遠山美都男『敗者の日本史1 大化改新と蘇我氏』
まだ日付は変わっていないのですが、11月29日分の記事として2本掲載しておきます(その二)。『敗者の日本史』全20巻の第1巻として、2013年11月に吉川弘文館より刊行されました。このブログでは以下のように何度か遠山氏の著書を取り上げてきました。
『古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか』
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_25.html
『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』
https://sicambre.seesaa.net/article/200901article_22.html
『天智と持統』
https://sicambre.seesaa.net/article/201206article_26.html
『日本書紀の虚構と史実』
https://sicambre.seesaa.net/article/201209article_26.html
『聖徳太子の「謎」』
https://sicambre.seesaa.net/article/201303article_1.html
その他にも5冊程度遠山氏の著書を読んだことがありますが、ブログを始める前のことだったので、まだブログでは単独の記事として取り上げていません。全てではないにしても、私は遠山氏の著書を割と多く読んできましたので、遠山節が全開の本書もすんなりと読み進められました。これまで、大化改新や蘇我氏についてさまざまな著書で言及してきました遠山氏にとって、本書は蘇我氏・大化改新論の現時点での集大成になるのかな、というのが読後感です。以下、本書についての感想です。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。
本書の鍵となる用語が、「公共事業」です。しかし、本書の「公共事業」は、祭祀・寺院や宮の造営・外交・軍事などさまざまな行為を含んでおり、曖昧な感は否めません。さらに、そこに「主宰権」という概念も持ち込んでいるので、「公共事業」がいっそう融通無碍な概念になっており、正直なところ、ご都合主義的に使われている感は否めません。本書は、乙巳の変により天皇(大王)家が「公共事業」の主宰権を蘇我氏から奪い、その後に進められた改革政策が大化改新だった、と主張します。
本書は、蘇我氏(本宗家)が天皇(大王)に取って代わろうとして成敗された、という伝統的な見解を否定しています。しかし、「公共事業」の主宰権という概念で6~7世紀の政治史を把握しているため、天皇中心の国家を建設するために蘇我氏(本宗家)は討滅された、という伝統的な見解の枠組みに近接しているようにも思います。以下、本書の見解について、備忘録的に述べていきます。
本書の構成は次の通りです。まず、蘇我氏本宗家が天皇(大王)に取って代わろうとして成敗された、という伝統的な見解を否定します。次に、蘇我氏本宗家が成敗された理由を、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の当主四代とその他の蘇我氏の重要人物の事績を検証しつつ、探っていきます。最後に、大化改新の実像を検証し、蘇我氏の事績を検証していくなかで導かれた仮説の妥当性を確認します。まずは、「蘇我氏本宗家逆臣説」の検証についてです。
率直に言って、本書は「蘇我氏本宗家逆臣説」の否定に成功しているとは言い難いように思います。だからといって、伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」の方により説得力がある、というわけでもありませんが。本書は、少なくとも欽明天皇(大王)以降、皇族(王族)はウジナもカバネも持たず、豪族に与える側だったと指摘し、そもそも中華世界とは異なり日本(倭)では易姓革命は起きようがなかった、と指摘します。しかし、後の8世紀の道鏡事件を想起すると、7世紀においても、易姓革命というか王統の交代は、「中央」の支配層にとってある程度想定されていたのではないか、とも思います。
「蘇我氏本宗家逆臣説」の根拠とされてきた、『日本書紀』に見える蘇我氏本宗家の「僭越な振る舞い」について、本書は類似した行為がじっさいにあった可能性を否定していません。ただ、そうした天皇(大王)に準ずる地位・振る舞いは、蘇我氏本宗家の場合と一致しているわけではないにしても、後に藤原氏にも認められているとして、天皇(大王)家が蘇我氏本宗家のそれまでの貢献に報いるために認めたのではないか、というのが本書の見解です。ただ、「蘇我氏本宗家逆臣説」の否定の根拠として、後の藤原氏の事例は決定打にはならないと思いますし、そもそも蘇我氏本宗家の「僭越な振る舞い」自体が、後世の創作である可能性もあるでしょう。
「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定するさらなる根拠として本書が挙げているのが、森博達氏の『日本書紀』区分論です。基本的には正格漢文で書かれている『日本書紀』「皇極紀」において、乙巳の変の該当箇所には倭習(漢文の誤用・奇用)が見られます。このことから、乙巳の変の該当箇所は、一度完成した後に書き換えられたのではないか、と本書は主張します。しかし、書き換えられた可能性は高いにしても、書き換えられる前の「原文」は見つかっていないわけですから、これも「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定する決定的証拠としては弱いように思います。
本書は、『日本書紀』が「蘇我氏本宗家逆臣説」を印象づけるようになったのは、天智天皇(葛城皇子、中大兄皇子)にたいする評価が変わったからではないか、と主張します。壬申の乱で近江朝政権を倒した天武天皇(大海人皇子)と持統天皇(鸕野讚良皇女)は、簒奪という汚名を拭い去るために、奸臣を除き偉大な天智天皇の業績を継ごうとして、やむを得ず天智天皇の息子の大友皇子を死に追いやってしまった、という物語を創作しました。
その後、文武天皇以降に皇位継承のさいに天智天皇の「遺訓(不改常典)」を根拠としたため、天智天皇は律令国家の開祖として祭り上げられました。その結果として、天智天皇が若き日に蘇我入鹿を殺害したことが、簒奪しようとした逆臣を成敗したと解釈されるようになった、というのが本書の見解です。これも推論に推論を重ねたという水準に止まっており、「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定する決定的根拠にはなっていないと思います。
また本書では、「日本」が「中国」王朝と同格であることを示そうとした史書が『日本書紀』であり、それが「蘇我氏本宗家逆臣説」とも関連していることも指摘されています。「中国」王朝と同格である「日本」でも、じっさいには起きようのなかった「王朝交替」が起きたことを、『日本書紀』は述べているというわけです。それは「仁徳王朝」の滅亡であり、「中国」王朝でもたびたび起きた王朝滅亡の危機でした。この王朝滅亡の危機こそ、蘇我氏本宗家による「欽明(もしくは継体)王朝簒奪」の企てだった、というわけです。上述した理由で欽明(もしくは継体)以降には王朝交替が起こり得ず、それよりも前の倭国(日本)にはそもそも王朝が存在しなかった、というのが本書の見解です。
私は必ずしも全面的に納得したわけではありませんが、「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定したと主張する本書は次に、蘇我氏本宗家が成敗された理由を稲目・馬子・蝦夷・入鹿の族長四代とその他の蘇我氏の重要人物の事績に探っていきます。本書はまず、蘇我氏の系譜について、稲目の父とされる高麗以前は創作だろう、と主張します。その根拠は、稲荷山古墳出土の鉄剣銘などに見える系譜の分析から、他の氏族との共通祖先と現実の祖先とをつなぐ祖先として創作されたと考えられるから、とされています。興味深い分析ではありますが、とても確定したとは言えそうにありません。
この系譜分析において、蘇我氏の祖先とされている石川宿禰・満智・韓子・高麗は、蘇我氏でも蘇我倉山田石川麻呂の系統が創作したものだろう、と本書では推測されています。『日本書紀』における乙巳の変の記事からも、石川麻呂の職掌に朝鮮半島諸国の貢納物に関するものがあり、満智・韓子・高麗という祖先の名は、蘇我氏が渡来系であることを意味するのではなく、石川麻呂の職掌に由来するのだ、というのが本書の見解です。さらに、石川麻呂はその職掌ゆえに蘇我氏内部やその周辺では韓人と呼ばれていた可能性があり、そうだとすると、乙巳の変のさいの古人大兄王子の「韓人殺鞍作臣」という発言も理解できる、と本書は推測しています。たいへん興味深い見解なのですが、これも証明されたとは言い難いというか、証明が難しいとは思います。
本書が蘇我氏の人物で実在すると認めるのは稲目以降です。その稲目が台頭した理由は、5世紀まで強大な勢力を誇った葛城氏の娘との婚姻を通じて葛城氏を継承する立場になったからだ、と本書では推測されています。後の馬子の発言からして、稲目と葛城氏の娘との婚姻の可能性は高いとされています。馬子が稲目の後継者として認知されて高い地位を確固たるものにしたのも、母が葛城氏出身で葛城氏の財産も継承したからだ、と本書は推測しています。しかし、蘇我氏台頭以前に葛城氏がどこまで実態のある氏族だったのか、疑問が残ります。
その理由が何であれ、稲目が宣化・欽明朝で重用されたのはおそらく事実でしょう。本書は、皇位(王位)継承の「本命」たる欽明天皇(大王)がまだ若いので、その前代の「中継ぎ」たる宣化天皇(大王)の代に、有力豪族の代表者たる群臣を大臣が統括して欽明を支えるという体制が創始され、稲目が大臣に任命されたのだ、と推測しています。この大臣就任が、蘇我氏の発展の起点となります。
蘇我氏発展の第二段階の画期だと本書が主張するのが、仏教伝来(仏教受容)です。仏教伝来がいつなのか正確な年代は不明だが、欽明朝であることは確かだろう、というのが本書の見解です。仏教受容のさいに、信仰の是非をめぐって議論があった、という見解は近年では否定される傾向にあるようで、それは本書でも同様です。しかし、仏教受容のさいに蘇我氏と物部氏・中臣氏の間で対立はあったかもしれない、と本書は推測しています。その理由が、蘇我氏の飛躍と関わってきます。
仏教が浸透する前の日本列島において、神はしかるべき人物・氏族にその祭祀が委託されるという形式が採られていた、というのが本書の認識です。仏教受容時、倭国中枢では仏=「蕃神」と考えられていたので、その祭祀が稲目に委託された、というのが本書の見解です。本書はその理由として、稲目の娘と欽明との婚姻関係などから、欽明は稲目を信頼していただろうということと、名前の末尾に「目」を称する者はシャーマンだった可能性が高いことを指摘しています。
この結果として、外来の文化・技術を有する渡来人集団が蘇我氏の指揮下に編成されることになり、蘇我氏が飛躍する契機になった、と本書は指摘します。蘇我氏と物部氏・中臣氏の間で対立があったとしたら、渡来人集団の把握をめぐる問題と、在来の神々の祭祀を委託されていた物部氏・中臣氏が、自分たちではなく蘇我氏が委託されたことに不満を持ったからだろう、と本書は推測しています。仏教受容に関する本書の見解もたいへん魅力的ではあるのですが、やはり確定的とは言い難いように想います。
稲目の後継者となった馬子の代に、蘇我氏にとってさらなる飛躍の契機となったのが、飛鳥寺の造営でした。仏たる「蕃神」の祭祀を委託されたことと、それによる渡来人集団の把握を前提として、蘇我氏は飛鳥寺造営を主導します。しかし、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺ではなく、官寺(国家の寺)であり、その発願者は推古天皇(大王)である、というのが本書の見解です。
この飛鳥寺造営を契機に、蘇我氏はさらに渡来人集団をしっかりと掌握するようになり、王宮・墳墓・都城などの造営工事も主管するようになる、というのが本書の見解です。蘇我氏は大臣としての地位と王族との婚姻関係のみではなく、王権が必要とする「公共事業」を主宰することにより、倭国において不動の地位を築き上げた、というわけです。蘇我氏は王族にとっての潜在的脅威ではなく、王権・国家にとって重要かつ不可欠の役割を果たしていた、というのが本書の見解です。
本書は、鉄資源の確保と密接に関わっていた対外戦争も「公共事業」の一環だった、と主張します。出兵計画だけに終わったものも含めて、対外戦争に蘇我氏のなかでも境部の系統が起用されたのは、境界の画定やそれにともなう境界祭祀を任されていたからであり、それゆえに境部氏は蘇我氏のなかでも本宗家に次ぐ位置を占めることになったのだ、というのが本書の見解です。本書の「公共事業」論には疑問が残りますが、この点は後述します。
馬子の次の蝦夷の代になると、蘇我氏の前途に暗い影が差します。その発端となったのが、推古死後の後継者問題でした。推古は後継者として田村王子(舒明天皇)を指名した、というのが本書の認識です。しかし、厩戸王子(聖徳太子)の息子である山背大兄王子(『日本書紀』本文では両者の親子関係が明示されていないのですが)が王位継承を主張し、紛糾します。この時、蝦夷は「独り嗣位を定めむと欲へり」とされていますが、これは蝦夷が独断で次期大王を決めようとしたのではなく、前大王たる推古の遺志が明らかなので、大臣の職権において直ちに実行してもかまわないと考えたからでした。
しかし、蝦夷は群臣のなかに反対の意見が出ることを懸念して、じゅうらい通り大臣として群臣の意見を取りまとめようとします。大臣の蝦夷と群臣の多くは推古の遺志に従おうとしますが、蘇我氏の一族である境部摩理勢は、軍事・外交を通じての厩戸王子との深い関係から山背大兄の即位に拘ります。蝦夷は個人としては山背大兄に期待していたものの、前大王の遺志に背くことはできませんでした。境部摩理勢は蘇我氏の族長たる蝦夷の権威を否定する行為に出たので、蝦夷は境部摩理勢とその一族を討伐し、田村が即位します。
本書は推古の後継者問題をこのように解釈し、蘇我氏にとって最初の躓きになった、との見解を提示しています。これも魅力的な見解ではありますが、「独り嗣位を定めむと欲へり」の解釈と、そもそも蝦夷がそのように考えていたのかという点について、疑問が残ります。なお、本書はこの後継問題において登場する蘇我倉麻呂臣(別名は雄正)について、蘇我倉山田石川麻呂の父というのが通説だが、そうではなく蘇我倉山田石川麻呂その人であり、馬子の孫ではなく子である、との見解を提示しています。
舒明朝・皇極朝において強大な唐が成立し、それと関連して朝鮮半島情勢の緊張が高まっていきます。「国際情勢」の緊張により、倭国の王権強化のためにも大規模な公共建造物が要求され、大規模な「対外戦争」も想定せざるを得なくなりました。「公共事業」を主宰する蘇我氏は、馬子の代までには考えられなかったような深刻な事態に直面していた、というのが舒明朝・皇極朝における蘇我氏の立場についての本書の見解です。
大規模な公共建造物に関して、舒明朝における百済大宮・百済大寺の造営は、舒明が祖父の敏達天皇(大王)とのつながりを誇示したものであり、蘇我氏の協力があっただろうとはいえ、「公共事業」の主宰者たる蘇我氏への大王家からの干渉の始まりだった、との見通しを本書は提示しています。なお、「国際情勢」の緊張に対応した王権強化策の一環として、舒明朝・皇極朝において史書の編纂(『天皇記』・『国記』と『日本書紀』に見えるもの)が始まり、それは蘇我氏の主宰する「公共事業」だった、と本書は主張しています。
舒明朝・皇極朝において、王宮の造営などにさいして、じゅうらいの部・屯倉を通じての物資・労力の収取を受け継ぎながらも、「国」という一定の領域を単位とした徴収に転換しつつあった、と本書は指摘します。物資や労力の大規模で円滑な徴収・動員は、帳簿による民衆の把握・編成があるていど進展していたからであり、そうした効率的な大規模動員を要請したのは、「国際情勢」の緊張にあっただろう、との見解を本書は提示します。
こうした造営事業にともなう大規模な動員は、蘇我氏本宗家の「僭越な振る舞い」の事例として知られる、蝦夷・入鹿父子による自らの墳墓造営でも見られます。本書は、この動員は皇極が蘇我氏への恩賞として許可したものであろうし、この動員に舂米女王(山背大兄の異母妹にして妻)が強く異を唱えたことから、皇極は上宮王家への敵意を抱いたのではないか、と推測しています。なお、舒明朝・皇極朝における百済大寺や飛鳥板蓋宮や蝦夷・入鹿父子の墳墓の造営にさいしては労働力の節減が強く意識されており、それが大化改新の政策にもつながっている、との見通しを本書は提示しています。
643年、蝦夷は病を理由に息子の入鹿に蘇我氏の族長位を譲ります。これは、蘇我氏の族長位を狙える実績・血統の蘇我倉山田石川麻呂(上述したように、本書では蝦夷の甥ではなく異母弟とされています)の機先を制する意図があったものの、かえって蘇我倉山田石川麻呂が蘇我氏の族長位と大臣の地位への執着を強める結果になったのではないか、と本書は推測しています。私も、その可能性は高いだろう、と思います。
入鹿の「実績」として唯一明らかなのは、643年の上宮王家襲撃事件です。本書は、これを命じたのは皇極であり、入鹿は皇極の命に従って実行したのだ、との見解を提示しています。皇極が上宮王家を討滅しようと考えたのは、上述したように、自らが許可した蝦夷・入鹿父子の墳墓造営のさいに山背大兄の妻である舂米女王が強く異を唱えたことと、「国際情勢」緊張の中、王宮と寺院を備えた壮麗な都の建設にあたって、上宮王家によって統括されている物資・労働力を奪い取り、直接支配下に置こうと考えたからだ、と本書は推測しています。
『日本書紀』によると、上宮王家襲撃事件にさいして、入鹿は「独り謀りて」とあります。本書は上宮王家襲撃事件も「公共事業」の一環として把握し、推古没後の後継者問題の時と同じく、入鹿は大臣の職権として群臣に諮ることなく大王の命令を直ちに実行しようとしたのだ、と解釈しています。今回は軍事的な機密に関わることだったため、大臣の職権として前大王の遺志を単独で貫こうとしたものの、結果的に蝦夷が従来通り群臣に諮った推古没後の後継者問題の時とは異なり、入鹿はごく一部の親しい者と上宮王家襲撃を実行したのだろう、と本書は推測しています。しかし、上宮王家は蘇我氏の血を濃厚に受けていたため、蘇我氏に深刻な内部分裂をもたらしたのではないか、というのが本書の評価です。
伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」の根拠の一つとされる、644年の甘檮岡での邸宅造営について、皇極が前年の上宮王家襲撃事件の恩賞として蘇我氏本宗家に許可したのではないか、と本書は推測しています。甘檮岡の邸宅での武装・警戒について、蘇我氏が身近な敵の攻撃に備えてのものだ、とも言われていますが、本書は、「国際情勢」緊張のなか、「外敵」侵入まで想定した要塞施設だったのではないか、との見解を提示しています。
蘇我氏本宗家が甘檮岡の邸宅を造営した翌年、6月12日の乙巳の変により蘇我氏本宗家は滅亡します。本書は、中大兄皇子と中臣鎌足は危険極まりない刺客として参加していたのであり、乙巳の変の首謀者ではない、と主張します。本書の想定する乙巳の変の首謀者は、次期大王として認知されていた古人大兄王子に代わって次期大王を狙っていた軽王子(孝徳天皇)を担ぐ勢力です。このクーデター勢力において、蘇我氏の族長位を窺う蘇我倉山田石川麻呂が大きな役割を果たした、とされます。
軽皇子たちは入鹿を殺害した後、蝦夷が甘檮岡の邸宅から見ることのできた飛鳥寺において古人大兄を出家に追い込み、蝦夷の反撃の意思を砕いた、と本書は推測します。皇極がこの乙巳の変を容認した理由は、蘇我氏が主宰してきた「公共事業」を大王家が直接掌握するという方針をクーデター側が提示し、それが「公共事業」の拡大・強化という皇極の志向と合致していたからだ、との見解を本書は提示しています。
蘇我氏四代の事績を検証してきた本書は、次に大化改新の実像を検証します。乙巳の変の翌年の646年元旦に出されたとされる改新之詔を、「孝徳紀」の記事と考古学的成果で検証した本書は、部・屯倉の廃止を宣言した第一条と、新税制の施行を宣言した第四条は、後世の修飾を受けており、646年元旦に出されてはいないかもしれないにしても、孝徳朝に発布され、大規模な改革が行なわれた可能性が高い、との結論に至ります。
この大化改新の前提として、本書は「公共事業」の大規模化とその背景にある「国際情勢」の緊張を指摘します。「対外戦争」も含む「公共事業」が大規模化するなか、部や屯倉ごとの慣例に任せた物資や労力の徴収・動員では対応できないので、改革の必要性が倭国中央の支配層に強く認識されていただろう、というわけです。孝徳朝の薄葬令もこの文脈で解され、新たな支配体制の構築にあたって、墳墓造営という際限のない重労働から民衆を解放する意図があった、と本書は推測しています。
この体制の変容は官僚を創出していった、と本書は評価しています。部・屯倉の直接管理という世襲職から、国家のあらゆる部門で専門性を発揮する官僚への転身が要求されるようになった、というわけです。本書はその先覚者として、中臣(藤原)鎌足を高く評価しています。鎌足は中臣氏の世襲職たる祭祀の道を捨て、軍事官僚として生きようとしました。また、鎌足は長男の真人(定恵)を出家させて入唐させますが、これも仏道に帰依させることが目的ではなく、当時は僧侶の還俗が容易だったので、唐の最新の学問・技芸を身につけさせ、将来還俗させて官僚の道を歩ませようとしたからだ、と本書は推測しています。
本書は最後に、この大化改新と蘇我氏(本宗家)との関係について論じます。伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」やその枠組みに沿った古典的な学説では、蘇我氏(本宗家)は王権簒奪を図り、改革の邪魔になったので討滅された、と解釈されます。しかし本書は、そもそも「蘇我氏本宗家逆臣説」が、天智天皇(中大兄皇子)の歴史的評価の向上にともなう後世の創作であるとし、以下のように異なる見解を提示します。
大化改新とは蘇我氏が主宰してきた「公共事業」の拡大・強化を志向した変革であり、本来は蘇我氏が取り組むべき課題でした。じっさいにも、蘇我氏が「公共事業」を主宰していた皇極朝において改革の必要性は充分に認識され、その模索も試みられていたのであり、蘇我氏本宗家のあっけない滅亡がなければ、蘇我氏により大化改新的な政治改革は行なわれたと言っても過言ではありません。その意味で、蘇我氏は乙巳の変の敗者ではあっても、大化改新における単純な意味での敗者ではありませんでした。蘇我氏は天皇(大王)家から何かを奪おうとして滅ぼされたのではなく、結果的に大王家の側が蘇我氏から「公共事業」の「主宰権」を奪ったのでした。それを隠蔽して正当化するにあたって、蝦夷・入鹿の専横や王権簒奪の物語は実に効果的でした。
以上、やや長くなってしまいましたが、本書の見解についてざっと見てきました。本書の提示する見解は多くが推論に推論を重ねたものとなっているように思います。それでも、基本的には断定調で叙述が進むところが、いかにも遠山節だな、とは思います。ただ、本書で提示された見解はかなり魅力的だとは思います。正直に打ち明けると、感情というか気分的には、本書の見解をほぼ全面的に支持したいくらいです。少なくとも、伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」やその枠組みに沿った古典的学説よりは説得力があるとは思います。
しかし、本書の核となる見解にはどうも疑問が残ります。それは、「公共事業」の「主宰権」という概念です。本書は、蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」となる重要な契機となった飛鳥寺建立について、蘇我氏の多大な貢献を指摘しつつも、その発願者は推古天皇(大王)と推測しています。後の舒明朝・皇極朝において、王宮・寺院の造営は大王の命じたものとされていますし、蝦夷・入鹿の私的な墳墓・邸宅の造営にしても、大王に許可されたから可能だった、とされています。
大王家が蘇我氏から「公共事業」の「主宰権」を奪った証拠として、本書は乙巳の変の二ヶ月後の孝徳の詔を挙げています。この詔により、蘇我氏に委託されていた仏法の「主宰権」が大王家に回収された、と本書は指摘します。しかし、上宮王家は皇極朝に滅亡したとしても、すでに(火災前の)法隆寺は建造されていたはずで、皇極朝の時点で他の氏族による寺院もすでにいくつか完成していた可能性が高いでしょう。仏教受容の当初に蘇我氏が祭祀を委託されたとしても、それが皇極朝までずっと蘇我氏の専権事項だったのか、疑問が残ります。
そもそも、「公共事業」の「主宰権」という概念自体に曖昧なところがあるのは否定できません。最初の方で少し述べましたが、本書における「公共事業」は、祭祀・寺院や宮の造営・外交・軍事から史書の編纂までさまざまな行為を含んでおり、曖昧というかご都合主義的な概念になっています。これに、「主宰権」というこれまた曖昧な概念が結合するので、「公共事業」の「主宰権」が蘇我氏から大王家に移ったといっても、どうもよく分かりません。
じっさい本書は、乙巳の変の前後で「公共事業」の在り様が具体的にどのように変わったのか、提示できていないと思います。「公共事業」の「主宰権」とはいっても、上述したように、乙巳の変の前でも「公共事業」の命令者・発願者は大王とされています。蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」であった皇極朝においてすでに、乙巳の変以降に推進されていった一国単位の広域的な動員が一部認められる、とも本書は主張しています。
本書を読むと、大規模かつ体系的・一元的な徴収・動員の必要性と、その障壁としてのじゅうらいの部・屯倉などを単位とした個別的な徴収・動員とが、皇極朝においてすでに認識されていたのではないか、との見解はおおむね妥当だろうと思います。この解釈では、蘇我氏のみならず有力な王族や他の豪族による個別の土地支配も問題になるわけで、蘇我氏本宗家が最有力の氏族だとしても、蘇我氏本宗家のみが改革の障壁として排除の対象になったとは考えにくいところがあります。その意味で、蘇我氏本宗家による大化改新的政策の可能性を想定する本書の見解は魅力的です。
しかし、そこで「公共事業」の「主宰権」が問題視されたのかというと、疑問の残るところです。すでに何度か述べたように、乙巳の変の前から「公共事業」の命令者は大王である、本書では主張されています。さらに言うと、そもそも本書は、乙巳の変の前において蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」だったことを証明できていないと思います。本書は、倭国が仏教を初めて受容するさいに、蘇我氏が祭祀を委託されたことと、蘇我氏が技術者たる渡来人集団を多数配下に従えていただろうということ(これはかなり妥当性の高い推論だと思います)から、大寺や王宮の造営にあたって蘇我氏が主導しただろう、と推論しているにすぎないと思います。
確かに、当時最有力の氏族だっただろう蘇我氏が、大寺や王宮の造営にあたって貢献しなかったということはないでしょうが、主導したか否かは、『日本書紀』を読んでも必ずしも明確ではありません。乙巳の変の前において蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」だったという本書の核となる見解は、推論に推論を重ねたものであり、正直なところ、さほど説得力があるとは思えません。したがって、乙巳の変で蘇我氏本宗家が討滅された理由・意義として、「公共事業」の「主宰権」の交代は妥当ではないと思います。
本書が主張するように、大化改新の政治権力的意義を王族(大王家)が蘇我氏から「公共事業」の「主宰権」を奪ったことにあったとするならば、蘇我氏本宗家によっても大化改新以降に実現していった大規模な徴収・動員体制が可能だったと想定しても、結局は蘇我氏が新体制にとっての障壁だった、という解釈も可能になるでしょう。そうすると、本書の提示する「公共事業主宰権論」は、伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定するのではなく、それに近接しているのだ、とも評価できるように思います。
本書は「公共事業主宰権論」以外の乙巳の変の要因として、軽王子(孝徳天皇)の王位への野心と、蘇我倉山田石川麻呂の蘇我氏族長位への執念とを挙げ、両者の利害が一致したのだ、と推測しています。この推論はかなり妥当性が高いと思います。それだけに、皇極は乙巳の変を容認し、軽王子に譲位した後も、潜在的な主権・権威を保持していたかのように本書が論じているのには疑問の残るところです。皇極がそれだけの権力を保持していたのならば、なぜ軽王子に譲位したのか、本書は上手く説明できていないように思います。
遠山氏はこれまで、在位が長期に亘り、有力な王位継承者だっただろう厩戸王子(聖徳太子)・竹田王子・押坂彦人大兄王子が先に亡くなった推古の事例を踏まえて、皇極の即位時から譲位が想定されていた、との見解を述べてきたと記憶しています。そうだとしても、皇極が645年6月の時点で弟の軽王子に譲位する理由としては弱いように思います。蝦夷・入鹿(および古人大兄王子)を排除する目的の政変において、蝦夷・入鹿を重用した皇極が軽王子に譲位を強要された、と素直に考える方がよいのではないでしょうか。
この見解が妥当だとすると、中大兄や皇極前大王が難波から飛鳥へと引き上げた事件は、皇極前大王が奪権闘争を仕掛けた、と解釈できるように思います。孝徳の死後に中大兄が即位せず皇極前大王が重祚した(斉明大王)のは、あるいは中大兄が即位に相応しい年齢に少し足りなかったためかもしれませんが、孝徳朝の政治改革路線は推進するとしても、政治権力的には乙巳の変の前の状態に戻す必要があったからなのかもしれません。
では、なぜ乙巳の変で軽王子が皇極を殺さず、中大兄が軽王子側についたのかが問題となります。軽王子が皇極を殺さなかったのは、皇極が大王であることが軽王子の地位を引きあげたことと、中大兄を味方に引き込むこととが理由だったのかもしれません。中大兄が軽王子側についたのは、蘇我倉山田石川麻呂の娘との婚姻関係が最大の理由なのでしょう。また、今は若すぎて即位できないにしても、年齢の近い異母兄の古人大兄よりも、年の離れた軽王子が即位する方が都合がよい、と中大兄は判断したのかもしれません。
以上、やや長くなってしまいましたが、本書の疑問点について述べてきました。本書の提示する「公共事業主宰権論」には疑問が残りますし、本書の見解には推論に推論を重ねたものも少なくありませんが、本書は全体として読みごたえがありました。読んで正解だったと思います。遠山氏は一般向け書籍・論考を多数執筆しているため、本書も読みやすくなっています。飛鳥時代に関心のある一般読者ならば、読んで損をしたと思う人は少ないでしょう。
『古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか』
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_25.html
『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』
https://sicambre.seesaa.net/article/200901article_22.html
『天智と持統』
https://sicambre.seesaa.net/article/201206article_26.html
『日本書紀の虚構と史実』
https://sicambre.seesaa.net/article/201209article_26.html
『聖徳太子の「謎」』
https://sicambre.seesaa.net/article/201303article_1.html
その他にも5冊程度遠山氏の著書を読んだことがありますが、ブログを始める前のことだったので、まだブログでは単独の記事として取り上げていません。全てではないにしても、私は遠山氏の著書を割と多く読んできましたので、遠山節が全開の本書もすんなりと読み進められました。これまで、大化改新や蘇我氏についてさまざまな著書で言及してきました遠山氏にとって、本書は蘇我氏・大化改新論の現時点での集大成になるのかな、というのが読後感です。以下、本書についての感想です。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。
本書の鍵となる用語が、「公共事業」です。しかし、本書の「公共事業」は、祭祀・寺院や宮の造営・外交・軍事などさまざまな行為を含んでおり、曖昧な感は否めません。さらに、そこに「主宰権」という概念も持ち込んでいるので、「公共事業」がいっそう融通無碍な概念になっており、正直なところ、ご都合主義的に使われている感は否めません。本書は、乙巳の変により天皇(大王)家が「公共事業」の主宰権を蘇我氏から奪い、その後に進められた改革政策が大化改新だった、と主張します。
本書は、蘇我氏(本宗家)が天皇(大王)に取って代わろうとして成敗された、という伝統的な見解を否定しています。しかし、「公共事業」の主宰権という概念で6~7世紀の政治史を把握しているため、天皇中心の国家を建設するために蘇我氏(本宗家)は討滅された、という伝統的な見解の枠組みに近接しているようにも思います。以下、本書の見解について、備忘録的に述べていきます。
本書の構成は次の通りです。まず、蘇我氏本宗家が天皇(大王)に取って代わろうとして成敗された、という伝統的な見解を否定します。次に、蘇我氏本宗家が成敗された理由を、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の当主四代とその他の蘇我氏の重要人物の事績を検証しつつ、探っていきます。最後に、大化改新の実像を検証し、蘇我氏の事績を検証していくなかで導かれた仮説の妥当性を確認します。まずは、「蘇我氏本宗家逆臣説」の検証についてです。
率直に言って、本書は「蘇我氏本宗家逆臣説」の否定に成功しているとは言い難いように思います。だからといって、伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」の方により説得力がある、というわけでもありませんが。本書は、少なくとも欽明天皇(大王)以降、皇族(王族)はウジナもカバネも持たず、豪族に与える側だったと指摘し、そもそも中華世界とは異なり日本(倭)では易姓革命は起きようがなかった、と指摘します。しかし、後の8世紀の道鏡事件を想起すると、7世紀においても、易姓革命というか王統の交代は、「中央」の支配層にとってある程度想定されていたのではないか、とも思います。
「蘇我氏本宗家逆臣説」の根拠とされてきた、『日本書紀』に見える蘇我氏本宗家の「僭越な振る舞い」について、本書は類似した行為がじっさいにあった可能性を否定していません。ただ、そうした天皇(大王)に準ずる地位・振る舞いは、蘇我氏本宗家の場合と一致しているわけではないにしても、後に藤原氏にも認められているとして、天皇(大王)家が蘇我氏本宗家のそれまでの貢献に報いるために認めたのではないか、というのが本書の見解です。ただ、「蘇我氏本宗家逆臣説」の否定の根拠として、後の藤原氏の事例は決定打にはならないと思いますし、そもそも蘇我氏本宗家の「僭越な振る舞い」自体が、後世の創作である可能性もあるでしょう。
「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定するさらなる根拠として本書が挙げているのが、森博達氏の『日本書紀』区分論です。基本的には正格漢文で書かれている『日本書紀』「皇極紀」において、乙巳の変の該当箇所には倭習(漢文の誤用・奇用)が見られます。このことから、乙巳の変の該当箇所は、一度完成した後に書き換えられたのではないか、と本書は主張します。しかし、書き換えられた可能性は高いにしても、書き換えられる前の「原文」は見つかっていないわけですから、これも「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定する決定的証拠としては弱いように思います。
本書は、『日本書紀』が「蘇我氏本宗家逆臣説」を印象づけるようになったのは、天智天皇(葛城皇子、中大兄皇子)にたいする評価が変わったからではないか、と主張します。壬申の乱で近江朝政権を倒した天武天皇(大海人皇子)と持統天皇(鸕野讚良皇女)は、簒奪という汚名を拭い去るために、奸臣を除き偉大な天智天皇の業績を継ごうとして、やむを得ず天智天皇の息子の大友皇子を死に追いやってしまった、という物語を創作しました。
その後、文武天皇以降に皇位継承のさいに天智天皇の「遺訓(不改常典)」を根拠としたため、天智天皇は律令国家の開祖として祭り上げられました。その結果として、天智天皇が若き日に蘇我入鹿を殺害したことが、簒奪しようとした逆臣を成敗したと解釈されるようになった、というのが本書の見解です。これも推論に推論を重ねたという水準に止まっており、「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定する決定的根拠にはなっていないと思います。
また本書では、「日本」が「中国」王朝と同格であることを示そうとした史書が『日本書紀』であり、それが「蘇我氏本宗家逆臣説」とも関連していることも指摘されています。「中国」王朝と同格である「日本」でも、じっさいには起きようのなかった「王朝交替」が起きたことを、『日本書紀』は述べているというわけです。それは「仁徳王朝」の滅亡であり、「中国」王朝でもたびたび起きた王朝滅亡の危機でした。この王朝滅亡の危機こそ、蘇我氏本宗家による「欽明(もしくは継体)王朝簒奪」の企てだった、というわけです。上述した理由で欽明(もしくは継体)以降には王朝交替が起こり得ず、それよりも前の倭国(日本)にはそもそも王朝が存在しなかった、というのが本書の見解です。
私は必ずしも全面的に納得したわけではありませんが、「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定したと主張する本書は次に、蘇我氏本宗家が成敗された理由を稲目・馬子・蝦夷・入鹿の族長四代とその他の蘇我氏の重要人物の事績に探っていきます。本書はまず、蘇我氏の系譜について、稲目の父とされる高麗以前は創作だろう、と主張します。その根拠は、稲荷山古墳出土の鉄剣銘などに見える系譜の分析から、他の氏族との共通祖先と現実の祖先とをつなぐ祖先として創作されたと考えられるから、とされています。興味深い分析ではありますが、とても確定したとは言えそうにありません。
この系譜分析において、蘇我氏の祖先とされている石川宿禰・満智・韓子・高麗は、蘇我氏でも蘇我倉山田石川麻呂の系統が創作したものだろう、と本書では推測されています。『日本書紀』における乙巳の変の記事からも、石川麻呂の職掌に朝鮮半島諸国の貢納物に関するものがあり、満智・韓子・高麗という祖先の名は、蘇我氏が渡来系であることを意味するのではなく、石川麻呂の職掌に由来するのだ、というのが本書の見解です。さらに、石川麻呂はその職掌ゆえに蘇我氏内部やその周辺では韓人と呼ばれていた可能性があり、そうだとすると、乙巳の変のさいの古人大兄王子の「韓人殺鞍作臣」という発言も理解できる、と本書は推測しています。たいへん興味深い見解なのですが、これも証明されたとは言い難いというか、証明が難しいとは思います。
本書が蘇我氏の人物で実在すると認めるのは稲目以降です。その稲目が台頭した理由は、5世紀まで強大な勢力を誇った葛城氏の娘との婚姻を通じて葛城氏を継承する立場になったからだ、と本書では推測されています。後の馬子の発言からして、稲目と葛城氏の娘との婚姻の可能性は高いとされています。馬子が稲目の後継者として認知されて高い地位を確固たるものにしたのも、母が葛城氏出身で葛城氏の財産も継承したからだ、と本書は推測しています。しかし、蘇我氏台頭以前に葛城氏がどこまで実態のある氏族だったのか、疑問が残ります。
その理由が何であれ、稲目が宣化・欽明朝で重用されたのはおそらく事実でしょう。本書は、皇位(王位)継承の「本命」たる欽明天皇(大王)がまだ若いので、その前代の「中継ぎ」たる宣化天皇(大王)の代に、有力豪族の代表者たる群臣を大臣が統括して欽明を支えるという体制が創始され、稲目が大臣に任命されたのだ、と推測しています。この大臣就任が、蘇我氏の発展の起点となります。
蘇我氏発展の第二段階の画期だと本書が主張するのが、仏教伝来(仏教受容)です。仏教伝来がいつなのか正確な年代は不明だが、欽明朝であることは確かだろう、というのが本書の見解です。仏教受容のさいに、信仰の是非をめぐって議論があった、という見解は近年では否定される傾向にあるようで、それは本書でも同様です。しかし、仏教受容のさいに蘇我氏と物部氏・中臣氏の間で対立はあったかもしれない、と本書は推測しています。その理由が、蘇我氏の飛躍と関わってきます。
仏教が浸透する前の日本列島において、神はしかるべき人物・氏族にその祭祀が委託されるという形式が採られていた、というのが本書の認識です。仏教受容時、倭国中枢では仏=「蕃神」と考えられていたので、その祭祀が稲目に委託された、というのが本書の見解です。本書はその理由として、稲目の娘と欽明との婚姻関係などから、欽明は稲目を信頼していただろうということと、名前の末尾に「目」を称する者はシャーマンだった可能性が高いことを指摘しています。
この結果として、外来の文化・技術を有する渡来人集団が蘇我氏の指揮下に編成されることになり、蘇我氏が飛躍する契機になった、と本書は指摘します。蘇我氏と物部氏・中臣氏の間で対立があったとしたら、渡来人集団の把握をめぐる問題と、在来の神々の祭祀を委託されていた物部氏・中臣氏が、自分たちではなく蘇我氏が委託されたことに不満を持ったからだろう、と本書は推測しています。仏教受容に関する本書の見解もたいへん魅力的ではあるのですが、やはり確定的とは言い難いように想います。
稲目の後継者となった馬子の代に、蘇我氏にとってさらなる飛躍の契機となったのが、飛鳥寺の造営でした。仏たる「蕃神」の祭祀を委託されたことと、それによる渡来人集団の把握を前提として、蘇我氏は飛鳥寺造営を主導します。しかし、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺ではなく、官寺(国家の寺)であり、その発願者は推古天皇(大王)である、というのが本書の見解です。
この飛鳥寺造営を契機に、蘇我氏はさらに渡来人集団をしっかりと掌握するようになり、王宮・墳墓・都城などの造営工事も主管するようになる、というのが本書の見解です。蘇我氏は大臣としての地位と王族との婚姻関係のみではなく、王権が必要とする「公共事業」を主宰することにより、倭国において不動の地位を築き上げた、というわけです。蘇我氏は王族にとっての潜在的脅威ではなく、王権・国家にとって重要かつ不可欠の役割を果たしていた、というのが本書の見解です。
本書は、鉄資源の確保と密接に関わっていた対外戦争も「公共事業」の一環だった、と主張します。出兵計画だけに終わったものも含めて、対外戦争に蘇我氏のなかでも境部の系統が起用されたのは、境界の画定やそれにともなう境界祭祀を任されていたからであり、それゆえに境部氏は蘇我氏のなかでも本宗家に次ぐ位置を占めることになったのだ、というのが本書の見解です。本書の「公共事業」論には疑問が残りますが、この点は後述します。
馬子の次の蝦夷の代になると、蘇我氏の前途に暗い影が差します。その発端となったのが、推古死後の後継者問題でした。推古は後継者として田村王子(舒明天皇)を指名した、というのが本書の認識です。しかし、厩戸王子(聖徳太子)の息子である山背大兄王子(『日本書紀』本文では両者の親子関係が明示されていないのですが)が王位継承を主張し、紛糾します。この時、蝦夷は「独り嗣位を定めむと欲へり」とされていますが、これは蝦夷が独断で次期大王を決めようとしたのではなく、前大王たる推古の遺志が明らかなので、大臣の職権において直ちに実行してもかまわないと考えたからでした。
しかし、蝦夷は群臣のなかに反対の意見が出ることを懸念して、じゅうらい通り大臣として群臣の意見を取りまとめようとします。大臣の蝦夷と群臣の多くは推古の遺志に従おうとしますが、蘇我氏の一族である境部摩理勢は、軍事・外交を通じての厩戸王子との深い関係から山背大兄の即位に拘ります。蝦夷は個人としては山背大兄に期待していたものの、前大王の遺志に背くことはできませんでした。境部摩理勢は蘇我氏の族長たる蝦夷の権威を否定する行為に出たので、蝦夷は境部摩理勢とその一族を討伐し、田村が即位します。
本書は推古の後継者問題をこのように解釈し、蘇我氏にとって最初の躓きになった、との見解を提示しています。これも魅力的な見解ではありますが、「独り嗣位を定めむと欲へり」の解釈と、そもそも蝦夷がそのように考えていたのかという点について、疑問が残ります。なお、本書はこの後継問題において登場する蘇我倉麻呂臣(別名は雄正)について、蘇我倉山田石川麻呂の父というのが通説だが、そうではなく蘇我倉山田石川麻呂その人であり、馬子の孫ではなく子である、との見解を提示しています。
舒明朝・皇極朝において強大な唐が成立し、それと関連して朝鮮半島情勢の緊張が高まっていきます。「国際情勢」の緊張により、倭国の王権強化のためにも大規模な公共建造物が要求され、大規模な「対外戦争」も想定せざるを得なくなりました。「公共事業」を主宰する蘇我氏は、馬子の代までには考えられなかったような深刻な事態に直面していた、というのが舒明朝・皇極朝における蘇我氏の立場についての本書の見解です。
大規模な公共建造物に関して、舒明朝における百済大宮・百済大寺の造営は、舒明が祖父の敏達天皇(大王)とのつながりを誇示したものであり、蘇我氏の協力があっただろうとはいえ、「公共事業」の主宰者たる蘇我氏への大王家からの干渉の始まりだった、との見通しを本書は提示しています。なお、「国際情勢」の緊張に対応した王権強化策の一環として、舒明朝・皇極朝において史書の編纂(『天皇記』・『国記』と『日本書紀』に見えるもの)が始まり、それは蘇我氏の主宰する「公共事業」だった、と本書は主張しています。
舒明朝・皇極朝において、王宮の造営などにさいして、じゅうらいの部・屯倉を通じての物資・労力の収取を受け継ぎながらも、「国」という一定の領域を単位とした徴収に転換しつつあった、と本書は指摘します。物資や労力の大規模で円滑な徴収・動員は、帳簿による民衆の把握・編成があるていど進展していたからであり、そうした効率的な大規模動員を要請したのは、「国際情勢」の緊張にあっただろう、との見解を本書は提示します。
こうした造営事業にともなう大規模な動員は、蘇我氏本宗家の「僭越な振る舞い」の事例として知られる、蝦夷・入鹿父子による自らの墳墓造営でも見られます。本書は、この動員は皇極が蘇我氏への恩賞として許可したものであろうし、この動員に舂米女王(山背大兄の異母妹にして妻)が強く異を唱えたことから、皇極は上宮王家への敵意を抱いたのではないか、と推測しています。なお、舒明朝・皇極朝における百済大寺や飛鳥板蓋宮や蝦夷・入鹿父子の墳墓の造営にさいしては労働力の節減が強く意識されており、それが大化改新の政策にもつながっている、との見通しを本書は提示しています。
643年、蝦夷は病を理由に息子の入鹿に蘇我氏の族長位を譲ります。これは、蘇我氏の族長位を狙える実績・血統の蘇我倉山田石川麻呂(上述したように、本書では蝦夷の甥ではなく異母弟とされています)の機先を制する意図があったものの、かえって蘇我倉山田石川麻呂が蘇我氏の族長位と大臣の地位への執着を強める結果になったのではないか、と本書は推測しています。私も、その可能性は高いだろう、と思います。
入鹿の「実績」として唯一明らかなのは、643年の上宮王家襲撃事件です。本書は、これを命じたのは皇極であり、入鹿は皇極の命に従って実行したのだ、との見解を提示しています。皇極が上宮王家を討滅しようと考えたのは、上述したように、自らが許可した蝦夷・入鹿父子の墳墓造営のさいに山背大兄の妻である舂米女王が強く異を唱えたことと、「国際情勢」緊張の中、王宮と寺院を備えた壮麗な都の建設にあたって、上宮王家によって統括されている物資・労働力を奪い取り、直接支配下に置こうと考えたからだ、と本書は推測しています。
『日本書紀』によると、上宮王家襲撃事件にさいして、入鹿は「独り謀りて」とあります。本書は上宮王家襲撃事件も「公共事業」の一環として把握し、推古没後の後継者問題の時と同じく、入鹿は大臣の職権として群臣に諮ることなく大王の命令を直ちに実行しようとしたのだ、と解釈しています。今回は軍事的な機密に関わることだったため、大臣の職権として前大王の遺志を単独で貫こうとしたものの、結果的に蝦夷が従来通り群臣に諮った推古没後の後継者問題の時とは異なり、入鹿はごく一部の親しい者と上宮王家襲撃を実行したのだろう、と本書は推測しています。しかし、上宮王家は蘇我氏の血を濃厚に受けていたため、蘇我氏に深刻な内部分裂をもたらしたのではないか、というのが本書の評価です。
伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」の根拠の一つとされる、644年の甘檮岡での邸宅造営について、皇極が前年の上宮王家襲撃事件の恩賞として蘇我氏本宗家に許可したのではないか、と本書は推測しています。甘檮岡の邸宅での武装・警戒について、蘇我氏が身近な敵の攻撃に備えてのものだ、とも言われていますが、本書は、「国際情勢」緊張のなか、「外敵」侵入まで想定した要塞施設だったのではないか、との見解を提示しています。
蘇我氏本宗家が甘檮岡の邸宅を造営した翌年、6月12日の乙巳の変により蘇我氏本宗家は滅亡します。本書は、中大兄皇子と中臣鎌足は危険極まりない刺客として参加していたのであり、乙巳の変の首謀者ではない、と主張します。本書の想定する乙巳の変の首謀者は、次期大王として認知されていた古人大兄王子に代わって次期大王を狙っていた軽王子(孝徳天皇)を担ぐ勢力です。このクーデター勢力において、蘇我氏の族長位を窺う蘇我倉山田石川麻呂が大きな役割を果たした、とされます。
軽皇子たちは入鹿を殺害した後、蝦夷が甘檮岡の邸宅から見ることのできた飛鳥寺において古人大兄を出家に追い込み、蝦夷の反撃の意思を砕いた、と本書は推測します。皇極がこの乙巳の変を容認した理由は、蘇我氏が主宰してきた「公共事業」を大王家が直接掌握するという方針をクーデター側が提示し、それが「公共事業」の拡大・強化という皇極の志向と合致していたからだ、との見解を本書は提示しています。
蘇我氏四代の事績を検証してきた本書は、次に大化改新の実像を検証します。乙巳の変の翌年の646年元旦に出されたとされる改新之詔を、「孝徳紀」の記事と考古学的成果で検証した本書は、部・屯倉の廃止を宣言した第一条と、新税制の施行を宣言した第四条は、後世の修飾を受けており、646年元旦に出されてはいないかもしれないにしても、孝徳朝に発布され、大規模な改革が行なわれた可能性が高い、との結論に至ります。
この大化改新の前提として、本書は「公共事業」の大規模化とその背景にある「国際情勢」の緊張を指摘します。「対外戦争」も含む「公共事業」が大規模化するなか、部や屯倉ごとの慣例に任せた物資や労力の徴収・動員では対応できないので、改革の必要性が倭国中央の支配層に強く認識されていただろう、というわけです。孝徳朝の薄葬令もこの文脈で解され、新たな支配体制の構築にあたって、墳墓造営という際限のない重労働から民衆を解放する意図があった、と本書は推測しています。
この体制の変容は官僚を創出していった、と本書は評価しています。部・屯倉の直接管理という世襲職から、国家のあらゆる部門で専門性を発揮する官僚への転身が要求されるようになった、というわけです。本書はその先覚者として、中臣(藤原)鎌足を高く評価しています。鎌足は中臣氏の世襲職たる祭祀の道を捨て、軍事官僚として生きようとしました。また、鎌足は長男の真人(定恵)を出家させて入唐させますが、これも仏道に帰依させることが目的ではなく、当時は僧侶の還俗が容易だったので、唐の最新の学問・技芸を身につけさせ、将来還俗させて官僚の道を歩ませようとしたからだ、と本書は推測しています。
本書は最後に、この大化改新と蘇我氏(本宗家)との関係について論じます。伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」やその枠組みに沿った古典的な学説では、蘇我氏(本宗家)は王権簒奪を図り、改革の邪魔になったので討滅された、と解釈されます。しかし本書は、そもそも「蘇我氏本宗家逆臣説」が、天智天皇(中大兄皇子)の歴史的評価の向上にともなう後世の創作であるとし、以下のように異なる見解を提示します。
大化改新とは蘇我氏が主宰してきた「公共事業」の拡大・強化を志向した変革であり、本来は蘇我氏が取り組むべき課題でした。じっさいにも、蘇我氏が「公共事業」を主宰していた皇極朝において改革の必要性は充分に認識され、その模索も試みられていたのであり、蘇我氏本宗家のあっけない滅亡がなければ、蘇我氏により大化改新的な政治改革は行なわれたと言っても過言ではありません。その意味で、蘇我氏は乙巳の変の敗者ではあっても、大化改新における単純な意味での敗者ではありませんでした。蘇我氏は天皇(大王)家から何かを奪おうとして滅ぼされたのではなく、結果的に大王家の側が蘇我氏から「公共事業」の「主宰権」を奪ったのでした。それを隠蔽して正当化するにあたって、蝦夷・入鹿の専横や王権簒奪の物語は実に効果的でした。
以上、やや長くなってしまいましたが、本書の見解についてざっと見てきました。本書の提示する見解は多くが推論に推論を重ねたものとなっているように思います。それでも、基本的には断定調で叙述が進むところが、いかにも遠山節だな、とは思います。ただ、本書で提示された見解はかなり魅力的だとは思います。正直に打ち明けると、感情というか気分的には、本書の見解をほぼ全面的に支持したいくらいです。少なくとも、伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」やその枠組みに沿った古典的学説よりは説得力があるとは思います。
しかし、本書の核となる見解にはどうも疑問が残ります。それは、「公共事業」の「主宰権」という概念です。本書は、蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」となる重要な契機となった飛鳥寺建立について、蘇我氏の多大な貢献を指摘しつつも、その発願者は推古天皇(大王)と推測しています。後の舒明朝・皇極朝において、王宮・寺院の造営は大王の命じたものとされていますし、蝦夷・入鹿の私的な墳墓・邸宅の造営にしても、大王に許可されたから可能だった、とされています。
大王家が蘇我氏から「公共事業」の「主宰権」を奪った証拠として、本書は乙巳の変の二ヶ月後の孝徳の詔を挙げています。この詔により、蘇我氏に委託されていた仏法の「主宰権」が大王家に回収された、と本書は指摘します。しかし、上宮王家は皇極朝に滅亡したとしても、すでに(火災前の)法隆寺は建造されていたはずで、皇極朝の時点で他の氏族による寺院もすでにいくつか完成していた可能性が高いでしょう。仏教受容の当初に蘇我氏が祭祀を委託されたとしても、それが皇極朝までずっと蘇我氏の専権事項だったのか、疑問が残ります。
そもそも、「公共事業」の「主宰権」という概念自体に曖昧なところがあるのは否定できません。最初の方で少し述べましたが、本書における「公共事業」は、祭祀・寺院や宮の造営・外交・軍事から史書の編纂までさまざまな行為を含んでおり、曖昧というかご都合主義的な概念になっています。これに、「主宰権」というこれまた曖昧な概念が結合するので、「公共事業」の「主宰権」が蘇我氏から大王家に移ったといっても、どうもよく分かりません。
じっさい本書は、乙巳の変の前後で「公共事業」の在り様が具体的にどのように変わったのか、提示できていないと思います。「公共事業」の「主宰権」とはいっても、上述したように、乙巳の変の前でも「公共事業」の命令者・発願者は大王とされています。蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」であった皇極朝においてすでに、乙巳の変以降に推進されていった一国単位の広域的な動員が一部認められる、とも本書は主張しています。
本書を読むと、大規模かつ体系的・一元的な徴収・動員の必要性と、その障壁としてのじゅうらいの部・屯倉などを単位とした個別的な徴収・動員とが、皇極朝においてすでに認識されていたのではないか、との見解はおおむね妥当だろうと思います。この解釈では、蘇我氏のみならず有力な王族や他の豪族による個別の土地支配も問題になるわけで、蘇我氏本宗家が最有力の氏族だとしても、蘇我氏本宗家のみが改革の障壁として排除の対象になったとは考えにくいところがあります。その意味で、蘇我氏本宗家による大化改新的政策の可能性を想定する本書の見解は魅力的です。
しかし、そこで「公共事業」の「主宰権」が問題視されたのかというと、疑問の残るところです。すでに何度か述べたように、乙巳の変の前から「公共事業」の命令者は大王である、本書では主張されています。さらに言うと、そもそも本書は、乙巳の変の前において蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」だったことを証明できていないと思います。本書は、倭国が仏教を初めて受容するさいに、蘇我氏が祭祀を委託されたことと、蘇我氏が技術者たる渡来人集団を多数配下に従えていただろうということ(これはかなり妥当性の高い推論だと思います)から、大寺や王宮の造営にあたって蘇我氏が主導しただろう、と推論しているにすぎないと思います。
確かに、当時最有力の氏族だっただろう蘇我氏が、大寺や王宮の造営にあたって貢献しなかったということはないでしょうが、主導したか否かは、『日本書紀』を読んでも必ずしも明確ではありません。乙巳の変の前において蘇我氏が「公共事業」の「主宰者」だったという本書の核となる見解は、推論に推論を重ねたものであり、正直なところ、さほど説得力があるとは思えません。したがって、乙巳の変で蘇我氏本宗家が討滅された理由・意義として、「公共事業」の「主宰権」の交代は妥当ではないと思います。
本書が主張するように、大化改新の政治権力的意義を王族(大王家)が蘇我氏から「公共事業」の「主宰権」を奪ったことにあったとするならば、蘇我氏本宗家によっても大化改新以降に実現していった大規模な徴収・動員体制が可能だったと想定しても、結局は蘇我氏が新体制にとっての障壁だった、という解釈も可能になるでしょう。そうすると、本書の提示する「公共事業主宰権論」は、伝統的な「蘇我氏本宗家逆臣説」を否定するのではなく、それに近接しているのだ、とも評価できるように思います。
本書は「公共事業主宰権論」以外の乙巳の変の要因として、軽王子(孝徳天皇)の王位への野心と、蘇我倉山田石川麻呂の蘇我氏族長位への執念とを挙げ、両者の利害が一致したのだ、と推測しています。この推論はかなり妥当性が高いと思います。それだけに、皇極は乙巳の変を容認し、軽王子に譲位した後も、潜在的な主権・権威を保持していたかのように本書が論じているのには疑問の残るところです。皇極がそれだけの権力を保持していたのならば、なぜ軽王子に譲位したのか、本書は上手く説明できていないように思います。
遠山氏はこれまで、在位が長期に亘り、有力な王位継承者だっただろう厩戸王子(聖徳太子)・竹田王子・押坂彦人大兄王子が先に亡くなった推古の事例を踏まえて、皇極の即位時から譲位が想定されていた、との見解を述べてきたと記憶しています。そうだとしても、皇極が645年6月の時点で弟の軽王子に譲位する理由としては弱いように思います。蝦夷・入鹿(および古人大兄王子)を排除する目的の政変において、蝦夷・入鹿を重用した皇極が軽王子に譲位を強要された、と素直に考える方がよいのではないでしょうか。
この見解が妥当だとすると、中大兄や皇極前大王が難波から飛鳥へと引き上げた事件は、皇極前大王が奪権闘争を仕掛けた、と解釈できるように思います。孝徳の死後に中大兄が即位せず皇極前大王が重祚した(斉明大王)のは、あるいは中大兄が即位に相応しい年齢に少し足りなかったためかもしれませんが、孝徳朝の政治改革路線は推進するとしても、政治権力的には乙巳の変の前の状態に戻す必要があったからなのかもしれません。
では、なぜ乙巳の変で軽王子が皇極を殺さず、中大兄が軽王子側についたのかが問題となります。軽王子が皇極を殺さなかったのは、皇極が大王であることが軽王子の地位を引きあげたことと、中大兄を味方に引き込むこととが理由だったのかもしれません。中大兄が軽王子側についたのは、蘇我倉山田石川麻呂の娘との婚姻関係が最大の理由なのでしょう。また、今は若すぎて即位できないにしても、年齢の近い異母兄の古人大兄よりも、年の離れた軽王子が即位する方が都合がよい、と中大兄は判断したのかもしれません。
以上、やや長くなってしまいましたが、本書の疑問点について述べてきました。本書の提示する「公共事業主宰権論」には疑問が残りますし、本書の見解には推論に推論を重ねたものも少なくありませんが、本書は全体として読みごたえがありました。読んで正解だったと思います。遠山氏は一般向け書籍・論考を多数執筆しているため、本書も読みやすくなっています。飛鳥時代に関心のある一般読者ならば、読んで損をしたと思う人は少ないでしょう。
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