雄略天皇は実在したと言えるのか
まだ日付は変わっていないのですが、12月22日分の記事として掲載しておきます。この記事では便宜的に、天皇という称号が用いられていないだろう時代の君主についても天皇と表記し、漢風諡号を用い、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位で換算します。以前、神武天皇の実在について雑感を述べた時、神武天皇が実在しないという見解が実証されたとは言えない、と述べました(関連記事)。その時、実在は確実とされる雄略天皇は、果たして本当に実在したと言ってよいのだろうか、との疑問を述べました。
その後、神武天皇の実在について再度雑感を述べたさいに(関連記事)、気力が続けば次は雄略天皇の問題について取り上げると述べたのですが、怠惰な性分なものですから、多忙を口実に2年近く放置してしまいました。また、雄略天皇の実在問題について述べるとはいっても、遠山美都男氏の見解の引用で終わりそうだから、というのも放置した理由の一つでした。ただ、ずっと気になっていた問題なので、遠山氏の見解の引用でほとんど終わるとしても、一度記事としてまとめておこう、と思い立った次第です。
まず、そもそも5世紀以前の天皇の実在とは何を意味するのか、という問題があります。この点について、遠山氏の見解に同意できるところが大いにあるので、以下に引用します。以下、引用は遠山美都男『天皇誕生』(中央公論新社、2001年)からです(P245~246)。
ただ、「実在の初代天皇は一体誰なのか?」、また、「崇神が実在したのか否か?」といった質問の設定のしかたにこだわっていては、いつまでたっても問題は解決しないのではないかと思われます。そもそも、「崇神」が実在したとはどのような意味なのでしょう。それは、ミマキイリヒコイニエという名の王者が実在したということなのか、神祇祭祀制度を確立し、都の四方に将軍を派遣したという事績をもつ王がいたということなのか、はたまた、『日本書紀』の年代観に検討を加えて算出された崇神の時代に日本列島を支配した王がいたということなのか、いっている意味が私にはよくわかりません。特定の天皇を指して「実在か否か?」を議論することに、どれほどの意味が見いだせるでしょうか、はなはだ疑問です。そのような単純な二者択一論を超えて、歴史的事実に接近するより有効な枠組みを模索することが急務であり、それこそが意義のある仕事なのではないでしょうか。
同様のことが、雄略天皇についても言えるのではないか、と思います。一般に、雄略天皇の実在は、『宋書』や稲荷山古墳鉄剣銘でも裏づけられる、と考えられているようですが、そうとも言えないだろう、と思います。以下、雄略天皇についての遠山氏の見解です(P184~186)。
さて、『日本書紀』に見える雄略天皇は、あくまでも仁徳に始まる中国的な王朝の興亡・盛衰物語というフィクションのなかの一登場人物にすぎない。それに対して、辛亥鉄剣銘に見えるワカタケルノ大王は、明らかに五世紀後半に実在した倭国王である。『宋書』倭国伝に見える倭王の名前のうち、武というのは、「猛々しい」「勇猛である」という意味を持った倭王の名前を漢語に翻訳(意訳)したものと考えられるから、ワカタケルすなわち「若々しい勇者」という名前の大王こそは、倭王武と同一人物を指していると考えて大過ないであろう。
ただ、前者(雄略天皇)が後者(ワカタケルノ大王=倭王武)をモデルにしているという関係が成り立たないことはないが、両者を単純に同一人物として結びつけるのは大いに疑問であるといえよう。そもそも両人は、属する世界、あるいは活躍する次元が決定的に異なるのである。
(中略)
これとまったく同じことが『日本書紀』に描かれた雄略天皇と辛亥鉄剣銘や『宋書』倭国伝に見えるワカタケルノ大王・倭王武との関係についてえるわけで、雄略とワカタケルノ大王とは一応切り離して考えるべきであろう。たとえば、前者の名前は、正確にはオオハツセノワカタケなのであって、後者がオオハツセを冠しない、単にワカタケルという名前(ワカタケではない)であることからも明らかなように、両者は名前自体も微妙に異なるのである。
中略した箇所では、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の主人公は、実在した坂本龍馬をモデルにはしているが、あくまでも司馬氏の創造の産物であり、両者は別個の人格だ、と述べられています。なお、遠山氏は「倭王武」=「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は確実と述べていますが、これも確定とは言い難いように思います。その可能性は高そうではあるものの、倭王の名前を漢語に翻訳(意訳)したという解釈については、再検討の余地がありそうです。
『日本書紀』に見える雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)と、実在がほぼ確実と言えるだろう稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」および『宋書』に見える「倭王武」とでは、伝わる内容に食い違いが見られます。確かに、『日本書紀』の雄略天皇と稲荷山古墳鉄剣銘に見える大王の名前は似ていますが、遠山氏の指摘のように、微妙に異なります。
また、稲荷山古墳鉄剣銘に見える大王は斯鬼宮にいたとされていますが、雄略天皇が宮を置いたのは泊瀬朝倉です。もちろん、泊瀬朝倉を含む一帯を5世紀後半にはシキと呼んだ可能性も、雄略天皇が複数の宮を設けた可能性も考えられますが、記録を表面的に見ると一致はしていません。ちなみに『日本書紀』によると、6世紀の欽明天皇の宮は磯城(シキ)郡磯城島にあったとのことです。
また、雄略天皇と倭王武にも食い違いはあります。そもそも、『日本書紀』には雄略天皇が宋に使者を派遣したことを記載していません。もっとも、これは宋に冊封されたことが不都合だったからなのでしょうし、いわゆる倭の五王について、『日本書紀』には一切記録が見えません(雄略朝に呉からの献上があったことは記載されていますが)。また、北朝の系譜に連なる唐朝を憚って、南朝の宋との通交に触れなかった、という理由も考えられます。
しかし、ともかく、雄略天皇と倭王武を伝える文献が直接的には符合しないことを重視すべきだろう、とは思います。もっとも、たちまちのうちに父と兄を喪った、との倭王武の上表文と、父の允恭天皇が亡くなり、その3年後に皇位を継承した兄も亡くなって(殺害されて)雄略が即位した、との『日本書紀』の記事は符合すると言えるかもしれません。しかし、これも確定的とするには弱いと思います。
けっきょくのところ、『日本書紀』に見える雄略天皇の物語的性格の強い事績が、『宋書』や稲荷山古墳鉄剣銘により裏づけられているとは必ずしも言えないように思います。物語的性格の強い『日本書紀』の雄略天皇像と、稲荷山古墳鉄剣銘の「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」および『宋書』の「倭王武」が、似た名前ということ以外に重ならないわけです。
両者が名前以外の点で重なってきた時に、雄略天皇の実在という議論がはじめて意味を持ってくるのではないか、と思います。今後の考古学的研究成果の進展により状況は変わってくるかもしれませんが、現状では、雄略天皇の実在というか、『日本書紀』に見える雄略天皇の事績を根拠に5世紀後半~6世紀前半の歴史を論じるのは時期尚早のように思います。
雄略天皇の実在をめぐる問題は、夏王朝の実在議論と似ているように思います。殷(商)の遺跡よりも前の考古学的遺跡(二里頭遺跡)が確認されたので、『史記』などの文献に見える夏王朝の実在も確認され、文献に見える夏王朝についての記録も妥当だと認められる、との論理が中華人民共和国では見られるようです。しかし、二里頭遺跡と諸文献に見える夏王朝とが一致するのか、現状では確たる根拠がない、と考えるのが妥当なところでしょう。文献解釈と考古学的成果との間の相互補完は必要な作業ですが、それが安易なもたれ合いに堕落してはならない、と思います。まあ、これは私のような非専門家がとくに自戒すべきことではありますが。
その後、神武天皇の実在について再度雑感を述べたさいに(関連記事)、気力が続けば次は雄略天皇の問題について取り上げると述べたのですが、怠惰な性分なものですから、多忙を口実に2年近く放置してしまいました。また、雄略天皇の実在問題について述べるとはいっても、遠山美都男氏の見解の引用で終わりそうだから、というのも放置した理由の一つでした。ただ、ずっと気になっていた問題なので、遠山氏の見解の引用でほとんど終わるとしても、一度記事としてまとめておこう、と思い立った次第です。
まず、そもそも5世紀以前の天皇の実在とは何を意味するのか、という問題があります。この点について、遠山氏の見解に同意できるところが大いにあるので、以下に引用します。以下、引用は遠山美都男『天皇誕生』(中央公論新社、2001年)からです(P245~246)。
ただ、「実在の初代天皇は一体誰なのか?」、また、「崇神が実在したのか否か?」といった質問の設定のしかたにこだわっていては、いつまでたっても問題は解決しないのではないかと思われます。そもそも、「崇神」が実在したとはどのような意味なのでしょう。それは、ミマキイリヒコイニエという名の王者が実在したということなのか、神祇祭祀制度を確立し、都の四方に将軍を派遣したという事績をもつ王がいたということなのか、はたまた、『日本書紀』の年代観に検討を加えて算出された崇神の時代に日本列島を支配した王がいたということなのか、いっている意味が私にはよくわかりません。特定の天皇を指して「実在か否か?」を議論することに、どれほどの意味が見いだせるでしょうか、はなはだ疑問です。そのような単純な二者択一論を超えて、歴史的事実に接近するより有効な枠組みを模索することが急務であり、それこそが意義のある仕事なのではないでしょうか。
同様のことが、雄略天皇についても言えるのではないか、と思います。一般に、雄略天皇の実在は、『宋書』や稲荷山古墳鉄剣銘でも裏づけられる、と考えられているようですが、そうとも言えないだろう、と思います。以下、雄略天皇についての遠山氏の見解です(P184~186)。
さて、『日本書紀』に見える雄略天皇は、あくまでも仁徳に始まる中国的な王朝の興亡・盛衰物語というフィクションのなかの一登場人物にすぎない。それに対して、辛亥鉄剣銘に見えるワカタケルノ大王は、明らかに五世紀後半に実在した倭国王である。『宋書』倭国伝に見える倭王の名前のうち、武というのは、「猛々しい」「勇猛である」という意味を持った倭王の名前を漢語に翻訳(意訳)したものと考えられるから、ワカタケルすなわち「若々しい勇者」という名前の大王こそは、倭王武と同一人物を指していると考えて大過ないであろう。
ただ、前者(雄略天皇)が後者(ワカタケルノ大王=倭王武)をモデルにしているという関係が成り立たないことはないが、両者を単純に同一人物として結びつけるのは大いに疑問であるといえよう。そもそも両人は、属する世界、あるいは活躍する次元が決定的に異なるのである。
(中略)
これとまったく同じことが『日本書紀』に描かれた雄略天皇と辛亥鉄剣銘や『宋書』倭国伝に見えるワカタケルノ大王・倭王武との関係についてえるわけで、雄略とワカタケルノ大王とは一応切り離して考えるべきであろう。たとえば、前者の名前は、正確にはオオハツセノワカタケなのであって、後者がオオハツセを冠しない、単にワカタケルという名前(ワカタケではない)であることからも明らかなように、両者は名前自体も微妙に異なるのである。
中略した箇所では、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の主人公は、実在した坂本龍馬をモデルにはしているが、あくまでも司馬氏の創造の産物であり、両者は別個の人格だ、と述べられています。なお、遠山氏は「倭王武」=「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は確実と述べていますが、これも確定とは言い難いように思います。その可能性は高そうではあるものの、倭王の名前を漢語に翻訳(意訳)したという解釈については、再検討の余地がありそうです。
『日本書紀』に見える雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)と、実在がほぼ確実と言えるだろう稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」および『宋書』に見える「倭王武」とでは、伝わる内容に食い違いが見られます。確かに、『日本書紀』の雄略天皇と稲荷山古墳鉄剣銘に見える大王の名前は似ていますが、遠山氏の指摘のように、微妙に異なります。
また、稲荷山古墳鉄剣銘に見える大王は斯鬼宮にいたとされていますが、雄略天皇が宮を置いたのは泊瀬朝倉です。もちろん、泊瀬朝倉を含む一帯を5世紀後半にはシキと呼んだ可能性も、雄略天皇が複数の宮を設けた可能性も考えられますが、記録を表面的に見ると一致はしていません。ちなみに『日本書紀』によると、6世紀の欽明天皇の宮は磯城(シキ)郡磯城島にあったとのことです。
また、雄略天皇と倭王武にも食い違いはあります。そもそも、『日本書紀』には雄略天皇が宋に使者を派遣したことを記載していません。もっとも、これは宋に冊封されたことが不都合だったからなのでしょうし、いわゆる倭の五王について、『日本書紀』には一切記録が見えません(雄略朝に呉からの献上があったことは記載されていますが)。また、北朝の系譜に連なる唐朝を憚って、南朝の宋との通交に触れなかった、という理由も考えられます。
しかし、ともかく、雄略天皇と倭王武を伝える文献が直接的には符合しないことを重視すべきだろう、とは思います。もっとも、たちまちのうちに父と兄を喪った、との倭王武の上表文と、父の允恭天皇が亡くなり、その3年後に皇位を継承した兄も亡くなって(殺害されて)雄略が即位した、との『日本書紀』の記事は符合すると言えるかもしれません。しかし、これも確定的とするには弱いと思います。
けっきょくのところ、『日本書紀』に見える雄略天皇の物語的性格の強い事績が、『宋書』や稲荷山古墳鉄剣銘により裏づけられているとは必ずしも言えないように思います。物語的性格の強い『日本書紀』の雄略天皇像と、稲荷山古墳鉄剣銘の「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」および『宋書』の「倭王武」が、似た名前ということ以外に重ならないわけです。
両者が名前以外の点で重なってきた時に、雄略天皇の実在という議論がはじめて意味を持ってくるのではないか、と思います。今後の考古学的研究成果の進展により状況は変わってくるかもしれませんが、現状では、雄略天皇の実在というか、『日本書紀』に見える雄略天皇の事績を根拠に5世紀後半~6世紀前半の歴史を論じるのは時期尚早のように思います。
雄略天皇の実在をめぐる問題は、夏王朝の実在議論と似ているように思います。殷(商)の遺跡よりも前の考古学的遺跡(二里頭遺跡)が確認されたので、『史記』などの文献に見える夏王朝の実在も確認され、文献に見える夏王朝についての記録も妥当だと認められる、との論理が中華人民共和国では見られるようです。しかし、二里頭遺跡と諸文献に見える夏王朝とが一致するのか、現状では確たる根拠がない、と考えるのが妥当なところでしょう。文献解釈と考古学的成果との間の相互補完は必要な作業ですが、それが安易なもたれ合いに堕落してはならない、と思います。まあ、これは私のような非専門家がとくに自戒すべきことではありますが。
この記事へのコメント
大泊瀬幼武尊をオオハツセのワカタケルの尊ではなく、オオハツセノワカタケの尊と読む根拠はなんでしょうか?
ヤマトタケルの尊も日本書紀では日本武尊ですが、ヤマトタケの尊とは読みませんよね。
日本武については、新訂増補国史大系の『日本書紀』によると、熱田神宮所蔵本では「ヤマトタケ」と読まれていますね。
はじめまして。今後ともよろしくお願い申し上げます。
武○○はタケ○○と読み、○○武は○○タケルと読むという固定概念があったようです。
よく考えてみると、アマテラス大神やアマテラシマス皇大神であって、アマテラスの大神でないように、修飾語的なタケルに「の尊」と続ける名前は記紀の時代だと変ですね。嵯峨源氏っぽいです。
村山七郎氏によると、takeはインドネシア語などの南島語で男を意味するlakiと同源らしいので、後ろに「の」をつけて読むならタケの方がしっくり来そうです。
言語比較には詳しくないのですが、調べたら色々と面白そうだな、と思います。
古代史研究で音韻学の果たす役割は大きいようですね。