大海人には即位の資格がなかったのか
この記事では、(治天下)大王という表記は用いず、天皇という表記で統一することにします。また、王族ではなく皇族という表記で統一します。『日本書紀』において、大海人皇子(天武天皇)は天智朝において皇太子(東宮)に立てられたと記載されているのですが、大海人皇子には本来天皇に即位する資格がなかったのではないか、との見解は、たとえば遠山美都男氏が『日本書紀の虚構と史実』
https://sicambre.seesaa.net/article/201209article_26.html
や『天智と持統』
https://sicambre.seesaa.net/article/201206article_26.html
で提示しています。
欽明天皇以降、原則として即位資格が認められていたのは母親の長男であり(もちろん、父親が皇族であることが必要条件となります)、母親の次男以降が即位した事例はほとんどない、というわけです。欽明天皇以降、天武天皇までの皇位は、欽明→敏達→用明→崇峻→推古→舒明→皇極→孝徳→斉明→天智→(弘文)→天武となります。皇極と斉明は同一人物です(重祚)。継体天皇の息子である欽明天皇は母の手白香皇女の長男(というか、同母の姉・妹・弟がいたとは伝わっていません)です。欽明天皇の息子の敏達天皇には箭田珠勝大兄皇子という同母兄がいましたが、箭田珠勝大兄皇子は欽明天皇の在位中に死んでいますので(欽明天皇の死ぬ20年近く前)、敏達天皇が実質的には長男として扱われていたのでしょう。用明天皇は欽明天皇の息子で母の堅塩媛の長男です。
欽明天皇と小姉君との間の息子である崇峻天皇は例外的存在で、『日本書紀』には、欽明天皇と小姉君との間の5人の子供たち(そのうち一人は皇女)の誕生順について複数の説が記載されていますが、いずれにしても崇峻天皇は末子とされています。母親の次男以降に即位資格はない、という仮説のもっとも弱いところが崇峻天皇の事例なのですが、崇峻天皇の同母兄の穴穂部皇子は、崇峻の即位直前の587年の丁未の役(の前段階)で殺されており、あるいは他の同母兄もその頃までに死んでいたのかもしれません。
推古天皇は欽明天皇と堅塩媛の娘ですが、即位については、出生順には関係なく、異母兄の敏達天皇の皇后だったという実績によるものだろう、と思います。この後に、同じく皇后だった天皇として皇極(斉明)と持統がいますが(元明天皇も、夫の草壁皇子が次代の天皇としてほぼ決まっており、いわば皇后に準ずる地位だった、という立場による即位とも考えられます)、推古天皇はその最初の例となりました。ただ、どこまで実在性があるのか疑問な神功皇后はさておくとしても、欽明天皇の即位前に、その先々代の皇后だった春日山田皇女に即位する(というか政務を執る)よう要請があったという事例も『日本書紀』に記載されていますので、この記事にどこまで信用性があるのかという問題は残りますが、奈良時代に皇后とはならずに(というか生涯未婚でしたが)即位した女帝である元正・孝謙(称徳)と比較すると、推古の即位は当時の支配層にとってさほど問題視されなかったのかもしれません。
舒明天皇は、敏達天皇の息子である押坂彦人大兄皇子の息子で、『古事記』によると、母の糠手姫皇女の長男となります。皇極天皇は、上述したように舒明天皇の皇后という実績により即位したのだと思います。その次代の孝徳天皇は皇極天皇の同父同母弟ですが、この二人の他には同父同母だけではなく異母となる兄弟の存在も伝えられていませんので、孝徳天皇も長男という可能性が高そうです。皇極天皇が重祚したのが斉明天皇で、その次代の天智天皇(葛城皇子、中大兄皇子)は舒明天皇と皇極天皇との間の長男です。もっとも、天智天皇には異父兄(漢皇子)がいるので、あくまでも皇位継承(の有力)者たる夫との間の子供の誕生順が問題となるのだ、とか『日本書紀』に一度しか見えない漢皇子は若くして死んだのだろう、との説明も可能かもしれませんが、やや例外的な事例とも言えるかもしれません。
天智天皇の次の天皇が天智の息子の大友皇子(弘文天皇)か天智の弟の天武天皇かという問題は、古くから議論が続いていますが、大友皇子は母である伊賀采女宅子娘の長男であり、原則として即位資格が認められていたのは母親の長男である、という仮説には反しません。天武天皇は天智天皇の同父同母弟なので、明らかにこの仮説に反します。こうしてみると、欽明天皇~天武天皇までで、皇后から即位した女帝二人を除くと、崇峻天皇の事例が怪しいものの(天智天皇も多少怪しいと言えるかもしれませんが)、原則として即位資格が認められていたのは母親の長男である、という仮説にはそれなりに説得力があり、この仮説に明らかに反するのは天武天皇くらいです。
おそらくこれは、欽明天皇(即位のやや前)~天武天皇の頃までの特有の事象として、大兄と称する皇子が複数存在したこととも関わってくるのでしょう。大兄は皇位継承の有力候補者とも言われていますが、大兄を名乗るのは同じ母親の子供たちのうちの長男であり、したがって、大兄を称する息子が二人以上いる天皇・皇子もいます(欽明天皇・舒明天皇ですが、同時期に二人大兄を称する皇子がいたのかとなると、不明です)。おそらく、皇位継承の有力候補者として認められたのは母親の長男だけであり(漢皇子の存在を重視すると、皇位継承の有力者たる夫との間に生まれた長男ということになりますが)、それを示す一種の称号としての大兄だったのだろう、と思います。
そうすると、天武天皇には原則として即位資格はなく、天智朝で東宮に立てられたという『日本書紀』の記述も、本来は天皇に即位するはずだったのに、天智天皇の奸臣により即位を阻まれて命も狙われたために仕方なく決起した、として天武天皇を正当化するための偽りだったのかもしれません。天武天皇は「大皇弟」とも呼ばれていますが、おそらく、天智朝(称制期間も含む)において天皇の弟君ということで尊称で呼ばれていただけで、皇太子ではなかったのでしょうし、そもそも天智朝の頃までに皇太子制が確立していたのか、疑問です。
天智天皇の皇位継承構想が実際にはどのようなものだったのか、今となっては分かりませんが、遠山氏の見解では、天智が真の後継者に想定したのは、天智・天武両者の血を継承している草壁皇子・大津皇子・葛野王であり(いずれも母親の長男です)、まだ成人前の彼らが即位するまで大友皇子が天皇に即位して天武が後見する、とされています。もっとも、大友皇子は天智天皇の晩年でも即位に相応しい年齢(あくまでも当時の観念で)に達していなかった可能性があるので、遠山説を認めるにしても、大友皇子は天智天皇と同じく一定期間は即位せずに称制するか、天武が出家するさいに天智天皇に進言したように、天智天皇の皇后である倭姫王が即位して大友皇子と天武が後見する、という体制も天智天皇の念頭にあったのかもしれません。
なお、天皇に即位するにあたって母親の血筋が問題となるのは壬申の乱の後だ、と遠山氏は主張していますが、欽明天皇~天武天皇まで(というか奈良時代の元正天皇まで)の天皇の母親は、即位したか疑わしい大友皇子を除けば皇族か蘇我氏であり、おそらくとても名族の出身とは言えなさそうな伊賀采女宅子娘を母親に持つ大友皇子にたいして、即位資格を疑う人が中央支配層には多かった、という通俗的な説明も捨て去ることはできないだろう、と思います。壬申の乱における天武の勝利も、大友皇子の血筋への疑問が一因としてあったと考えるほうが、納得できるように思います。
以上、だらだらと述べてきましたが、連載中の『天智と天武~新説・日本書紀~』では、第20話「巡り物語」にて、
https://sicambre.seesaa.net/article/201306article_13.html
宝皇女(斉明帝)の女官たちが、天智天皇(葛城皇子、中大兄皇子)の弟で生まれたばかりの月皇子(大海人皇子)を可愛がり、即位したら多くの民に慕われるだろうが、残念ながら二番目の皇子だ、と言う場面が描かれています。天智天皇の異母兄の古人大兄皇子については、皇位継承の有力候補者だったことを示唆する場面も描かれていますから、『天智と天武~新説・日本書紀~』でも、即位資格のあるのは母親の長男だという設定なのかもしれません。まあ、『天智と天武~新説・日本書紀~』では、大海人皇子の実父は舒明天皇ではなく蘇我入鹿ですから、天智天皇の同母弟だからという以前に、そもそも即位資格がなさそうではありますが。もっとも、斉明天皇は大海人皇子を実子だと公表していますから、公的には大海人皇子は舒明天皇の息子とされたのでしょう。
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や『天智と持統』
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で提示しています。
欽明天皇以降、原則として即位資格が認められていたのは母親の長男であり(もちろん、父親が皇族であることが必要条件となります)、母親の次男以降が即位した事例はほとんどない、というわけです。欽明天皇以降、天武天皇までの皇位は、欽明→敏達→用明→崇峻→推古→舒明→皇極→孝徳→斉明→天智→(弘文)→天武となります。皇極と斉明は同一人物です(重祚)。継体天皇の息子である欽明天皇は母の手白香皇女の長男(というか、同母の姉・妹・弟がいたとは伝わっていません)です。欽明天皇の息子の敏達天皇には箭田珠勝大兄皇子という同母兄がいましたが、箭田珠勝大兄皇子は欽明天皇の在位中に死んでいますので(欽明天皇の死ぬ20年近く前)、敏達天皇が実質的には長男として扱われていたのでしょう。用明天皇は欽明天皇の息子で母の堅塩媛の長男です。
欽明天皇と小姉君との間の息子である崇峻天皇は例外的存在で、『日本書紀』には、欽明天皇と小姉君との間の5人の子供たち(そのうち一人は皇女)の誕生順について複数の説が記載されていますが、いずれにしても崇峻天皇は末子とされています。母親の次男以降に即位資格はない、という仮説のもっとも弱いところが崇峻天皇の事例なのですが、崇峻天皇の同母兄の穴穂部皇子は、崇峻の即位直前の587年の丁未の役(の前段階)で殺されており、あるいは他の同母兄もその頃までに死んでいたのかもしれません。
推古天皇は欽明天皇と堅塩媛の娘ですが、即位については、出生順には関係なく、異母兄の敏達天皇の皇后だったという実績によるものだろう、と思います。この後に、同じく皇后だった天皇として皇極(斉明)と持統がいますが(元明天皇も、夫の草壁皇子が次代の天皇としてほぼ決まっており、いわば皇后に準ずる地位だった、という立場による即位とも考えられます)、推古天皇はその最初の例となりました。ただ、どこまで実在性があるのか疑問な神功皇后はさておくとしても、欽明天皇の即位前に、その先々代の皇后だった春日山田皇女に即位する(というか政務を執る)よう要請があったという事例も『日本書紀』に記載されていますので、この記事にどこまで信用性があるのかという問題は残りますが、奈良時代に皇后とはならずに(というか生涯未婚でしたが)即位した女帝である元正・孝謙(称徳)と比較すると、推古の即位は当時の支配層にとってさほど問題視されなかったのかもしれません。
舒明天皇は、敏達天皇の息子である押坂彦人大兄皇子の息子で、『古事記』によると、母の糠手姫皇女の長男となります。皇極天皇は、上述したように舒明天皇の皇后という実績により即位したのだと思います。その次代の孝徳天皇は皇極天皇の同父同母弟ですが、この二人の他には同父同母だけではなく異母となる兄弟の存在も伝えられていませんので、孝徳天皇も長男という可能性が高そうです。皇極天皇が重祚したのが斉明天皇で、その次代の天智天皇(葛城皇子、中大兄皇子)は舒明天皇と皇極天皇との間の長男です。もっとも、天智天皇には異父兄(漢皇子)がいるので、あくまでも皇位継承(の有力)者たる夫との間の子供の誕生順が問題となるのだ、とか『日本書紀』に一度しか見えない漢皇子は若くして死んだのだろう、との説明も可能かもしれませんが、やや例外的な事例とも言えるかもしれません。
天智天皇の次の天皇が天智の息子の大友皇子(弘文天皇)か天智の弟の天武天皇かという問題は、古くから議論が続いていますが、大友皇子は母である伊賀采女宅子娘の長男であり、原則として即位資格が認められていたのは母親の長男である、という仮説には反しません。天武天皇は天智天皇の同父同母弟なので、明らかにこの仮説に反します。こうしてみると、欽明天皇~天武天皇までで、皇后から即位した女帝二人を除くと、崇峻天皇の事例が怪しいものの(天智天皇も多少怪しいと言えるかもしれませんが)、原則として即位資格が認められていたのは母親の長男である、という仮説にはそれなりに説得力があり、この仮説に明らかに反するのは天武天皇くらいです。
おそらくこれは、欽明天皇(即位のやや前)~天武天皇の頃までの特有の事象として、大兄と称する皇子が複数存在したこととも関わってくるのでしょう。大兄は皇位継承の有力候補者とも言われていますが、大兄を名乗るのは同じ母親の子供たちのうちの長男であり、したがって、大兄を称する息子が二人以上いる天皇・皇子もいます(欽明天皇・舒明天皇ですが、同時期に二人大兄を称する皇子がいたのかとなると、不明です)。おそらく、皇位継承の有力候補者として認められたのは母親の長男だけであり(漢皇子の存在を重視すると、皇位継承の有力者たる夫との間に生まれた長男ということになりますが)、それを示す一種の称号としての大兄だったのだろう、と思います。
そうすると、天武天皇には原則として即位資格はなく、天智朝で東宮に立てられたという『日本書紀』の記述も、本来は天皇に即位するはずだったのに、天智天皇の奸臣により即位を阻まれて命も狙われたために仕方なく決起した、として天武天皇を正当化するための偽りだったのかもしれません。天武天皇は「大皇弟」とも呼ばれていますが、おそらく、天智朝(称制期間も含む)において天皇の弟君ということで尊称で呼ばれていただけで、皇太子ではなかったのでしょうし、そもそも天智朝の頃までに皇太子制が確立していたのか、疑問です。
天智天皇の皇位継承構想が実際にはどのようなものだったのか、今となっては分かりませんが、遠山氏の見解では、天智が真の後継者に想定したのは、天智・天武両者の血を継承している草壁皇子・大津皇子・葛野王であり(いずれも母親の長男です)、まだ成人前の彼らが即位するまで大友皇子が天皇に即位して天武が後見する、とされています。もっとも、大友皇子は天智天皇の晩年でも即位に相応しい年齢(あくまでも当時の観念で)に達していなかった可能性があるので、遠山説を認めるにしても、大友皇子は天智天皇と同じく一定期間は即位せずに称制するか、天武が出家するさいに天智天皇に進言したように、天智天皇の皇后である倭姫王が即位して大友皇子と天武が後見する、という体制も天智天皇の念頭にあったのかもしれません。
なお、天皇に即位するにあたって母親の血筋が問題となるのは壬申の乱の後だ、と遠山氏は主張していますが、欽明天皇~天武天皇まで(というか奈良時代の元正天皇まで)の天皇の母親は、即位したか疑わしい大友皇子を除けば皇族か蘇我氏であり、おそらくとても名族の出身とは言えなさそうな伊賀采女宅子娘を母親に持つ大友皇子にたいして、即位資格を疑う人が中央支配層には多かった、という通俗的な説明も捨て去ることはできないだろう、と思います。壬申の乱における天武の勝利も、大友皇子の血筋への疑問が一因としてあったと考えるほうが、納得できるように思います。
以上、だらだらと述べてきましたが、連載中の『天智と天武~新説・日本書紀~』では、第20話「巡り物語」にて、
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宝皇女(斉明帝)の女官たちが、天智天皇(葛城皇子、中大兄皇子)の弟で生まれたばかりの月皇子(大海人皇子)を可愛がり、即位したら多くの民に慕われるだろうが、残念ながら二番目の皇子だ、と言う場面が描かれています。天智天皇の異母兄の古人大兄皇子については、皇位継承の有力候補者だったことを示唆する場面も描かれていますから、『天智と天武~新説・日本書紀~』でも、即位資格のあるのは母親の長男だという設定なのかもしれません。まあ、『天智と天武~新説・日本書紀~』では、大海人皇子の実父は舒明天皇ではなく蘇我入鹿ですから、天智天皇の同母弟だからという以前に、そもそも即位資格がなさそうではありますが。もっとも、斉明天皇は大海人皇子を実子だと公表していますから、公的には大海人皇子は舒明天皇の息子とされたのでしょう。
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