岡本隆司編『中国経済史』
まだ日付は変わっていないのですが、11月23日分の記事として2本掲載しておきます(その二)。2013年11月に名古屋大学出版会より刊行されました。「特に序章は岡本イズムが全面的に展開されており、『近代中国史』の読者であればかなり読みやすいのではないかと思います」とのブログ記事を読んだので、私には敷居が高いかな、とも思ったのですが、購入して読んでみました。本書は、概論となる序章・本論となる5章・個別の述語および事象の解説となるテーマで構成されています。本論はあくまでもあらすじを把握するためのものであり、個別の解説と関連する問題の議論はテーマで述べられています。このテーマは、黄土・農業技術・戸籍・銅銭・塩政・人民公社など多岐に亘っています。
日中の律令比較に詳しい大津透氏のように、執筆者には中国経済史が専門ではない研究者もいます。幅広く知見を集約しよう、という意図が窺えます。編者は『近代中国史』の著者でもあります(関連記事)。その編者が執筆している序章「中国の経済と歴史」は、概論であるとともに本書の編纂意図を明らかにする場にもなっています。近代西洋起源の学問で中国経済を十全に理解できるのか、という問題提起と、中国研究における歴史学と経済学との乖離という現状の問題点の指摘とがなされています。近代西洋的知の枠組みで他の地域・年代の事象をどこまで的確に把握できるのか、現代社会におけるあまりにも大きな問題提起でもあると思います。
序章は、『近代中国史』をすでに読んでいた私にとっては馴染み深い議論を展開しており、すんなりと読み進められました。この序章で提示された時代区分にしたがって、本論となる5章も構成されています。先史時代~秦漢(~3世紀)・魏晋南北朝~隋唐五代(3~10世紀)・宋遼金~元(10~14世紀)・明清(15~19世紀)・近現代(20世紀~現代)となります。いわゆる京都学派の時代区分に近いものがありますが、伝統的な京都学派の時代区分とは異なり、14世紀も画期とされています。
本書における「中国」の範囲は、おおむね欧米でいうところの「中国本土」に相当します。これは、現代日本人の多くが想定する歴史(通時)的「中国」の範囲とおおむね一致しているのではないか、と思います。したがって、本書の「中国」は中華人民共和国の支配領域全てを含んでいるわけではありません。以下、興味深い見解を逐次備忘録的に述べていこう、とも当初は考えていたのですが、あまりにも時間がかかりそうなので、今回は通読して短い感想を述べるに止め、今後何度か少しずつ再読するつもりです。以下、短い感想と特に興味深い点についての備忘録です。
本書の編纂意図は、本論はあくまでもあらすじを把握するためのものとのことですが、正直なところ、私にとっては本論の情報も濃密で、消化するのに時間を要したというか、充分消化できたか怪しいところです。もっとも、これは私の不勉強に起因することなので、今後何度も再読することで消化していきたいとは思っています。ただ、明代以降については、『近代中国史』を読んでいたためか、読む速度が上がり、かなりすんなりと頭に入ってきました。
近現代はさらにすんなりと読み進められました。私が読んできた本や論文は、歴史学の対象外である古人類学に関するものを除いても、近代以降よりも前近代を扱ったものの方が圧倒的に多くなっています。しかしそれでも、やはり同時代やそれに近い時代の情報量の方が、前近代のそれよりも圧倒的に多いわけで、本書のような概説だと、理解の速度は近現代の方が上になるのでしょう。新聞・テレビの報道や雑誌記事などに日々接していることも考えれば、当然のことだとは思います。しかし、自分の志向からどうも近現代史にやや苦手意識を持っていることは否定できず、錯覚していたところがあるのでしょう。本書は当分の間、日本語で読める中国経済史の教科書として通用し続けるだけの、濃密な内容になっていると思います。その意味で、税別2700円という本書の価格はかなりお得と言えるでしょう。以下は特に興味深い点についての備忘録です。
●環境の変化や経済発展により家畜も変わっていったようです。新石器時代の中国では、家畜として豚が一般的でした。しかし、紀元前2000年紀になると、依然として豚が主流の黄河中下流域にたいして、上流域では羊が多くとなります。これは、気候の寒冷化・乾燥化により草原の面積が拡大したことに対応するのではないか、と推測されています。一方、同じ頃に長江流域では食肉の対象が豚から鹿中心となります。これは、生業が稲作に集約され、家畜の飼育が放棄され、周辺の森林に生息する鹿の狩猟に比重が移ったのではないか、と推測されています。なお、単位面積当たりのエネルギー産出量で家畜は小麦の1/20程度にすぎず、家畜はあくまでも補助的な食糧源だった、と指摘されています。
●漢代には、初期の混乱を経て文帝期になって貨幣制度は一応安定し、統一通貨がまがりなりにも浸透します。しかし、これは商工業の発展・市場の拡大によるものというよりは、漢王朝が銅銭による賦の納入を強制したことによるものでした。じっさいには、布帛が「実物貨幣」として広く用いられており、銅銭は価値の高下を示す尺度として重要な役割を果たしたものの、交易の場では複数の交換手段の一つにとどまりました。銅銭は、主として王朝の財政に関わる支払に用いられることで、社会に流通していました。
●安史の乱以降の唐は、両税法と各種専売を組み合わせて、北方の軍事需要を南方の経済が支えるという体制を築き、ともかく150年近い命脈を保ちました。これが、以後の中国歴代王朝の基本構図となります。
●中国における南北の人口比は、唐代の8世紀半ば~北宋の11世紀後半にかけて大きく変わります。8世紀半ばの南北の戸数比が4.5:5.5だったのにたいして、11世紀後半には6.5:3.5となります。これは、長江下流域の低湿地・湖沼での開発の進展も要因となっているようです。ただ、宋代における長江下流域の低湿地での稲作には技術的制約からまだ不安定なところがあり、開発がより早い時期に進んでいた河谷平野や扇状地の一部と比較すると、農法としては後進的な水準にとどまっていたようです。
●清朝末の中国経済において、「近代」的な商業原理による在華外国人が不平等特権に守られて中国の国内市場を牛耳っていた、との理解は正しくないとのことです。国内の流通では地方官僚や郷紳といった地域エリートや行会が依然として影響力を持っており、中国伝統経済における市場・流通構造が障壁となって、安く低関税の外国製品が国内市場に浸透していくことは容易ではありませんでした。外国製品が中国市場で浸透していくには、いわゆる買辦商人や地域エリートの協力が必要でした。
●いわゆる在華紡は日本帝国主義の中国進出の一翼を担い、民族資本の成長を圧迫したとして、中国経済にたいする負の影響が強調されてきました。しかし、在華紡との競合や技術協力などが中国紡の生産性の向上をもたらしたことも、現在では指摘されているそうです。
●中華人民共和国は、当初から社会主義化政策を進めようとしたわけではありませんでした。これは、成立当初における共産党政権の自国の現状認識によります。当時の中国は、封建主義以上ではあるものの、資本主義未満の「半植民地・半封建」社会であり、共産党による革命は、ブルジョア民主主義革命ではない、「新民主主義」革命と規定されました。
●中華人民共和国がじゅうらいであれば猛反発を受けたであろう強力な通貨金融統制や対外経済関係の一元的管理を実行できた理由の一つとして、共産党主導の大衆動員型政治運動による反対意見の抑え込みが挙げられています。また、それが可能だった背景として、物質的な統制が同時に進行していたことが指摘されています。物質・思想両面の統制が厳しくなるなかで、逃げ場を失った人々は否応なく共産党による統治を受け入れざるを得なかったのが実態であろう、と評価されています。
●中華人民共和国は当初、ソ連にならって中央集権化を志向しましたが、ソ連モデルの問題点の露呈や、ソ連との対立を経て、地方分権化への志向を強めます。「自力更生」というスローガンも、そうした文脈で登場したものでした。
●土地改革については、日本でも一般に広く喧伝されてきたように思われる、中華人民共和国の伝統的な公的史観とは異なる見解が提示されています。まず、中華人民共和国における土地改革の必然性とされてきた帝国主義および地主からの搾取という認識にたいしては、中華民国期の農家経営について、商品経済化や小農による集約的経営を通じて土地生産性が向上した、という近年の研究成果が提示されています。また、世界恐慌下の地主による土地の兼併は、全国的かつ長期的にわたる趨勢として確認できるわけではない、とされています。
共産党が土地の分配によって農民の支持を獲得して内戦に勝利した、との見解も見直されつつあるそうです。1920年代末~1930年代前半、共産党は地改革により勢力拡大を図りましたが、当時の共産党組織の脆弱さにより、国民党の反撃や在地の武装勢力の抵抗に遭って根拠地は短期間に崩壊しました。また、土地の分配を受けた農民が必ずしも積極的に共産党軍に加わったわけではなく、既存の雑多な武装人員が傭兵的に編入され、共産党の軍事力を担ったそうです。
第二次世界大戦後、国民党と共産党の内戦が再発すると、共産党は土地改革を強く打ち出すようになります。この土地改革で地主・富農からの収奪だけではなく、中農の財産の侵犯が発生し、農業生産は大打撃を受けたそうです。共産党が短期間で多数の兵の徴募に成功した東北地区にしても、土地の分配により農民の自発的な支持を獲得したこと以上に、「階級敵」からの食糧・財産の没収を通じて、新兵の募集や雇用に必要な財を共産党が独占したことを重視する見解が提示されているそうです。
日中の律令比較に詳しい大津透氏のように、執筆者には中国経済史が専門ではない研究者もいます。幅広く知見を集約しよう、という意図が窺えます。編者は『近代中国史』の著者でもあります(関連記事)。その編者が執筆している序章「中国の経済と歴史」は、概論であるとともに本書の編纂意図を明らかにする場にもなっています。近代西洋起源の学問で中国経済を十全に理解できるのか、という問題提起と、中国研究における歴史学と経済学との乖離という現状の問題点の指摘とがなされています。近代西洋的知の枠組みで他の地域・年代の事象をどこまで的確に把握できるのか、現代社会におけるあまりにも大きな問題提起でもあると思います。
序章は、『近代中国史』をすでに読んでいた私にとっては馴染み深い議論を展開しており、すんなりと読み進められました。この序章で提示された時代区分にしたがって、本論となる5章も構成されています。先史時代~秦漢(~3世紀)・魏晋南北朝~隋唐五代(3~10世紀)・宋遼金~元(10~14世紀)・明清(15~19世紀)・近現代(20世紀~現代)となります。いわゆる京都学派の時代区分に近いものがありますが、伝統的な京都学派の時代区分とは異なり、14世紀も画期とされています。
本書における「中国」の範囲は、おおむね欧米でいうところの「中国本土」に相当します。これは、現代日本人の多くが想定する歴史(通時)的「中国」の範囲とおおむね一致しているのではないか、と思います。したがって、本書の「中国」は中華人民共和国の支配領域全てを含んでいるわけではありません。以下、興味深い見解を逐次備忘録的に述べていこう、とも当初は考えていたのですが、あまりにも時間がかかりそうなので、今回は通読して短い感想を述べるに止め、今後何度か少しずつ再読するつもりです。以下、短い感想と特に興味深い点についての備忘録です。
本書の編纂意図は、本論はあくまでもあらすじを把握するためのものとのことですが、正直なところ、私にとっては本論の情報も濃密で、消化するのに時間を要したというか、充分消化できたか怪しいところです。もっとも、これは私の不勉強に起因することなので、今後何度も再読することで消化していきたいとは思っています。ただ、明代以降については、『近代中国史』を読んでいたためか、読む速度が上がり、かなりすんなりと頭に入ってきました。
近現代はさらにすんなりと読み進められました。私が読んできた本や論文は、歴史学の対象外である古人類学に関するものを除いても、近代以降よりも前近代を扱ったものの方が圧倒的に多くなっています。しかしそれでも、やはり同時代やそれに近い時代の情報量の方が、前近代のそれよりも圧倒的に多いわけで、本書のような概説だと、理解の速度は近現代の方が上になるのでしょう。新聞・テレビの報道や雑誌記事などに日々接していることも考えれば、当然のことだとは思います。しかし、自分の志向からどうも近現代史にやや苦手意識を持っていることは否定できず、錯覚していたところがあるのでしょう。本書は当分の間、日本語で読める中国経済史の教科書として通用し続けるだけの、濃密な内容になっていると思います。その意味で、税別2700円という本書の価格はかなりお得と言えるでしょう。以下は特に興味深い点についての備忘録です。
●環境の変化や経済発展により家畜も変わっていったようです。新石器時代の中国では、家畜として豚が一般的でした。しかし、紀元前2000年紀になると、依然として豚が主流の黄河中下流域にたいして、上流域では羊が多くとなります。これは、気候の寒冷化・乾燥化により草原の面積が拡大したことに対応するのではないか、と推測されています。一方、同じ頃に長江流域では食肉の対象が豚から鹿中心となります。これは、生業が稲作に集約され、家畜の飼育が放棄され、周辺の森林に生息する鹿の狩猟に比重が移ったのではないか、と推測されています。なお、単位面積当たりのエネルギー産出量で家畜は小麦の1/20程度にすぎず、家畜はあくまでも補助的な食糧源だった、と指摘されています。
●漢代には、初期の混乱を経て文帝期になって貨幣制度は一応安定し、統一通貨がまがりなりにも浸透します。しかし、これは商工業の発展・市場の拡大によるものというよりは、漢王朝が銅銭による賦の納入を強制したことによるものでした。じっさいには、布帛が「実物貨幣」として広く用いられており、銅銭は価値の高下を示す尺度として重要な役割を果たしたものの、交易の場では複数の交換手段の一つにとどまりました。銅銭は、主として王朝の財政に関わる支払に用いられることで、社会に流通していました。
●安史の乱以降の唐は、両税法と各種専売を組み合わせて、北方の軍事需要を南方の経済が支えるという体制を築き、ともかく150年近い命脈を保ちました。これが、以後の中国歴代王朝の基本構図となります。
●中国における南北の人口比は、唐代の8世紀半ば~北宋の11世紀後半にかけて大きく変わります。8世紀半ばの南北の戸数比が4.5:5.5だったのにたいして、11世紀後半には6.5:3.5となります。これは、長江下流域の低湿地・湖沼での開発の進展も要因となっているようです。ただ、宋代における長江下流域の低湿地での稲作には技術的制約からまだ不安定なところがあり、開発がより早い時期に進んでいた河谷平野や扇状地の一部と比較すると、農法としては後進的な水準にとどまっていたようです。
●清朝末の中国経済において、「近代」的な商業原理による在華外国人が不平等特権に守られて中国の国内市場を牛耳っていた、との理解は正しくないとのことです。国内の流通では地方官僚や郷紳といった地域エリートや行会が依然として影響力を持っており、中国伝統経済における市場・流通構造が障壁となって、安く低関税の外国製品が国内市場に浸透していくことは容易ではありませんでした。外国製品が中国市場で浸透していくには、いわゆる買辦商人や地域エリートの協力が必要でした。
●いわゆる在華紡は日本帝国主義の中国進出の一翼を担い、民族資本の成長を圧迫したとして、中国経済にたいする負の影響が強調されてきました。しかし、在華紡との競合や技術協力などが中国紡の生産性の向上をもたらしたことも、現在では指摘されているそうです。
●中華人民共和国は、当初から社会主義化政策を進めようとしたわけではありませんでした。これは、成立当初における共産党政権の自国の現状認識によります。当時の中国は、封建主義以上ではあるものの、資本主義未満の「半植民地・半封建」社会であり、共産党による革命は、ブルジョア民主主義革命ではない、「新民主主義」革命と規定されました。
●中華人民共和国がじゅうらいであれば猛反発を受けたであろう強力な通貨金融統制や対外経済関係の一元的管理を実行できた理由の一つとして、共産党主導の大衆動員型政治運動による反対意見の抑え込みが挙げられています。また、それが可能だった背景として、物質的な統制が同時に進行していたことが指摘されています。物質・思想両面の統制が厳しくなるなかで、逃げ場を失った人々は否応なく共産党による統治を受け入れざるを得なかったのが実態であろう、と評価されています。
●中華人民共和国は当初、ソ連にならって中央集権化を志向しましたが、ソ連モデルの問題点の露呈や、ソ連との対立を経て、地方分権化への志向を強めます。「自力更生」というスローガンも、そうした文脈で登場したものでした。
●土地改革については、日本でも一般に広く喧伝されてきたように思われる、中華人民共和国の伝統的な公的史観とは異なる見解が提示されています。まず、中華人民共和国における土地改革の必然性とされてきた帝国主義および地主からの搾取という認識にたいしては、中華民国期の農家経営について、商品経済化や小農による集約的経営を通じて土地生産性が向上した、という近年の研究成果が提示されています。また、世界恐慌下の地主による土地の兼併は、全国的かつ長期的にわたる趨勢として確認できるわけではない、とされています。
共産党が土地の分配によって農民の支持を獲得して内戦に勝利した、との見解も見直されつつあるそうです。1920年代末~1930年代前半、共産党は地改革により勢力拡大を図りましたが、当時の共産党組織の脆弱さにより、国民党の反撃や在地の武装勢力の抵抗に遭って根拠地は短期間に崩壊しました。また、土地の分配を受けた農民が必ずしも積極的に共産党軍に加わったわけではなく、既存の雑多な武装人員が傭兵的に編入され、共産党の軍事力を担ったそうです。
第二次世界大戦後、国民党と共産党の内戦が再発すると、共産党は土地改革を強く打ち出すようになります。この土地改革で地主・富農からの収奪だけではなく、中農の財産の侵犯が発生し、農業生産は大打撃を受けたそうです。共産党が短期間で多数の兵の徴募に成功した東北地区にしても、土地の分配により農民の自発的な支持を獲得したこと以上に、「階級敵」からの食糧・財産の没収を通じて、新兵の募集や雇用に必要な財を共産党が独占したことを重視する見解が提示されているそうです。
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