子に語りかけますが、大海人皇子は茫然としており、一瞬返事ができませんでした。大海人皇子は我に返り、これからが大変だ、武烈王の死で百済復興軍はますます勢いづくだろうが、その流れに呑み込まれてはなりません、中大兄皇子がいかに派兵を急がせようとも冷静に判断してください、と斉明帝に言い、斉明帝も覚悟を固めた表情で、分かっていると言います。
大海人皇子は海を見ながら(朝倉橘広庭宮から磐瀬行宮に戻ったのでしょうか?)、即位前の武烈王からの忠告を思い出していました。真に事を成したければ、充分な時間をかけて相手を研究し、緻密な計画を立てたうえで待つのだ、さすればその「時」は必ず訪れる、との武烈王の言葉は、今でも大海人皇子にとって宝物でした。この先もずっと心に刻み、忘れません、と大海人皇子は涙を浮かべながら改めて誓います。大海人皇子と武烈王との出会いという創作を上手く活かした、なかなか感動的な場面でした。
大海人皇子が戻ろうとすると、中大兄皇子と遭遇します。軍船の視察ですか、と大海人皇子に問われた中大兄皇子は、そうだ、都合よく金春秋(武烈王)も死んでくれたし、出航も間近だと兵たちに活を入れてきたところだ、と中大兄皇子は答えます。武烈王の後継者の文武王も侮れない、せいぜい気をつけなされませ、と大海人皇子に忠告された中大兄皇子は、他人のことより自分の心配をしたらどうだ、と大海人皇子に言います。しかし、大海人皇子には中大兄皇子の言わんとするところが理解できないようです。
中大兄皇子は大海人皇子に、気づいていないのか、お前が肩入れした奴は皆死んでいく(武烈王や有間皇子や孝徳帝のことでしょうか)、お前は多分呪われているのだ、可哀想に、と憐れむような、また勝ち誇ったような表情で言います。今度、自分が朝倉の杜のご神木で形代を作ってやるから、それを川にでも流して災いを追い払うとよい、神が付いている自分が作れば効果覿面だろう、と中大兄皇子は大海人皇子に言い、勝ち誇ったように笑います。
すると大海人皇子は、呪われてしかるべきは兄上の方では?と中大兄皇子に問いかけ、中大兄皇子の笑いが止まります。兄上が浴びた、無実の父上(蘇我入鹿)の血は、洗い流しても消えない、いずれ必ず、自らを血の涙で滴らせることになるだろう、と大海人皇子は中大兄皇子に言います。すると中大兄皇子は、入鹿の呪いとは望むところだ、物の怪でかまわないから出てきてほしいものよ、そうすれば今度こそ思い切り愛でてやるものを、と言って大笑し、大海人皇子が不愉快そうな表情を浮かべるというところで、今回は終了です。
今回は、この作品の主題と言える、中大兄皇子と大海人皇子との心理戦を中心に話が進み、そこでは中大兄皇子と大海人皇子の母である斉明帝が重要な役割を果たしていました。今回もなかなかおもしろく、次号も楽しみです。このところ中大兄皇子はすっかり調子に乗っている感があり、それを止める役割を母の斉明帝と異父弟の大海人皇子が担っています。大海人皇子が中大兄皇子と対立するのは以前からのことですが、これまで息子の中大兄皇子の言いなりになっていた斉明帝は、息子の大海人皇子に叱責されてから、中大兄皇子に毅然とした態度をとるようになりました。中大兄皇子と、作中では間もなく死ぬことになるだろう斉明帝との関係がどう描かれるのかが、当面の見所になりそうです。
予告は、「とどまるところを知らない中大兄皇子の傲岸・・・・・・次号、とうとう母・斉明帝と運命の大衝突を!?」となっています。今回も、中大兄皇子は母の愛を求めており、母に愛されている弟の大海人皇子に嫉妬しているかのような場面が描かれていました。斉明帝がこのまま最期まで中大兄皇子に毅然とした態度をとり続けられるのか、中大兄皇子の母へのわだかまりは解消されるのか、注目しています。『日本書紀』によると、中大兄皇子は母の死を嘆き悲しんだようなので、母子の間で何らかの和解が成立し、それが中大兄皇子の人間性も変えていくのかな、という気もします。
一方、中大兄皇子が阿曇比羅夫たちを百済救援軍として派遣したのは、661年7月24日に斉明帝が崩御した直後の661年8月でしたから、作中では、中大兄皇子は母の死をとくに嘆き悲しまず、好機として直ちに派兵した、という話になるのかもしれません。斉明帝の崩御後、中大兄皇子は即位せず一定期間称制しています。作中では、中大兄皇子と斉明帝との関係をどう描くかにより、この称制期間の解釈も異なってきそうです。
『天上の虹』では、斉明帝の崩御後、中大兄皇子の同父同母妹の間人皇女が即位したという設定になっていました。中皇命とは女帝であり、間人皇女だったのだ、という説が採用されたわけです。この作品では、間人皇女が未登場どころか、言及さえされていないので、間人皇女が即位したという設定にはならないでしょう。中大兄皇子の称制期間がどのように描かれ解釈されるのかということも、今後の見所になりそうです。
豊璋は百済復興軍の勝利を喜んでいましたが、新羅との和平は進めるつもりのようです。ただ、結局は百済復興軍と倭の連合軍は、唐・新羅連合軍と戦って敗れるわけですから(この作品は大枠では史実から外れないでしょうから、作中でもそうなるでしょう)、豊璋の動向をどう描くかが問題になります。創作を交えて上手く話を作ってくれるのではないか、と期待しています。
今回、史の生死を握っているのはこちらだ、と大海人皇子は豊璋を脅していました。まだずいぶんと先のことになりそうですが、史がどのように世に出たのか、ということも見所になりそうです。豊璋が朝鮮半島に帰還するために倭を出立したのは、『日本書紀』によると661年9月もしくは662年5月です。これは「天智紀」に多い重複記事の一例ですが、作中で661年9月説が採用されるようだと、中大兄皇子は母の斉明帝の死にもさほど衝撃を受けなかった、ということになるのでしょうか。
今後の展開との関連で今回注目されるのは、入鹿の呪いとは望むところだ、物の怪でかまわないから出てきてほしいものよ、そうすれば今度こそ思い切り愛でてやるものを、との中大兄皇子の発言です。中大兄皇子の入鹿への恋愛感情という、この作品の世界観において重要な役割を果たしているだろう創作を活かした、中大兄皇子の大海人皇子にたいする精神的攻撃にもなっているように思います。
しかし、それだけではなく、今後の展開の伏線にもなっているように思います。『日本書紀』によると、朝倉社の神木を伐採して朝倉橘広庭宮を造営した神罰により、宮殿が壊れ、宮中にて「鬼火」が見え、従者たちが多く病死した、とあります。また、661年7月24日に斉明帝が崩御し、翌月1日に中大兄皇子が斉明帝の喪を行なって磐瀬行宮に戻った夕べに、朝倉山の上に「鬼」が現れ、大笠を着て喪を見ていたので、人々が怪しんだ、ともあります。
どうも作中では、この「鬼」が蘇我入鹿と結びつけられるのではないか、と思います。『日本書紀』には、斉明帝治下の655年5月に、青い油笠を着た「唐人」に似た人物が龍に乗って空に現れた、との記事が見えます。『扶桑略記』によると、当時の人々はこの人物を蘇我豊浦大臣(蘇我蝦夷)の霊と言った、とのことです。関裕二氏の最初期の著作である『天武天皇 隠された正体』(KKベストセラーズ、1991年)では、蘇我豊浦大臣=蘇我入鹿であり、この「唐人」に似た人物こそ、斉明帝の喪に現れた「鬼」ではないか、とされています。
この作品が梅原猛氏の見解の影響を大きく受けていることは、原案監修者が明かしています。しかし私は、この作品を知った当初から、蘇我入鹿は聖者で大海人皇子の父であるという設定などからも、どうもこの作品は関裕二氏の見解から大きな影響を受けているのではないか、と考えています。この推測がどこまで妥当なのか分かりませんが、今回の中大兄皇子と大海人皇子との会話からは、「鬼火」や「鬼」の話も取り入れられ、入鹿と関連づけられるのではないか、という気がします。この予想が的中するとしたら、どのように描かれるのか、楽しみです。
今回、鸕野讚良皇女と大田皇女の登場場面はわずかでしたが、鸕野讚良皇女が姉の大田皇女と楽しそうに話している様子が描かれていました。鸕野讚良皇女の人物像はまだ少ししか明らかになっていないのですが、夫・叔父の大海人皇子や姉の大田皇女や祖母の斉明帝といった身近な人々から信頼されて愛されており、良好な関係を築いているようです。どうも、鸕野讚良皇女の容貌と、彼女と周囲の人々との良好な関係とが結びつきにくいのですが、鸕野讚良皇女は気が強くて政治的才能にも優れているとはいっても、冷酷というわけではない人物として描かれるのでしょうか。
作中の年代は、現時点で661年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)です。豊璋は、2月に泗沘城を包囲していた鬼室福信軍が唐・新羅連合軍に勝利したとの報せが届いたことを中大兄皇子に伝えます。すると、偶然にも雷雨が収まり、陽が差してきます。中大兄皇子は大笑し、斧を持ち上げ、皆の者これで分かったか、恐れるな、神は我と共にある、と高らかに宣言します。
朝鮮半島情勢は中大兄皇子の思惑通りに進んでおり、唐・新羅連合軍はゲリラ戦を展開する百済復興軍に手を焼き、唐が新羅と手を組んだ本来の目的である高句麗攻撃でも、唐・新羅連合軍はたいした成果をあげられていませんでした。新羅が高句麗との戦いに兵を向けたため、旧百済領では新羅軍が手薄となり、倭(日本)では、倭が朝鮮半島に出兵したら百済復興の日も近いのではないか、と考えられるようになっていました。
筑紫では阿曇(安曇)比羅夫が兵士たちの訓練を担当しており、訓練を視察した中大兄皇子は、もっと精度を上げねばならないぞ、と阿曇比羅夫に指示します。その様子を大海人皇子と豊璋が山の上から見ていました。まさか、和平案を反故にしても百済復興は達成できそうだと思ってはいないだろうな、と大海人皇子は豊璋に確認します。そう甘くないことは承知しているつもりだ、と豊璋が答えると、ならばよい、息子の史(不比等)の運命はこちらの手中にあることを忘れるな、と大海人皇子は忠告します。
661年6月、朝倉橘広庭宮が完成し、斉明帝が磐瀬行宮から移ってきます。朝倉橘広庭宮の正確な場所は不明とされており、作中では、博多から30kmほど離れた内陸部にあるとされています。『日本書紀』では、斉明帝が朝倉橘広庭宮に移ったのは5月9日とされています。西暦(ユリウス暦)に換算すると661年6月11日になるので、作中では斉明帝が朝倉橘広庭宮に移ったのは6月とされたのかな、とも思ったのですが、後述する金春秋(武烈王)の死の報せも同時に描くための都合なのかもしれません。
母の斉明帝を朝倉橘広庭宮に迎えた中大兄皇子は、斉明帝に宮の出来栄えを誇ります。ずいぶん内陸に建てたのね、と斉明帝が言うと、ここなら安全だ、戦が本土に及べば海沿いの行宮では簡単に攻め込まれてしまう、と中大兄皇子は説明します。敵に攻め込まれると聞いて驚く斉明帝に、万一を考えてのことだ、と中大兄皇子は言います。敵の新羅・唐が高句麗攻略に手こずっている今出兵すれば杞憂に終わるだろう、その準備もできているので出発の命令を、と中大兄皇子は斉明帝に促しますが、斉明帝には答えません。
そこへ、眼前の池で舟遊びをしている大海人皇子・大田皇女・鸕野讚良皇女(持統天皇)が現れ、斉明帝に声をかけます。風が心地よいので舟で涼みませんか、というわけです。斉明帝は笑顔になり、今行くわ、と言います。すると、まだ話は終わっていない、と言って中大兄皇子が斉明帝の腕をつかみます。しかし、斉明帝は息子の中大兄皇子に冷たい表情を向け、離しなさい、と言います。母の覚悟に気圧されたのか、中大兄皇子は手を離します。大海人皇子・大田皇女・鸕野讚良皇女は舟で楽しく話しており、大海人皇子と中大兄皇子の視線が交差しますが、中大兄皇子は視線をそらし、立ち去ります。
斉明帝が舟に乗ろうとしたところへ官人が現れ、新羅よりの書状を届けます。その書状には、新羅の武烈王(太宗)が薨去し、息子の金法敏(文武王)が即位したとありました。斉明帝は驚き、これで朝鮮半島の情勢も変わるかもしれないのう、と大海人皇子に語りかけますが、大海人皇子は茫然としており、一瞬返事ができませんでした。大海人皇子は我に返り、これからが大変だ、武烈王の死で百済復興軍はますます勢いづくだろうが、その流れに呑み込まれてはなりません、中大兄皇子がいかに派兵を急がせようとも冷静に判断してください、と斉明帝に言い、斉明帝も覚悟を固めた表情で、分かっていると言います。
大海人皇子は海を見ながら(朝倉橘広庭宮から磐瀬行宮に戻ったのでしょうか?)、即位前の武烈王からの忠告を思い出していました。真に事を成したければ、充分な時間をかけて相手を研究し、緻密な計画を立てたうえで待つのだ、さすればその「時」は必ず訪れる、との武烈王の言葉は、今でも大海人皇子にとって宝物でした。この先もずっと心に刻み、忘れません、と大海人皇子は涙を浮かべながら改めて誓います。大海人皇子と武烈王との出会いという創作を上手く活かした、なかなか感動的な場面でした。
大海人皇子が戻ろうとすると、中大兄皇子と遭遇します。軍船の視察ですか、と大海人皇子に問われた中大兄皇子は、そうだ、都合よく金春秋(武烈王)も死んでくれたし、出航も間近だと兵たちに活を入れてきたところだ、と中大兄皇子は答えます。武烈王の後継者の文武王も侮れない、せいぜい気をつけなされませ、と大海人皇子に忠告された中大兄皇子は、他人のことより自分の心配をしたらどうだ、と大海人皇子に言います。しかし、大海人皇子には中大兄皇子の言わんとするところが理解できないようです。
中大兄皇子は大海人皇子に、気づいていないのか、お前が肩入れした奴は皆死んでいく(武烈王や有間皇子や孝徳帝のことでしょうか)、お前は多分呪われているのだ、可哀想に、と憐れむような、また勝ち誇ったような表情で言います。今度、自分が朝倉の杜のご神木で形代を作ってやるから、それを川にでも流して災いを追い払うとよい、神が付いている自分が作れば効果覿面だろう、と中大兄皇子は大海人皇子に言い、勝ち誇ったように笑います。
すると大海人皇子は、呪われてしかるべきは兄上の方では?と中大兄皇子に問いかけ、中大兄皇子の笑いが止まります。兄上が浴びた、無実の父上(蘇我入鹿)の血は、洗い流しても消えない、いずれ必ず、自らを血の涙で滴らせることになるだろう、と大海人皇子は中大兄皇子に言います。すると中大兄皇子は、入鹿の呪いとは望むところだ、物の怪でかまわないから出てきてほしいものよ、そうすれば今度こそ思い切り愛でてやるものを、と言って大笑し、大海人皇子が不愉快そうな表情を浮かべるというところで、今回は終了です。
今回は、この作品の主題と言える、中大兄皇子と大海人皇子との心理戦を中心に話が進み、そこでは中大兄皇子と大海人皇子の母である斉明帝が重要な役割を果たしていました。今回もなかなかおもしろく、次号も楽しみです。このところ中大兄皇子はすっかり調子に乗っている感があり、それを止める役割を母の斉明帝と異父弟の大海人皇子が担っています。大海人皇子が中大兄皇子と対立するのは以前からのことですが、これまで息子の中大兄皇子の言いなりになっていた斉明帝は、息子の大海人皇子に叱責されてから、中大兄皇子に毅然とした態度をとるようになりました。中大兄皇子と、作中では間もなく死ぬことになるだろう斉明帝との関係がどう描かれるのかが、当面の見所になりそうです。
予告は、「とどまるところを知らない中大兄皇子の傲岸・・・・・・次号、とうとう母・斉明帝と運命の大衝突を!?」となっています。今回も、中大兄皇子は母の愛を求めており、母に愛されている弟の大海人皇子に嫉妬しているかのような場面が描かれていました。斉明帝がこのまま最期まで中大兄皇子に毅然とした態度をとり続けられるのか、中大兄皇子の母へのわだかまりは解消されるのか、注目しています。『日本書紀』によると、中大兄皇子は母の死を嘆き悲しんだようなので、母子の間で何らかの和解が成立し、それが中大兄皇子の人間性も変えていくのかな、という気もします。
一方、中大兄皇子が阿曇比羅夫たちを百済救援軍として派遣したのは、661年7月24日に斉明帝が崩御した直後の661年8月でしたから、作中では、中大兄皇子は母の死をとくに嘆き悲しまず、好機として直ちに派兵した、という話になるのかもしれません。斉明帝の崩御後、中大兄皇子は即位せず一定期間称制しています。作中では、中大兄皇子と斉明帝との関係をどう描くかにより、この称制期間の解釈も異なってきそうです。
『天上の虹』では、斉明帝の崩御後、中大兄皇子の同父同母妹の間人皇女が即位したという設定になっていました。中皇命とは女帝であり、間人皇女だったのだ、という説が採用されたわけです。この作品では、間人皇女が未登場どころか、言及さえされていないので、間人皇女が即位したという設定にはならないでしょう。中大兄皇子の称制期間がどのように描かれ解釈されるのかということも、今後の見所になりそうです。
豊璋は百済復興軍の勝利を喜んでいましたが、新羅との和平は進めるつもりのようです。ただ、結局は百済復興軍と倭の連合軍は、唐・新羅連合軍と戦って敗れるわけですから(この作品は大枠では史実から外れないでしょうから、作中でもそうなるでしょう)、豊璋の動向をどう描くかが問題になります。創作を交えて上手く話を作ってくれるのではないか、と期待しています。
今回、史の生死を握っているのはこちらだ、と大海人皇子は豊璋を脅していました。まだずいぶんと先のことになりそうですが、史がどのように世に出たのか、ということも見所になりそうです。豊璋が朝鮮半島に帰還するために倭を出立したのは、『日本書紀』によると661年9月もしくは662年5月です。これは「天智紀」に多い重複記事の一例ですが、作中で661年9月説が採用されるようだと、中大兄皇子は母の斉明帝の死にもさほど衝撃を受けなかった、ということになるのでしょうか。
今後の展開との関連で今回注目されるのは、入鹿の呪いとは望むところだ、物の怪でかまわないから出てきてほしいものよ、そうすれば今度こそ思い切り愛でてやるものを、との中大兄皇子の発言です。中大兄皇子の入鹿への恋愛感情という、この作品の世界観において重要な役割を果たしているだろう創作を活かした、中大兄皇子の大海人皇子にたいする精神的攻撃にもなっているように思います。
しかし、それだけではなく、今後の展開の伏線にもなっているように思います。『日本書紀』によると、朝倉社の神木を伐採して朝倉橘広庭宮を造営した神罰により、宮殿が壊れ、宮中にて「鬼火」が見え、従者たちが多く病死した、とあります。また、661年7月24日に斉明帝が崩御し、翌月1日に中大兄皇子が斉明帝の喪を行なって磐瀬行宮に戻った夕べに、朝倉山の上に「鬼」が現れ、大笠を着て喪を見ていたので、人々が怪しんだ、ともあります。
どうも作中では、この「鬼」が蘇我入鹿と結びつけられるのではないか、と思います。『日本書紀』には、斉明帝治下の655年5月に、青い油笠を着た「唐人」に似た人物が龍に乗って空に現れた、との記事が見えます。『扶桑略記』によると、当時の人々はこの人物を蘇我豊浦大臣(蘇我蝦夷)の霊と言った、とのことです。関裕二氏の最初期の著作である『天武天皇 隠された正体』(KKベストセラーズ、1991年)では、蘇我豊浦大臣=蘇我入鹿であり、この「唐人」に似た人物こそ、斉明帝の喪に現れた「鬼」ではないか、とされています。
この作品が梅原猛氏の見解の影響を大きく受けていることは、原案監修者が明かしています。しかし私は、この作品を知った当初から、蘇我入鹿は聖者で大海人皇子の父であるという設定などからも、どうもこの作品は関裕二氏の見解から大きな影響を受けているのではないか、と考えています。この推測がどこまで妥当なのか分かりませんが、今回の中大兄皇子と大海人皇子との会話からは、「鬼火」や「鬼」の話も取り入れられ、入鹿と関連づけられるのではないか、という気がします。この予想が的中するとしたら、どのように描かれるのか、楽しみです。
今回、鸕野讚良皇女と大田皇女の登場場面はわずかでしたが、鸕野讚良皇女が姉の大田皇女と楽しそうに話している様子が描かれていました。鸕野讚良皇女の人物像はまだ少ししか明らかになっていないのですが、夫・叔父の大海人皇子や姉の大田皇女や祖母の斉明帝といった身近な人々から信頼されて愛されており、良好な関係を築いているようです。どうも、鸕野讚良皇女の容貌と、彼女と周囲の人々との良好な関係とが結びつきにくいのですが、鸕野讚良皇女は気が強くて政治的才能にも優れているとはいっても、冷酷というわけではない人物として描かれるのでしょうか。
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