トウカイテイオー死亡

 先月30日、トウカイテイオーが種牡馬として繋養されていた社台スタリオンステーションで死亡しました。
http://www.jra.go.jp/news/201308/083108.html

 25歳ということで、もう死亡しても不思議ではない年齢ですが、トウカイテイオーが25歳ということですから、私も年をとるはずです。ミスターシービーのファンだった私は、シンボリルドルフ産駒のトウカイテイオーにたいして複雑な思いを抱いていたというか、トウカイテイオーが頭角を現してきた頃は、正直なところアンチでした。もっとも、その後、トウカイテイオーが父のシンボリルドルフとは異なり、古馬になって脆さをたびたび見せるようになってからは、嫌いな馬ではなくなりましたが。この、強いだけではなく脆さも内包しているというところが、容貌の美しさもあって、トウカイテイオーが高い一般的な人気を得た理由なのではないか、と思います。

 ただ、今になってみると、トウカイテイオーこそがシンボリルドルフとミスターシービーとの1990年代以降の一般的な人気・知名度の差を決定づけたような気もします。その意味で、私は依然としてトウカイテイオーにたいして複雑な感情があり、単純に好きな馬だと思うことはできません。シンボリルドルフは今でも伝説の名馬としてしばしば引用されますし、高い権威を保持していますが、ミスターシービーの方はというと、ネットでは地味な馬と評価されることも珍しくありません。ミスターシービーが現役時代にファンだった私からすると、受け入れたくはない評価ですし、ミスターシービーやシンボリルドルフが現役だった頃で考えると、明らかに間違った評価なのですが、一方で、今となってはそのように見られることも仕方ないのかな、とも思います。

 1994年にナリタブライアンが中央競馬史上5頭目の三冠馬となりましたが、ナリタブライアンが二冠を達成してから菊花賞を勝った前後の頃までの、三冠馬がとくに話題になった期間でさえ、フジテレビの競馬中継でナリタブライアンの比較対象として取り上げられるのはおもにシンボリルドルフとシンザンで、ミスターシービーは無視されるか、軽い扱いを受けるだけでした。ミスターシービーのファンだった私は、当時この扱いに大いに落胆したものでした。その後、2003年にネオユニヴァース・2005年にディープインパクト・2006年にメイショウサムソン・2011年にオルフェーヴルが三冠へと挑みましたが(このうち三冠を達成したのは、ディープインパクトとオルフェーヴル)、そのさいのフジテレビの競馬中継でも、シンザン・シンボリルドルフ・ナリタブライアン・ディープインパクトと比較すると、ミスターシービーが言及されることはずっと少なかったように記憶しています。

 これは、21世紀以降のネットでのミスターシービーの評価を考えると、多くの競馬ファンの思いを反映しているのではないかな、と思います。今では、競馬ファンの間でさえ、ミスターシービーよりもシンボリルドルフの方がはるかに人気・知名度・評価も高いでしょう。これにはもっともな理由があり、国内ではほぼ完璧な成績を残したシンボリルドルフに、ミスターシービーは3回の直接対決すべてで完敗しています。競走馬・競争能力としての評価で、ミスターシービーは神格化されたシンボリルドルフよりもずっと下であることは否定できません。まあ、私のようなミスターシービーのファンで、天皇賞(秋)の後ミスターシービーは調子が悪く、絶好調時の比較ならば、芝2000m以下ではシンボリルドルフを逆転できるのではないか、と密かに考えている人はそれなりにいるようですが、競馬ファンの一般的な評価では、ミスターシービーはシンボリルドルフよりも格下ということは否定できません。

 ただ、現在のミスターシービーとシンボリルドルフとの一般的な評価の差がここまで大きくなったのは、単に競争成績・能力だけが要因ではない、とも思います。両者の評価の差を決定づけた要因として、現役時代の実績と同じくらい重要なのが、両者の産駒なのではないか、と私は考えています。シンボリルドルフの初年度産駒がトウカイテイオーで、父と同じく無敗の二冠馬となり、故障・敗戦など何度もの挫折を含むその劇的な競走馬生活は、父には欠けていた、高いアイドル的な人気をトウカイテイオーにもたらしました。競走能力も高く評価され、今でもジャパンカップ史上最高の出走馬構成とも言われる1992年のジャパンカップを勝ち、翌年にはビワハヤヒデ・レガシーワールド・ウイニングチケット・ライスシャワー(この頃は不調でしたが)・メジロパーマー・ベガ・ナイスネイチャといった豪華な出走馬構成となった有馬記念を、長期休養明けで勝ちました。

 こうした劇的な競走馬生活と高く評価された能力から、トウカイテイオーも父のシンボリルドルフとはやや違った方向ながら神格化されました。シンボリルドルフの種牡馬成績は、トウカイテイオーを抜きにしてもさほど悪いとは思いませんが、当初寄せられていた大きな期待からすると失敗だったと言えるでしょう。しかし、トウカイテイオーという歴史的名馬を輩出したことで、シンボリルドルフは種牡馬になってもその権威を大きく低下させることはなく、むしろその権威は一層高まり、さらに神格化されたのではないか、とさえ思います。

 一方、ミスターシービーは種牡馬として失敗した、という評価が一般的のようです。全体的にはそこまで悪い成績ではないかもしれませんが、父のトウショウボーイが恵まれているとは言えない種牡馬環境で成功していたということもありますから、やはり当初は期待されていたわけで、その期待からすると、やはり失敗だと言えるでしょう。しかし、一般的な種牡馬についての認識では、種牡馬成績そのものよりも、むしろ大物を輩出できたか否かの方が重要なのではないか、と思います。その意味で、GI・JRAGI勝ち馬をついに輩出できなかったミスターシービーが、種牡馬として失敗した、と認識されても仕方のないところはあるでしょう。

 しかし、ミスターシービーにも種牡馬として脚光を浴びた時期が短いながらもありました。ミスターシービーの初年度産駒がデビューした1989年、ヤマニングローバルが無傷の3連勝でデイリー杯3歳ステークス(現在のレース名はデイリー杯2歳ステークス)を勝ち、超大物ではないか、と騒がれました。年代・時系列について記憶がやや曖昧なのですが、同じくミスターシービーの初年度産駒のスイートミトゥーナが1990年1月にクイーンカップを勝ったこともあって、種牡馬ミスターシービーへの期待がたいへん高まり、1990年春のミスターシービーの種付け権利に2000万円の値がつけられたこともあり、ミスターシービーは種牡馬として脚光を浴びました。

 しかし、その後のミスターシービーの種牡馬成績はとても2000万円という種付け権利に見合わないものであり、結果的に地味な種牡馬だったという印象は否定できません。ミスターシービーのファンとして悔やまれるのは、超大物と評価され、武豊騎手も高く評価していたヤマニングローバルが、デイリー杯3歳ステークスのゴール後に安楽死処分となってもおかしくない重傷を負ったことで、ヤマニングローバルが無事だったら、と思うことがその後たびたびありました。もっとも、冷静に考えてみると、高水準だった1990年クラシック組で、ヤマニングローバルがハクタイセイ・アイネスフウジン・メジロマックイーン・メジロライアン・ホワイトストーンといった強敵相手にどこまで戦えたのか、今となっては分かりませんが。

 全体的な種牡馬成績が地味で、大物の輩出にも失敗したことが、ミスターシービーの一般的な人気・知名度を決定的に低下させたように思います。1994年の時点で、すでにシンボリルドルフと比較して、ミスターシービーは地味な存在となっていました。2000年にJRAが企画した20世紀の名馬投票は、直近の活躍馬が上位にくる傾向にあるなか、トウカイテイオーの5位・シンボリルドルフの6位にたいして、ミスターシービーは18位でした。今同じような企画を行なえば、トウカイテイオー・シンボリルドルフはそれほど順位を下げないでしょうが、ミスターシービーはさらに順位を下げることになりそうです。ヤマニングローバルがトウカイテイオー級の活躍をしていたら、20世紀の名馬投票でもっと上位だったでしょうし、現在も人気・知名度をそれなりに保ち、伝説の馬として語られ、地味な三冠馬と言われることは少なかったのではないか、と思います。

 1990年代になって、私は外国の競馬にも興味を持ち、1970年代のアメリカ合衆国で歴史的名馬が相次いで誕生したことを知りました。1977年にシアトルスルーが無敗で三冠馬となり、翌1978年にはアファームドがアリダーとの激闘を制して三冠馬となりました。翌1979年にはスペクタキュラービッドが二冠を制し、スペクタキュラービッドは古馬になった1980年には、レコード勝ちや単走による勝利も含めて9戦全勝で年度代表馬に選出されました。この3頭の関係は、シアトルスルーが直接対決でアファームドを破り、アファームドは直接対決でスペクタキュラービッドを破った、というものでした。いずれも先輩の名馬が後輩の名馬を下し、もっとも若いスペクタキュラービッドが、先輩馬が引退した後、古馬になって伝説を作ったことで、3頭ともにその後も競走馬として高い評価を受けてきました(20世紀のアメリカ名馬100選で、シアトルスルーは9位、スペクタキュラービッドは10位、アファームドは12位)。ミスターシービーのファンである私は、ミスターシービー・シンボリルドルフ・ミホシンザンでこうした関係になっていたら幸せだったのになあ、と何度か妄想したものです。

 トウカイテイオーの死亡を取り上げた記事でありながら、ミスターシービーとシンボリルドルフについての言及が多くなってしまいました。トウカイテイオーについての思い出というと、とくに印象に残っているのは1992年の天皇賞(春)と1993年の有馬記念で、1992年の天皇賞(春)は、私が競馬を見てきたこの30年間で、レース前の盛り上がりとしては最高だったと思います。なお、1992年の天皇賞(春)当時の雰囲気と雑感については、13年前にサイトで述べました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/025.htm

 余談ですが、その他に印象に残っているレース前の盛り上がりというと、個人的な気分としては、1984年のジャパンカップと1999年の凱旋門賞で、前者は、前年にキョウエイプロミスが僅差の2着になっており、2頭の三冠馬が出走する今年こそ初めて日本馬がジャパンカップを勝てそうだ、という期待からで(結果的に日本馬が初めてジャパンカップを勝ちましたが、勝ったのは2頭の三冠馬ではなくカツラギエースでした)、後者は初めて日本馬が凱旋門賞を勝てるかもしれない、との期待からでした(結果は惜しくも僅差の2着でした)。

 1993年の有馬記念は、レース後の盛り上がりとしては、私の見聞の限りでは、オグリキャップが勝った1990年の有馬記念に次ぐものだったように思います。すでにトウカイテイオーのアンチではなかった私は、1年振りの出走となるトウカイテイオーが勝ったら盛り上がるだろうなと思い、そうなるよう願ってさえいましたが、常識的には難しいな、と考えていました。しかしトウカイテイオーはビワハヤヒデ相手に競り勝ち、驚くとともに感動したものです。この一戦で、トウカイテイオーは伝説の名馬となりました。私は翌日珍しくスポーツ紙を購入しましたが、その後捨ててしまい、やや後悔しています。

 個人的に色々と複雑な思いを抱いてきたトウカイテイオーですが、死亡したとなると、20歳前後の頃が思い出され、懐かしくなるとともに、寂しくもなります。『ウイニングポスト』初代では、トウカイテイオーの初年度産駒がサードステージという設定でした。その後、さすがにトウカイテイオーの初年度産駒という設定ではなくなりましたが、『ウイニングポスト』5を除いてサードステージは登場し、トウカイテイオーの産駒という設定でした。今後、『ウイニングポスト』の続編が発売された場合、サードステージの父親はディープインパクトになりそうな気がします(シンボリルドルフ→トウカイテイオー→サードステージにたいして、サンデーサイレンス→ディープインパクト→サードステージ)。

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