『週刊新発見!日本の歴史』第11号「奈良時代1 聖武天皇と大仏造立」

 この第11号は平城京遷都から聖武上皇崩御あたりまでを対象としています。平城京の下級官人や庶民の様相についてもやや詳しく述べられているところが、一般向け歴史書でよく見られる物語的な政治史に慣れている読者にとっては「新発見」になるでしょうか。この第11号では、平城京の下級官人や庶民がたくましく生きぬいていた様が、木簡などから描かれています。また、宮城や寺院など大規模な建築の相次いだ奈良時代は、大規模建築にあたって造営工程や施行方法を見直して単純労働者による工事を増やす傾向が見られ、職人技の時代から工程管理の時代へという転換点だったのではないか、との指摘は興味深いものです。

 奈良時代を象徴する建築物ということなのか、東大寺についての記述が多めなのがこの第11号の特徴で、近年の考古学的成果に基づき、東大寺の成立過程についてやや詳しく述べられています。やや残念だったのは、聖武天皇の人物像については多少記述があったのにたいして、聖武天皇とともに表紙に描かれた光明皇后については言及が少なかったことです。飛鳥時代~奈良時代の女帝が、天皇(大王)かそれにほとんど準ずる地位にあった人物(草壁皇子)のキサキ(大后・皇后)で天皇だった夫の没後に即位して夫没後は再婚しなかったか(安宿媛の立后が問題となったのも、後に即位する可能性のある皇后に皇族ではない人物が立てられることが懸念されたから、と考えるのが妥当でしょう)、後継者不在または後継者の条件不足により内親王の立場から即位して生涯未婚を貫いたことと、皇位継承にあたっての草壁皇子の系統への執着という飛鳥時代~奈良時代の現実の皇位継承の具体的様相を考えると、この第11号の皇位継承についての論考の、以下に引用する結論には疑問が残りますが、この問題については私もまだ不勉強なので、今後の課題としておきます。

 大宝令文が「女帝」の出現を想定し、女帝の子・兄弟を皇位継承の可能性がある「親王」として規定していることは重要であり、法的には女帝の実子の即位を想定したものである。この点は、男系継承を大前提とする、いわゆる女帝中継ぎ論では説明できない。女帝の即位後(あるいは即位前)における男帝以外の男性との婚姻および出産の可能性を視野に入れての立法だったことになる。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック