一神教をめぐる俗論について
まだ日付は変わっていないのですが、12月10日分の記事として掲載しておきます。以前このブログで述べたことがありますが、私は小さい頃からのアンチキリスト教で、偏見を正さなければ、と自分でも思うことがしばしばあります(関連記事)。私は聖人君子とは程遠い人間であり、未熟なところが多いので、自分の見解に有利だと思われる情報にはつい食いつきがよくなります。多くの人にはそうした傾向があるのでしょうが、私は平均以上かもしれません。
最近も、キリスト教を批判するネット上の記事を色々と読み、恥ずかしながらフニペロ=セラのことを初めて知りました(これまでに読んだ本のなかに言及したものがあったかもしれませんが、記憶にありませんでした)。まだウィキペディアで知識を得たくらいなので、そのうち関連書籍を読んでみよう、と考えています。また、聖者扱いされて有名なクリスチャンの故人を批判する記事も読み、たいへん興味深かったのですが、確証を得るまでは、ブログで具体的に言及することは控えておくつもりです。
そんな自覚的なアンチキリスト教の私でさえ、非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界、現代社会の危機の根本的要因としての一神教的世界観という、現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる俗論には昔から批判的でした。たとえば現代日本社会では、小沢一郎民主党幹事長(当時)の如き「大物政治家」もそのような発言をしていますし(関連記事)、環境問題など現在の地球規模での危機の主因を一神教的思考に求める比較宗教学・比較文明論の研究者(関連記事)や、一神教の独りよがりの教条が現代の世界各地の紛争の大きな原因になっているとし、それに替わる価値観として東アジアの思想を示唆する東洋思想史の研究者(関連記事)がいます。
こうした俗論を本気で否定するとなると、広範な学識と強靭な思考力が要求されるでしょうから、とても私の手には負えません。しかし、少し常識的に考えてみても、たとえば環境問題は、一神教が浸透していない時代から西アジアや東アジアで見られるものでした。現代の環境問題はもっと深刻だとの反論はあるかもしれませんが、それは生産技術の発展・拡大によるものであり、世界観の変容に根本的要因が求められるわけではありません。
こうした俗論の問題点の一つとして、「自然と共存する先住民」という言説と結びつきやすいことが挙げられます。この言説の問題点は、「未開の先住民」観念と結合しやすいことです。「未開の先住民」観念とは、たとえば、「コロンブス以前」にはアマゾン流域は未開だった、というような見解で、「高貴な野蛮人」観念とも親和的です。こうした言説が誤りであることは、近年の諸研究の示すところです。
「コロンブス以前」のアマゾン流域が未開だったという見解の誤りを指摘する文献は、日本語だと『アマゾン文明の研究』(関連記事)や『1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』(関連記事)があります。また、アマゾン川の支流の一つであるシングー川上流には、先コロンブス期に人口密度の高い集落が存在しており、大規模な環境開発が行なわれていたことも指摘されています(関連記事)。
これらは、程度の差こそあれ、アマゾン流域に限らず、「コロンブス以前」のアメリカ大陸に当てはまりそうです。ヨーロッパ人が「新大陸を発見」した時、そこには広大な手つかずの自然が存在した、との見解は誤りだろう、というわけです。しかし、現代の政治的正しさ(political correctness)の代表例の一つとも言える環境保護運動の側からは、「コロンブス以前」のアメリカ大陸が大規模に開発されていたという見解は敵視される傾向にあるようです。開発派を利することになるから、というのがその理由だそうです。
政治的正しさは現代世界ではきわめて影響力の強い概念です(とくにいわゆる先進国では)。現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる、非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界、現代社会の危機の根本的要因としての一神教的世界観という俗論も、これだけならば政治的正しさに反するでしょうから、注目される公的立場にいながら堂々と主張するような人はさほど多くないでしょう。しかし、そうした俗論が「自然と共存する先住民」という観念を前面に押し出してきた場合は、政治的正しさの「お墨付き」を得て、大手メディアでも堂々と主張され、社会全体に浸透するかもしれません。
と言いますか、現実には日本社会でもかなり浸透してしまっているように思います。私はとくに感じているのですが、個人の能力・気力には限界があります。政治的正しさの「お墨付き」を得た観念となると、ついそのまま受け入れてしまうことも多いでしょうが、たまには疑うというか、見直してみようと考えることも必要なのでしょう。まあ、提言は容易ですが、実行するとなると、私のように容量の小さい人間にはたいへん難しいことではありますが。
最近も、キリスト教を批判するネット上の記事を色々と読み、恥ずかしながらフニペロ=セラのことを初めて知りました(これまでに読んだ本のなかに言及したものがあったかもしれませんが、記憶にありませんでした)。まだウィキペディアで知識を得たくらいなので、そのうち関連書籍を読んでみよう、と考えています。また、聖者扱いされて有名なクリスチャンの故人を批判する記事も読み、たいへん興味深かったのですが、確証を得るまでは、ブログで具体的に言及することは控えておくつもりです。
そんな自覚的なアンチキリスト教の私でさえ、非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界、現代社会の危機の根本的要因としての一神教的世界観という、現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる俗論には昔から批判的でした。たとえば現代日本社会では、小沢一郎民主党幹事長(当時)の如き「大物政治家」もそのような発言をしていますし(関連記事)、環境問題など現在の地球規模での危機の主因を一神教的思考に求める比較宗教学・比較文明論の研究者(関連記事)や、一神教の独りよがりの教条が現代の世界各地の紛争の大きな原因になっているとし、それに替わる価値観として東アジアの思想を示唆する東洋思想史の研究者(関連記事)がいます。
こうした俗論を本気で否定するとなると、広範な学識と強靭な思考力が要求されるでしょうから、とても私の手には負えません。しかし、少し常識的に考えてみても、たとえば環境問題は、一神教が浸透していない時代から西アジアや東アジアで見られるものでした。現代の環境問題はもっと深刻だとの反論はあるかもしれませんが、それは生産技術の発展・拡大によるものであり、世界観の変容に根本的要因が求められるわけではありません。
こうした俗論の問題点の一つとして、「自然と共存する先住民」という言説と結びつきやすいことが挙げられます。この言説の問題点は、「未開の先住民」観念と結合しやすいことです。「未開の先住民」観念とは、たとえば、「コロンブス以前」にはアマゾン流域は未開だった、というような見解で、「高貴な野蛮人」観念とも親和的です。こうした言説が誤りであることは、近年の諸研究の示すところです。
「コロンブス以前」のアマゾン流域が未開だったという見解の誤りを指摘する文献は、日本語だと『アマゾン文明の研究』(関連記事)や『1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』(関連記事)があります。また、アマゾン川の支流の一つであるシングー川上流には、先コロンブス期に人口密度の高い集落が存在しており、大規模な環境開発が行なわれていたことも指摘されています(関連記事)。
これらは、程度の差こそあれ、アマゾン流域に限らず、「コロンブス以前」のアメリカ大陸に当てはまりそうです。ヨーロッパ人が「新大陸を発見」した時、そこには広大な手つかずの自然が存在した、との見解は誤りだろう、というわけです。しかし、現代の政治的正しさ(political correctness)の代表例の一つとも言える環境保護運動の側からは、「コロンブス以前」のアメリカ大陸が大規模に開発されていたという見解は敵視される傾向にあるようです。開発派を利することになるから、というのがその理由だそうです。
政治的正しさは現代世界ではきわめて影響力の強い概念です(とくにいわゆる先進国では)。現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる、非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界、現代社会の危機の根本的要因としての一神教的世界観という俗論も、これだけならば政治的正しさに反するでしょうから、注目される公的立場にいながら堂々と主張するような人はさほど多くないでしょう。しかし、そうした俗論が「自然と共存する先住民」という観念を前面に押し出してきた場合は、政治的正しさの「お墨付き」を得て、大手メディアでも堂々と主張され、社会全体に浸透するかもしれません。
と言いますか、現実には日本社会でもかなり浸透してしまっているように思います。私はとくに感じているのですが、個人の能力・気力には限界があります。政治的正しさの「お墨付き」を得た観念となると、ついそのまま受け入れてしまうことも多いでしょうが、たまには疑うというか、見直してみようと考えることも必要なのでしょう。まあ、提言は容易ですが、実行するとなると、私のように容量の小さい人間にはたいへん難しいことではありますが。
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