関周一『朝鮮人のみた中世日本』
明日(11月9日)からしばらく留守にするかもしれないので、とりあえず来週分までまとめて更新することにします。これは11月11日分の記事として掲載しておきます。
歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2013年9月に刊行されました。宋希璟『老松堂日本行録』を中心に、申叔舟『海東諸国記』や『朝鮮王朝実録』の日本関係の記事から、おもに室町時代の日本社会の様相と、朝鮮社会との関わりについて論じています。宋希璟と申叔舟は室町時代の日本を朝鮮からの公的使者として訪れています。本書では『朝鮮王朝実録』に採録されている朴瑞生の復命書にもそれなりの分量が割かれていますが、朴瑞生も室町時代の日本を朝鮮からの公的使者として訪れており、朝鮮からの公的使者の視点を中心に当時の日本社会の様相が描き出されています。
もっとも、朝鮮からの公的使者だけではなく、朝鮮から日本へと漂着した人々の証言も取り上げられています。そこで興味深いのは、朝鮮から日本へと漂着した人々が、一日に三度食事を与えられた、との記述です。一般的に、日本で一日三食になるのは江戸時代以降とされているようですが、漂流民の保護というかなり特殊な状況下では、中世においても一日三食の場合もあったのかもしれません。たとえば農繁期には、農民が一日三食摂ることが珍しくなかった可能性も考慮に入れてよいのではないか、とも思います。もっともその場合でも、昼は握り飯を食べるだけの簡単な食事だったかもしれませんが。
本書でも言及されていますが、こうした「外国」史料は、報告者・記録者の偏見・無知による誤認(真言律宗の寺院を禅宗の寺院と誤解していたことなど)も見られます。しかし、当時の「国内」社会では常識とされていて記録に残りにくい習慣とのなかには、「外国人」にとって奇異・新鮮に見えるものもあり、そうした習慣が記録されていることがある、という利点があります(戦国時代にポルトガルやスペインから日本列島に来た人々の証言が貴重なのも、同様の理由からです)。たとえば、浄土系の寺院では僧と尼が同宿しており、宋希璟が妊娠の可能性について指摘すると、寺の門前に住んでいる朝鮮人から、尼は妊娠すると実家に行って出産し、その後に寺に戻って再び尼になる、と説明されています。日本仏教における「緩さ」の一例と言えるかもしれません。
本書を読むと、朝鮮からの公的使者の気位の高さが印象に残ります。それは、自らが高度な文化を体現した士であるとの自負に基づくのでしょうが、同時に日本社会への偏見につながっていることも否定できないでしょう。ただ、安易に「先進」と「後進」という概念を用いることは戒めなければならないでしょうが、朝鮮からの公的使者が日本社会の「先進的なところ」について素直に認め、「母国」でも見習わなければならない、と考えていたことも窺えます。それは、たとえば水車や三毛作や銭の浸透や市場の在り様などです。
しかし一方で本書は、同じような光景のはずの日本の市場を見ても、海産物が売られていることを、日本の貧しさと考えた朝鮮からの公的使者がいたことも指摘しています。本書によると、15世紀前半と後半とで、朝鮮からの公的使者の日本への評価が変わってくるそうです。15世紀後半には朝鮮からの公的使者の日本への評価は低くなっていきます。それは、日本との関係も含めて周辺地域との関係が安定した朝鮮では、外への関心および外の世界を見る活力がしだいに低下したからではないか、というのが本書の見通しです。
歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2013年9月に刊行されました。宋希璟『老松堂日本行録』を中心に、申叔舟『海東諸国記』や『朝鮮王朝実録』の日本関係の記事から、おもに室町時代の日本社会の様相と、朝鮮社会との関わりについて論じています。宋希璟と申叔舟は室町時代の日本を朝鮮からの公的使者として訪れています。本書では『朝鮮王朝実録』に採録されている朴瑞生の復命書にもそれなりの分量が割かれていますが、朴瑞生も室町時代の日本を朝鮮からの公的使者として訪れており、朝鮮からの公的使者の視点を中心に当時の日本社会の様相が描き出されています。
もっとも、朝鮮からの公的使者だけではなく、朝鮮から日本へと漂着した人々の証言も取り上げられています。そこで興味深いのは、朝鮮から日本へと漂着した人々が、一日に三度食事を与えられた、との記述です。一般的に、日本で一日三食になるのは江戸時代以降とされているようですが、漂流民の保護というかなり特殊な状況下では、中世においても一日三食の場合もあったのかもしれません。たとえば農繁期には、農民が一日三食摂ることが珍しくなかった可能性も考慮に入れてよいのではないか、とも思います。もっともその場合でも、昼は握り飯を食べるだけの簡単な食事だったかもしれませんが。
本書でも言及されていますが、こうした「外国」史料は、報告者・記録者の偏見・無知による誤認(真言律宗の寺院を禅宗の寺院と誤解していたことなど)も見られます。しかし、当時の「国内」社会では常識とされていて記録に残りにくい習慣とのなかには、「外国人」にとって奇異・新鮮に見えるものもあり、そうした習慣が記録されていることがある、という利点があります(戦国時代にポルトガルやスペインから日本列島に来た人々の証言が貴重なのも、同様の理由からです)。たとえば、浄土系の寺院では僧と尼が同宿しており、宋希璟が妊娠の可能性について指摘すると、寺の門前に住んでいる朝鮮人から、尼は妊娠すると実家に行って出産し、その後に寺に戻って再び尼になる、と説明されています。日本仏教における「緩さ」の一例と言えるかもしれません。
本書を読むと、朝鮮からの公的使者の気位の高さが印象に残ります。それは、自らが高度な文化を体現した士であるとの自負に基づくのでしょうが、同時に日本社会への偏見につながっていることも否定できないでしょう。ただ、安易に「先進」と「後進」という概念を用いることは戒めなければならないでしょうが、朝鮮からの公的使者が日本社会の「先進的なところ」について素直に認め、「母国」でも見習わなければならない、と考えていたことも窺えます。それは、たとえば水車や三毛作や銭の浸透や市場の在り様などです。
しかし一方で本書は、同じような光景のはずの日本の市場を見ても、海産物が売られていることを、日本の貧しさと考えた朝鮮からの公的使者がいたことも指摘しています。本書によると、15世紀前半と後半とで、朝鮮からの公的使者の日本への評価が変わってくるそうです。15世紀後半には朝鮮からの公的使者の日本への評価は低くなっていきます。それは、日本との関係も含めて周辺地域との関係が安定した朝鮮では、外への関心および外の世界を見る活力がしだいに低下したからではないか、というのが本書の見通しです。
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