『週刊新発見!日本の歴史』第20号「鎌倉時代3 対モンゴル戦争は何を変えたか」
これは11月7日分の記事として掲載しておきます。この第20号は北条時頼が執権職を辞任した頃から後醍醐天皇の即位の頃までを対象としています。この第20号が強調している「新発見」は、一回目のモンゴル襲来(文永の役)後、北条時宗が逆にモンゴル帝国(大元ウルス)の出撃拠点である高麗へと攻め込む計画を立てていた、ということです。もっとも、これは一般読者層にも割とよく知られた話かもしれません。モンゴル襲来の前後の外交関係において、滅亡前の南宋がモンゴル帝国から日本に送られた招諭使の活動を妨害しようとしていた、という「新発見」の方は、一般読者層にはあまり知られていないかもしれません。
鎌倉時代の社会経済状況についての論考は、「新発見」的というか通説(教科書的な説明)とは異なる見解を提示しています。農業生産力が向上し、貨幣が浸透して都市・流通経済の発達した鎌倉時代、というのが通説でしょうが、この第20号では、鎌倉時代は気候変動や環境の変化の大きい不安定な時代であり、耕作面積が減少して農業生産は後退した、とされています。もっとも、その分を二毛作などの生産効率の向上で補ったのではないか、耕作面積の減少は日本列島全体の傾向なのか、などといった疑問は残ります。
鎌倉時代の社会経済状況についての論考は、「新発見」的というか通説(教科書的な説明)とは異なる見解を提示しています。農業生産力が向上し、貨幣が浸透して都市・流通経済の発達した鎌倉時代、というのが通説でしょうが、この第20号では、鎌倉時代は気候変動や環境の変化の大きい不安定な時代であり、耕作面積が減少して農業生産は後退した、とされています。もっとも、その分を二毛作などの生産効率の向上で補ったのではないか、耕作面積の減少は日本列島全体の傾向なのか、などといった疑問は残ります。
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