南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』第4刷
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2013年8月に刊行されました。第1刷の刊行は2013年5月です。気宇壮大な表題に惹かれて購入し、読んでみました。本書は、日本における一般向けのローマ(衰亡)史とはかなり異なるように思います。一つは、ローマ帝国の支配域において西北にあたるヨーロッパ大陸内部やブリテン島(現在ではフランス・スイス・ドイツ・イギリスなどの領土です)を重視していることです。ローマ帝国を地中海帝国と認識する見解は、日本でも一般層に広く浸透しているように思いますが、そのような認識は最盛期以降のローマ帝国の性格を見誤ることになる、と本書は指摘しています。そのため、地中海沿岸地域や東方地域の記述は少なくなっています。
次に、ローマ帝国が衰亡へと向かう転機はコンスタンティヌス1世の時代であり、ローマ帝国西部は5世紀初めには帝国の枠組みが実質的に崩壊していた、と主張している点です。ローマ帝国の衰亡を論じる場合、一般向け書籍では多くがいわゆる五賢帝の時代の終焉(コンモドゥス帝以降)を画期としている、と私は認識していましたので、この時代区分は意外でした。
本書はローマ帝国の衰亡を論じるにあたって、その意義を検証するためもあり、1章を割いてローマ帝国の最盛期について短く述べ、ローマ帝国を成立せしめている特徴を浮き彫りにします。本書はその後に、ローマ帝国の衰退過程を政治史の観点から叙述し(経済・社会・文化史についての言及がほとんどないのも本書の特徴です)、ローマ帝国衰退の意義を論じています。
本書はその前に、冒頭にてローマ帝国衰退論の変遷について簡潔にまとめています。ローマ帝国衰退論は一般向けも含めてひじょうに多く書かれており、衰退の要因は多数(本書によると210種類以上との説もあるようです)挙げられています。ローマ帝国衰退論の古典はもちろんギボン『ローマ帝国衰亡史』で、現代でも、一般層のローマ帝国衰退論についての歴史認識は、ギボンの見解を大きく出るものではないだろう、と思います。
ギボンの古典的見解にたいして、1970年代以降に新たな解釈の傾向が生じ、1990年代には有力になります。この新見解においては、ローマ帝国の「衰亡」や西ローマ帝国の「滅亡」が重視されません。「変化」よりも「継続」が、政治よりも社会や宗教(心性)が重視されるようになり、「ローマ帝国の衰亡」ではなく「ローマ世界の変容」が問題とされます。この傾向と関連して、いわゆるゲルマン民族の大移動の破壊的性格を低く見積もり、移動した人々の「順応」を強調するとともに、ギリシアやローマ以外の古代世界を重視する傾向も見られるようになりました。
本書はこうした古典的なローマ帝国衰退論の見直しについて、20世紀後半の多文化主義的傾向やポスト植民地主義やヨーロッパ連合の統合進展などが背景にあるのではないか、と指摘しています。一方本書は、近代におけるローマ帝国衰退論でのゲルマン人への視線(固定的な民族として把握したり、野蛮視したりすること)には、ヨーロッパの近代ナショナリズムや植民地主義という時代背景があったのではないか、とも指摘しています。
1990年代には有力になった上記の新たなローマ帝国論にたいして、21世紀になって欧米では「ローマ帝国の衰亡」を重視すべきだ、という主旨の著作がいくつか発表されるようになった、と本書は紹介しています。ローマ帝国論について今後の動向が注目される、と述べる本書は、独自の考えでローマ帝国の「衰亡史」を語る、と宣言します。ローマ帝国という政治的枠組み及びそれによって作られていた世界が衰退し崩れる局面を取り上げる、ということです。本書の前提についての説明の時点で長くなってしまったので、本書の本論については、以下になるべく簡潔にまとめることにします。
本書はまず、ローマ帝国最盛期について概観し、ローマ帝国の性格を指摘します。最盛期のローマ帝国は、ローマ市民ではなかった人にも市民権と出世の道を閉ざしておらず開放的だった、というのが本書の見解です。ローマ市民権を得るには、軍務などで功績を積み、髪型・服装・言語などでローマ風であればよく、その血統的出自は問われませんでした。5世紀初頭までを対象とする本書において一貫して強調されていることなのですが、当時のローマ帝国にあっては「民族」による区分という概念はなく、ゲルマン人など近代以降の人間が「異民族」として認識している当時の集団にしても、「民族」として固定的に把握はできない、ということです。
最盛期のローマ帝国にあって自他を区別するのは、ローマ市民であるか否かということでした。ローマ市民ではなかった人が市民権を獲得する条件は上述しましたが、そうした人々は軍功に代表される帝国への貢献により、帝国内での出世が可能でした。もちろん、出世にあたっては能力・人脈・財力などが重要となります。この開放的な性格が、ローマ帝国の「辺境」のローマ市民ではない人々を惹きつけ、新たな兵力や支配層の供給源となりました。ローマ帝国を成立せしめていたのは、自分はローマ市民だという人々の自覚・自意識でした。ただ、「辺境」では支配層と比較して被支配層のローマ化はあまり進んでいませんでした。
この開放的な性格とも関連しているのか、ローマ帝国の「国境線」は現代の諸国間のそれと比較して曖昧なところがありました。ローマ帝国の「最前線」の拠点都市(軍事・政治面で)とローマ帝国が支配できていない地域との間には、ローマ帝国の文化・生産物が浸透していた地域があり、現代的な観点でローマ帝国の「国境線」を安易に引くことは困難なようです。これらはまた、ローマ人の領土は人の住む世界のどこまでも広がる、という観念にもつながっていました。
最盛期ローマ帝国をこのように把握したうえで、本書はその「衰退」について論じます。ローマ帝国が衰亡へと向かう転機としてコンスタンティヌス1世の時代に着目する本書の見解にたいしては、いわゆる軍人皇帝の時代はどう評価されるのか、との疑問があるでしょう。本書は、軍人皇帝時代のローマ帝国の混乱状態(帝国の分裂と対外的劣勢)はわずか30年間であり、ディオクレティアヌス帝により最終的に帝国は安定した、との見解を提示しています。
ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国で元老院議員に次ぐ身分だった騎士を積極的に要職に起用しました。これは3世紀の傾向を引き継いで強調したと言えます。一方コンスタンティヌス1世は、騎士や都市参事員の多数を元老院議員に引き上げ、伝統的に騎士身分の務めていた役職も急増した元老院議員が務める仕組みを築きました。こうして4世紀には騎士身分は事実上消滅します。3世紀の延長線上にあったディオクレティアヌス帝の統治にたいして、コンスタンティヌス1世は騎士身分の興隆という3世紀に顕著な事態と決別した、と本書では評価されています。
単独の皇帝となることが約束されていなかったコンスタンティヌス1世は、政争を勝ち抜くにあたって、当初の基盤となったローマ帝国西北部では在地有力者層との妥協を余儀なくされました。しかし、単独の皇帝となり政権を強固なものとしてローマ帝国東部を基盤とすると、皇帝直属の官僚を用いる強固な皇帝政治を確立していきました。この結果、ローマ帝国は東西で異なる政治体制に分かれていき、これが後の分裂とも関わってきます。また、コンスタンティヌス1世は辺境に大軍を駐屯させたディオクレティアヌス帝の方針を改め、自由に移動できる大規模な野戦機動軍を創設しました。この結果、ローマ帝国は外部世界の変動の影響を受けやすくなり、これが4世紀後半に大きな意味を持つことになります。
曲がりなりにもローマ帝国の統一を果たしたコンスタンティヌス1世の死後、ローマ帝国は再び有力者が兵を動員して争うようになり、疲弊していきます。政争の結果倒した敵の残党の粛清が、在地に疲弊・反感をもたらしたこともありました。この政争を勝ち抜いたコンスタンティヌス1世の次男のコンスタンティウス2世は、急増した元老院議員の地位を、金銭では変えず皇帝の判断によらねば就任できないことにして、ローマで長きに亘って影響力を振るってきた元老院を掌握し、父の代よりの皇帝権強化を推し進めました。
上述したように、コンスタンティヌス1世は政争を勝ち抜くにあたって、ローマ帝国西北部では在地有力者層との妥協を余儀なくされました。コンスタンティウス2世が実権を握って以降も、ローマ帝国内では有力者の政争が絶えず、それは軍同士の武力衝突を頻繁に伴うものでした。もちろん、「外敵」との軍事衝突もあったわけですが、ローマ帝国は次第に疲弊していきます。帝国「辺境」では兵士が不足し、兵士の補充は在地有力者を介して行われ、在地の有力者と民とが帝国の統治機構を介さずに結合することになりました。また、人口の増大による食糧不足により、貧民が在地の有力者を頼るようになります。コンスタンティヌス1世の妥協策以降、力を蓄えてきた帝国西北部の有力者たちは、こうして4世紀後半には独立傾向を強めていきます。
こうした状況の中、4世紀末にはローマ帝国内で排他的言説が目立つようになります。そこで標的とされたのは、たとえばゴート族でしたが、ゴート族のような存在もローマ市民足り得る(下層の兵士だけではなく支配者にもなり得る)、というのがじゅうらいのローマ帝国の在り様でした。ところが、4世紀末になると、じゅうらいは緩やかだったローマ市民自身と「他部族」との区分認識が強固になっていきます。4世紀後半の時点でも、「他部族」出身者がローマ帝国で重用されることはあったのですが、それは皇帝の個人的意向によるものであり、皇帝の権威や指導力が弱まれば、ローマ市民の「他部族」にたいする反発が容易に噴出したのではないか、というわけです。
混乱・衰退したローマ帝国は、周辺地域の集団にとってかつてのような魅力はなく、在地勢力の自立傾向の強くなっていた帝国西北部においては、かつてはしぶとく持ちこたえていた「外敵」の侵入により、5世紀初頭に帝国の支配は実質的に崩壊してしまいます。ローマ帝国が4世紀のかなり遅い時期まで強勢だったことを考えると、短期間の衰退ということになる、というのが本書の見解です。一方、皇帝権力の強化されていた帝国東部においては、帝国という枠組みは維持され、それどころか5世紀初頭以降、盛衰はあったにせよ、ともかく千年以上の命脈を保ちます。
本書は政治史を中心にローマ帝国の衰亡過程を以上のように叙述します。本書はローマ帝国の衰亡を、「ローマ市民である」という帝国を成立せしめていたアイデンティティが変化し、国家の本質が失われてゆく過程だった、と認識しています。領域も担い手も曖昧で、それが周辺地域の「他者」を惹きつける魅力となっていたローマ帝国は、4世紀以降に変容していきます。高まる外圧下で排他的になっていったローマ帝国は、視野狭窄に陥って失策を重ね、国家の本質・魅力が失われて衰亡していきました。ローマ帝国は外敵に倒されたのではなく、自壊したのだ、というのが本書の結論です。
本書の後書にて、「現代と露骨に引き比べるような言説は控え、歴史書たることに努めたが、私がどこかの国をローマ帝国に仮託したかどうかはともかく、読者が本書の叙述から現代世界と日本の状況を考える視点を見つけ出してくださるのなら、著者として本当に嬉しく、有り難く思う」と述べられています。おそらく、日本(に限らずヨーロッパなども念頭にあるのかもしれませんが)において排他的言動が目立ってきたことを著者は懸念しているのでしょうが、正直なところ、ローマ帝国の衰亡を排他的言説とあまりにも結びつけすぎていて、現代の懸念を強引にローマ帝国衰亡史に当てはめたのではないか、との疑問が残ります。また、排他性を結論に持ってくるのならば、心性史的な解説を中心にすべきではないのか、とも思います。
本書から私が読み取ったのは、ローマ帝国は内戦による疲弊や周辺地域の集団の成長により衰退し、その結果として最盛期までのローマ帝国にはあまり見られなかった排他的言説が横行するようになった、ということです。この排他性は、周辺地域の集団の成長(相対的な彼我の力関係の変化)・自覚化に対応したものという側面も強いように思います。排他性の顕現はローマ帝国の衰退の一側面もしくはそれを促進した一要因でしかなく、排他性をもってローマ帝国の衰退を意義づけるという見解には納得できません。もっとも、結論には疑問も残りますが、政治史の叙述は読みごたえがあり、読んで正解だったと思います。
なお、本書にはキリスト教をはじめとして宗教への言及は少ないのですが、コンスタンティヌス1世が自身の開催した第1ニカイア公会議で異端とされたアリウス派を、晩年になって信仰したことが取り上げられています。これと関連して、現代のキリスト教主流派では正統とされているアタナシウス派が、第1ニカイア公会議以降直ちに正統派としての地位を確立したわけではないことにも言及されています。また、コンスタンティウス2世がキリスト教を強制し、ローマ帝国が次第に精神的寛大さを失っていったことも指摘されています。本書の結論とも関連するのですが、不寛容なキリスト教がローマ帝国とその社会を変えていったのではなく、キリスト教もまた、社会とともに不寛容になっていったのではないか、との展望が提示されています。
簡潔にと言いつつやや長くなってしまったので、これで終わらせることにします。
次に、ローマ帝国が衰亡へと向かう転機はコンスタンティヌス1世の時代であり、ローマ帝国西部は5世紀初めには帝国の枠組みが実質的に崩壊していた、と主張している点です。ローマ帝国の衰亡を論じる場合、一般向け書籍では多くがいわゆる五賢帝の時代の終焉(コンモドゥス帝以降)を画期としている、と私は認識していましたので、この時代区分は意外でした。
本書はローマ帝国の衰亡を論じるにあたって、その意義を検証するためもあり、1章を割いてローマ帝国の最盛期について短く述べ、ローマ帝国を成立せしめている特徴を浮き彫りにします。本書はその後に、ローマ帝国の衰退過程を政治史の観点から叙述し(経済・社会・文化史についての言及がほとんどないのも本書の特徴です)、ローマ帝国衰退の意義を論じています。
本書はその前に、冒頭にてローマ帝国衰退論の変遷について簡潔にまとめています。ローマ帝国衰退論は一般向けも含めてひじょうに多く書かれており、衰退の要因は多数(本書によると210種類以上との説もあるようです)挙げられています。ローマ帝国衰退論の古典はもちろんギボン『ローマ帝国衰亡史』で、現代でも、一般層のローマ帝国衰退論についての歴史認識は、ギボンの見解を大きく出るものではないだろう、と思います。
ギボンの古典的見解にたいして、1970年代以降に新たな解釈の傾向が生じ、1990年代には有力になります。この新見解においては、ローマ帝国の「衰亡」や西ローマ帝国の「滅亡」が重視されません。「変化」よりも「継続」が、政治よりも社会や宗教(心性)が重視されるようになり、「ローマ帝国の衰亡」ではなく「ローマ世界の変容」が問題とされます。この傾向と関連して、いわゆるゲルマン民族の大移動の破壊的性格を低く見積もり、移動した人々の「順応」を強調するとともに、ギリシアやローマ以外の古代世界を重視する傾向も見られるようになりました。
本書はこうした古典的なローマ帝国衰退論の見直しについて、20世紀後半の多文化主義的傾向やポスト植民地主義やヨーロッパ連合の統合進展などが背景にあるのではないか、と指摘しています。一方本書は、近代におけるローマ帝国衰退論でのゲルマン人への視線(固定的な民族として把握したり、野蛮視したりすること)には、ヨーロッパの近代ナショナリズムや植民地主義という時代背景があったのではないか、とも指摘しています。
1990年代には有力になった上記の新たなローマ帝国論にたいして、21世紀になって欧米では「ローマ帝国の衰亡」を重視すべきだ、という主旨の著作がいくつか発表されるようになった、と本書は紹介しています。ローマ帝国論について今後の動向が注目される、と述べる本書は、独自の考えでローマ帝国の「衰亡史」を語る、と宣言します。ローマ帝国という政治的枠組み及びそれによって作られていた世界が衰退し崩れる局面を取り上げる、ということです。本書の前提についての説明の時点で長くなってしまったので、本書の本論については、以下になるべく簡潔にまとめることにします。
本書はまず、ローマ帝国最盛期について概観し、ローマ帝国の性格を指摘します。最盛期のローマ帝国は、ローマ市民ではなかった人にも市民権と出世の道を閉ざしておらず開放的だった、というのが本書の見解です。ローマ市民権を得るには、軍務などで功績を積み、髪型・服装・言語などでローマ風であればよく、その血統的出自は問われませんでした。5世紀初頭までを対象とする本書において一貫して強調されていることなのですが、当時のローマ帝国にあっては「民族」による区分という概念はなく、ゲルマン人など近代以降の人間が「異民族」として認識している当時の集団にしても、「民族」として固定的に把握はできない、ということです。
最盛期のローマ帝国にあって自他を区別するのは、ローマ市民であるか否かということでした。ローマ市民ではなかった人が市民権を獲得する条件は上述しましたが、そうした人々は軍功に代表される帝国への貢献により、帝国内での出世が可能でした。もちろん、出世にあたっては能力・人脈・財力などが重要となります。この開放的な性格が、ローマ帝国の「辺境」のローマ市民ではない人々を惹きつけ、新たな兵力や支配層の供給源となりました。ローマ帝国を成立せしめていたのは、自分はローマ市民だという人々の自覚・自意識でした。ただ、「辺境」では支配層と比較して被支配層のローマ化はあまり進んでいませんでした。
この開放的な性格とも関連しているのか、ローマ帝国の「国境線」は現代の諸国間のそれと比較して曖昧なところがありました。ローマ帝国の「最前線」の拠点都市(軍事・政治面で)とローマ帝国が支配できていない地域との間には、ローマ帝国の文化・生産物が浸透していた地域があり、現代的な観点でローマ帝国の「国境線」を安易に引くことは困難なようです。これらはまた、ローマ人の領土は人の住む世界のどこまでも広がる、という観念にもつながっていました。
最盛期ローマ帝国をこのように把握したうえで、本書はその「衰退」について論じます。ローマ帝国が衰亡へと向かう転機としてコンスタンティヌス1世の時代に着目する本書の見解にたいしては、いわゆる軍人皇帝の時代はどう評価されるのか、との疑問があるでしょう。本書は、軍人皇帝時代のローマ帝国の混乱状態(帝国の分裂と対外的劣勢)はわずか30年間であり、ディオクレティアヌス帝により最終的に帝国は安定した、との見解を提示しています。
ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国で元老院議員に次ぐ身分だった騎士を積極的に要職に起用しました。これは3世紀の傾向を引き継いで強調したと言えます。一方コンスタンティヌス1世は、騎士や都市参事員の多数を元老院議員に引き上げ、伝統的に騎士身分の務めていた役職も急増した元老院議員が務める仕組みを築きました。こうして4世紀には騎士身分は事実上消滅します。3世紀の延長線上にあったディオクレティアヌス帝の統治にたいして、コンスタンティヌス1世は騎士身分の興隆という3世紀に顕著な事態と決別した、と本書では評価されています。
単独の皇帝となることが約束されていなかったコンスタンティヌス1世は、政争を勝ち抜くにあたって、当初の基盤となったローマ帝国西北部では在地有力者層との妥協を余儀なくされました。しかし、単独の皇帝となり政権を強固なものとしてローマ帝国東部を基盤とすると、皇帝直属の官僚を用いる強固な皇帝政治を確立していきました。この結果、ローマ帝国は東西で異なる政治体制に分かれていき、これが後の分裂とも関わってきます。また、コンスタンティヌス1世は辺境に大軍を駐屯させたディオクレティアヌス帝の方針を改め、自由に移動できる大規模な野戦機動軍を創設しました。この結果、ローマ帝国は外部世界の変動の影響を受けやすくなり、これが4世紀後半に大きな意味を持つことになります。
曲がりなりにもローマ帝国の統一を果たしたコンスタンティヌス1世の死後、ローマ帝国は再び有力者が兵を動員して争うようになり、疲弊していきます。政争の結果倒した敵の残党の粛清が、在地に疲弊・反感をもたらしたこともありました。この政争を勝ち抜いたコンスタンティヌス1世の次男のコンスタンティウス2世は、急増した元老院議員の地位を、金銭では変えず皇帝の判断によらねば就任できないことにして、ローマで長きに亘って影響力を振るってきた元老院を掌握し、父の代よりの皇帝権強化を推し進めました。
上述したように、コンスタンティヌス1世は政争を勝ち抜くにあたって、ローマ帝国西北部では在地有力者層との妥協を余儀なくされました。コンスタンティウス2世が実権を握って以降も、ローマ帝国内では有力者の政争が絶えず、それは軍同士の武力衝突を頻繁に伴うものでした。もちろん、「外敵」との軍事衝突もあったわけですが、ローマ帝国は次第に疲弊していきます。帝国「辺境」では兵士が不足し、兵士の補充は在地有力者を介して行われ、在地の有力者と民とが帝国の統治機構を介さずに結合することになりました。また、人口の増大による食糧不足により、貧民が在地の有力者を頼るようになります。コンスタンティヌス1世の妥協策以降、力を蓄えてきた帝国西北部の有力者たちは、こうして4世紀後半には独立傾向を強めていきます。
こうした状況の中、4世紀末にはローマ帝国内で排他的言説が目立つようになります。そこで標的とされたのは、たとえばゴート族でしたが、ゴート族のような存在もローマ市民足り得る(下層の兵士だけではなく支配者にもなり得る)、というのがじゅうらいのローマ帝国の在り様でした。ところが、4世紀末になると、じゅうらいは緩やかだったローマ市民自身と「他部族」との区分認識が強固になっていきます。4世紀後半の時点でも、「他部族」出身者がローマ帝国で重用されることはあったのですが、それは皇帝の個人的意向によるものであり、皇帝の権威や指導力が弱まれば、ローマ市民の「他部族」にたいする反発が容易に噴出したのではないか、というわけです。
混乱・衰退したローマ帝国は、周辺地域の集団にとってかつてのような魅力はなく、在地勢力の自立傾向の強くなっていた帝国西北部においては、かつてはしぶとく持ちこたえていた「外敵」の侵入により、5世紀初頭に帝国の支配は実質的に崩壊してしまいます。ローマ帝国が4世紀のかなり遅い時期まで強勢だったことを考えると、短期間の衰退ということになる、というのが本書の見解です。一方、皇帝権力の強化されていた帝国東部においては、帝国という枠組みは維持され、それどころか5世紀初頭以降、盛衰はあったにせよ、ともかく千年以上の命脈を保ちます。
本書は政治史を中心にローマ帝国の衰亡過程を以上のように叙述します。本書はローマ帝国の衰亡を、「ローマ市民である」という帝国を成立せしめていたアイデンティティが変化し、国家の本質が失われてゆく過程だった、と認識しています。領域も担い手も曖昧で、それが周辺地域の「他者」を惹きつける魅力となっていたローマ帝国は、4世紀以降に変容していきます。高まる外圧下で排他的になっていったローマ帝国は、視野狭窄に陥って失策を重ね、国家の本質・魅力が失われて衰亡していきました。ローマ帝国は外敵に倒されたのではなく、自壊したのだ、というのが本書の結論です。
本書の後書にて、「現代と露骨に引き比べるような言説は控え、歴史書たることに努めたが、私がどこかの国をローマ帝国に仮託したかどうかはともかく、読者が本書の叙述から現代世界と日本の状況を考える視点を見つけ出してくださるのなら、著者として本当に嬉しく、有り難く思う」と述べられています。おそらく、日本(に限らずヨーロッパなども念頭にあるのかもしれませんが)において排他的言動が目立ってきたことを著者は懸念しているのでしょうが、正直なところ、ローマ帝国の衰亡を排他的言説とあまりにも結びつけすぎていて、現代の懸念を強引にローマ帝国衰亡史に当てはめたのではないか、との疑問が残ります。また、排他性を結論に持ってくるのならば、心性史的な解説を中心にすべきではないのか、とも思います。
本書から私が読み取ったのは、ローマ帝国は内戦による疲弊や周辺地域の集団の成長により衰退し、その結果として最盛期までのローマ帝国にはあまり見られなかった排他的言説が横行するようになった、ということです。この排他性は、周辺地域の集団の成長(相対的な彼我の力関係の変化)・自覚化に対応したものという側面も強いように思います。排他性の顕現はローマ帝国の衰退の一側面もしくはそれを促進した一要因でしかなく、排他性をもってローマ帝国の衰退を意義づけるという見解には納得できません。もっとも、結論には疑問も残りますが、政治史の叙述は読みごたえがあり、読んで正解だったと思います。
なお、本書にはキリスト教をはじめとして宗教への言及は少ないのですが、コンスタンティヌス1世が自身の開催した第1ニカイア公会議で異端とされたアリウス派を、晩年になって信仰したことが取り上げられています。これと関連して、現代のキリスト教主流派では正統とされているアタナシウス派が、第1ニカイア公会議以降直ちに正統派としての地位を確立したわけではないことにも言及されています。また、コンスタンティウス2世がキリスト教を強制し、ローマ帝国が次第に精神的寛大さを失っていったことも指摘されています。本書の結論とも関連するのですが、不寛容なキリスト教がローマ帝国とその社会を変えていったのではなく、キリスト教もまた、社会とともに不寛容になっていったのではないか、との展望が提示されています。
簡潔にと言いつつやや長くなってしまったので、これで終わらせることにします。
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