鍛代敏雄『敗者の日本史11 中世日本の勝者と敗者』
まだ日付は変わっていないのですが、11月25日分の記事として掲載しておきます。『敗者の日本史』全20巻の第11巻として、2013年11月に吉川弘文館より刊行されました。本書は4章構成となっています。第1章は政治史、第2章は社会史、第3章は「日本周縁」の地域史、第4章は文化史です。本書はこの構成に沿って、勝者と敗者という観点から中世史全体を概観しています。
本書を読んでの全体的な感想を先に述べると、まだこのブログに掲載していない読み終わった分も含めて、本書は最も面白くありませんでした。それも、他の巻と大きな差があってのつまらなさです。本書は、勝者と敗者という観点から分野別に中世史全体を概観していますが、勝者と敗者という観点で語れそうな事象をつまみ食い的に取り上げているといった感じです。そもそも、この観点で中世史全体を概観するという企画に無理があるのではないか、と思います。その意味で、著者というよりは出版社の側の問題なのかもしれません。
ただ、興味深い見解も提示されているので、読んで損をしたとまでは思いません。たとえば第2章において、多くの大名権力が中世~近世への移行期に没落したものの、大名権力の政策には連続性が見られる、と指摘されています。さらに、中世~近世への移行期において、領主権力は交代したものの、町や村の住民は自治と年貢請負をもって在地社会を生き延びたのであり、真の「敗れざる者たち」なのかもしれない、と指摘されています。なかなか面白い表現だな、と思います。
もっとも、そうした良さも台無しにしてしまいかねないほど、本書は基本的な事実に関して間違いが目立っており、それも本書の評価を下げる要因となっています。著者の単なる記憶違いか注意不足による著者自身の誤入力なのか、手書き原稿を印刷会社(製版会社と言うべきでしょうか)のオペレーターが入力するさいに間違えたのか、印刷会社への入稿の前に手書き原稿を文字入力した誰かが間違えたのか、部外者の私には判断がつきません。
しかし、原因が上記のいずれかだとしても、出版社に最大の責任があるのではないか、と思います。あまり歴史書を刊行していない出版社であれば、本書のような間違いを見過ごすのはある程度仕方がないのかな、とも思います。しかし、本書は吉川弘文館から刊行されているわけですから、本書のように基本的な事実に関して間違いがいくつもあるのはとても許されませんし、私も驚いてしまいました。
以下、私の気づいた間違いについて記していきます。ただ、最初の方から間違いが目立ったので、第1章はやや注意深く読んだのですが、第2章以降はさほど注意せずに読み進めたので、基本的な事実に関しての間違いはもっと多いかもしれません。引用箇所の一部は、漢数字を算用数字に置き換えました。なお、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。
●P11
承安元年(1171)娘徳子(建礼門院)が後白河院の猶子として後宮に入り、のち安徳天皇が生まれ、同じく娘の盛子を摂関家の近衛基実にわずか9歳で嫁がせた。2年後、基実急死のあと、後白河院は摂家領荘園を収公し、重盛没後は知行国の越前を没収した。反清盛派の鹿ヶ谷事件以降、険悪であった後白河院との対立がここに鮮明となり、治承3年(1179)11月15日、清盛のいわゆる治承のクーデターが勃発した。
どうも、著者の記憶違いによる間違いのようです。1164年に盛子が基実に9歳で嫁ぎ、その2年後に基実が急死し、摂関家領の大半を盛子が相続します(盛子の父の平清盛が実質的に管理します)。1178年に安徳天皇(言仁親王)が誕生し、その翌年に盛子が死亡します。この時、盛子の継承した摂関家領は、後白河院と松殿基房(基実の弟)の意向により、基房の系統に移ることが明らかになりました。同じく1179年、清盛の長男の重盛も死亡し、その知行国である越前が、後白河院に収公されます。これらも、治承3年の政変の背景になったと思われます。後白河院が摂関家領を収公しようとしたのは盛子の死後であり、基実の死後ではありません。
●P38
翌建武元年(1334)6月、尊氏は懐良親王邸を包囲、後醍醐天皇に譴責の圧力をかけ、11月に天皇に迫って親王の身柄を拘束、翌7月、鎌倉の直義のもとへ流刑に処した。
もちろん、これは懐良親王ではなく護良親王のことです。
●P42
延元3年(建武3年、1336)12月、後醍醐天皇が吉野に移座して南朝は成立したが、翌年8月には天皇52歳の生涯を終え、後村上天皇が12歳で践祚した。
南朝の延元元年=北朝の建武3年=1336年です。後醍醐天皇の崩御は南朝の延元4年=北朝の暦応2年=1339年のことです。南朝の延元3年=北朝の建武3年と間違ったために、記述が混乱しています。巻末の年表は間違っていません。
●P44
ちょうどこの年に、長慶天皇は、弟の後亀山天皇に譲位する。その9年後の明徳3年(1392)閏10月、将軍義満による南北朝の合体がなった。北朝を正統とするために、三種の神器を御亀山天皇から後小松天皇へ譲ることが必要条件だった。神器を奉じて吉野を発向した天皇一行が京に到着、閏10月5日、後小松天皇の土御門内裏にうつされた。「譲国の儀式」をおこなうとのことであったが、内侍所において御神楽を奏して供養の儀式は催されたけれども、義満の意向で簡素なものになった。当初の約束だった南北朝交替で天皇を立てること、南朝方朝臣に国衙領を給分することは完全に反故にされた。義満は神器さす獲得できればよかったのだ。
それに抗議した後小松院が、応永17年(1410)から6年間、南朝・後南朝の故地吉野へ出奔したことを明記しておきたい。室町殿の庇護下におかれた院が、朝廷の矜持を示した行為だったが、南朝の敗北だけではなく、北朝にいたっても、京都に開かれた武家の幕府に屈したのである。
「御亀山天皇」は私の入力間違いではなく、本文の通りです。その前では「後亀山天皇」と正しく表記されているのですが。1410年から6年間、南朝・後南朝の故地である吉野へ出奔したのは、もちろん後小松ではなく後亀山です。1410年の時点では後小松はまだ帝で、その2年後に譲位して上皇となります。
本書を読んでの全体的な感想を先に述べると、まだこのブログに掲載していない読み終わった分も含めて、本書は最も面白くありませんでした。それも、他の巻と大きな差があってのつまらなさです。本書は、勝者と敗者という観点から分野別に中世史全体を概観していますが、勝者と敗者という観点で語れそうな事象をつまみ食い的に取り上げているといった感じです。そもそも、この観点で中世史全体を概観するという企画に無理があるのではないか、と思います。その意味で、著者というよりは出版社の側の問題なのかもしれません。
ただ、興味深い見解も提示されているので、読んで損をしたとまでは思いません。たとえば第2章において、多くの大名権力が中世~近世への移行期に没落したものの、大名権力の政策には連続性が見られる、と指摘されています。さらに、中世~近世への移行期において、領主権力は交代したものの、町や村の住民は自治と年貢請負をもって在地社会を生き延びたのであり、真の「敗れざる者たち」なのかもしれない、と指摘されています。なかなか面白い表現だな、と思います。
もっとも、そうした良さも台無しにしてしまいかねないほど、本書は基本的な事実に関して間違いが目立っており、それも本書の評価を下げる要因となっています。著者の単なる記憶違いか注意不足による著者自身の誤入力なのか、手書き原稿を印刷会社(製版会社と言うべきでしょうか)のオペレーターが入力するさいに間違えたのか、印刷会社への入稿の前に手書き原稿を文字入力した誰かが間違えたのか、部外者の私には判断がつきません。
しかし、原因が上記のいずれかだとしても、出版社に最大の責任があるのではないか、と思います。あまり歴史書を刊行していない出版社であれば、本書のような間違いを見過ごすのはある程度仕方がないのかな、とも思います。しかし、本書は吉川弘文館から刊行されているわけですから、本書のように基本的な事実に関して間違いがいくつもあるのはとても許されませんし、私も驚いてしまいました。
以下、私の気づいた間違いについて記していきます。ただ、最初の方から間違いが目立ったので、第1章はやや注意深く読んだのですが、第2章以降はさほど注意せずに読み進めたので、基本的な事実に関しての間違いはもっと多いかもしれません。引用箇所の一部は、漢数字を算用数字に置き換えました。なお、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。
●P11
承安元年(1171)娘徳子(建礼門院)が後白河院の猶子として後宮に入り、のち安徳天皇が生まれ、同じく娘の盛子を摂関家の近衛基実にわずか9歳で嫁がせた。2年後、基実急死のあと、後白河院は摂家領荘園を収公し、重盛没後は知行国の越前を没収した。反清盛派の鹿ヶ谷事件以降、険悪であった後白河院との対立がここに鮮明となり、治承3年(1179)11月15日、清盛のいわゆる治承のクーデターが勃発した。
どうも、著者の記憶違いによる間違いのようです。1164年に盛子が基実に9歳で嫁ぎ、その2年後に基実が急死し、摂関家領の大半を盛子が相続します(盛子の父の平清盛が実質的に管理します)。1178年に安徳天皇(言仁親王)が誕生し、その翌年に盛子が死亡します。この時、盛子の継承した摂関家領は、後白河院と松殿基房(基実の弟)の意向により、基房の系統に移ることが明らかになりました。同じく1179年、清盛の長男の重盛も死亡し、その知行国である越前が、後白河院に収公されます。これらも、治承3年の政変の背景になったと思われます。後白河院が摂関家領を収公しようとしたのは盛子の死後であり、基実の死後ではありません。
●P38
翌建武元年(1334)6月、尊氏は懐良親王邸を包囲、後醍醐天皇に譴責の圧力をかけ、11月に天皇に迫って親王の身柄を拘束、翌7月、鎌倉の直義のもとへ流刑に処した。
もちろん、これは懐良親王ではなく護良親王のことです。
●P42
延元3年(建武3年、1336)12月、後醍醐天皇が吉野に移座して南朝は成立したが、翌年8月には天皇52歳の生涯を終え、後村上天皇が12歳で践祚した。
南朝の延元元年=北朝の建武3年=1336年です。後醍醐天皇の崩御は南朝の延元4年=北朝の暦応2年=1339年のことです。南朝の延元3年=北朝の建武3年と間違ったために、記述が混乱しています。巻末の年表は間違っていません。
●P44
ちょうどこの年に、長慶天皇は、弟の後亀山天皇に譲位する。その9年後の明徳3年(1392)閏10月、将軍義満による南北朝の合体がなった。北朝を正統とするために、三種の神器を御亀山天皇から後小松天皇へ譲ることが必要条件だった。神器を奉じて吉野を発向した天皇一行が京に到着、閏10月5日、後小松天皇の土御門内裏にうつされた。「譲国の儀式」をおこなうとのことであったが、内侍所において御神楽を奏して供養の儀式は催されたけれども、義満の意向で簡素なものになった。当初の約束だった南北朝交替で天皇を立てること、南朝方朝臣に国衙領を給分することは完全に反故にされた。義満は神器さす獲得できればよかったのだ。
それに抗議した後小松院が、応永17年(1410)から6年間、南朝・後南朝の故地吉野へ出奔したことを明記しておきたい。室町殿の庇護下におかれた院が、朝廷の矜持を示した行為だったが、南朝の敗北だけではなく、北朝にいたっても、京都に開かれた武家の幕府に屈したのである。
「御亀山天皇」は私の入力間違いではなく、本文の通りです。その前では「後亀山天皇」と正しく表記されているのですが。1410年から6年間、南朝・後南朝の故地である吉野へ出奔したのは、もちろん後小松ではなく後亀山です。1410年の時点では後小松はまだ帝で、その2年後に譲位して上皇となります。
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