『週刊新発見!日本の歴史』第16号「平安時代4 摂関政治の絶頂と転機」

 まだ日付は変わっていないのですが、10月9日分の記事として掲載しておきます。この第16号は藤原道長の摂政就任から藤原頼通の死去までを対象としており、いわゆる摂関政治の全盛期とその終焉を扱っています。頼通の晩年には、後三条天皇が即位し、譲位して半年後に崩御するのですが、この第16号は後三条天皇についてほとんど言及していません。後三条朝の政治は次号で取り上げられるということなのかもしれません。この第16号の基調は、摂関政治の全盛期~末期だった11世紀の第1四半期~第3四半期を、中世の胎動期として位置づけていることです。

 まず、一般向けの週刊誌であることを意識してか、摂関時代を政所政治と位置づける古典的理解が現在では否定されていることが強調されています。摂関時代には、摂関が政治を私物化して国政が乱れた、という理解は今でも一般には根強いようにも思われますので、必要な配慮と言えるかもしれません。摂関政治の全盛期に見られる中世胎動期の特徴の一つとして、さまざまな社会集団の台頭が挙げられています。たとえば、牛車を引く牛飼がその一例で、中世の牛飼の座の起源とされています。中世へとつながる、職能別の集団・編成化ということでしょうか。武士の台頭もこの文脈で解釈するのがよいのかもしれません。

 中世の権門の一角を担った大寺社にも、この時期に中世的な特徴が現れ始めます。それは、集団を代表する顕貴な人物やその一族と(学究の小集団と重なり合うことが多いようですが)、集団を支える下位の構成員(寺社を経済的に支えていきます)とに分かれるという二重構造です。上級貴族(公卿)が下級貴族と主従関係を結んでいくことも、この時代に顕著に見え始める特徴です。ただ、摂関時代の貴族間の主従関係や家格秩序は、中世ほどには固定的ではなかったことも指摘されています。

 その他には、以下のようなことが指摘されています。藤原彰子(上東門院)が代表的ですが、この時代には母后の影響力が大きかったようです。日本では1052年から末法の世に入ると考えられていましたが、寺社の消失が末法の世の始まりを実感させたという事情もあったようです。東国の荒廃を招いたとされる平忠常の乱により、秀郷流藤原氏や貞盛流平氏が打撃を受け、河内源氏が中央軍事貴族の第一人者たる地位を占めることになりました。

 1019年のいわゆる刀伊の入寇については、高校までの日本史教育では孤立した突発的な事件として教えられてきたように思います。しかし、この第16号では、キタイ帝国(遼、契丹)・ジュシェン(女真)・高麗・宋といった広範囲を視野に入れた考察が提示されています。キタイ帝国はジュシェンと宋との交易路を遮断し、ジュシェンを攻撃しました。さらに、キタイ帝国が宋と1004年に和平条約を締結し(澶淵の盟)、1018年に高麗に遠征するなか、高麗の混乱に乗じてジュシェンの一部が海賊化して朝鮮半島東岸を荒すようになった延長線上に、いわゆる刀伊の入寇があった、というわけです。この第16号も、全体的になかなか興味深く読み進められました。

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