『週刊新発見!日本の歴史』第10号「飛鳥時代2 飛鳥・藤原京の理想と現実」
この第10号は乙巳の変から大宝律令の制定あたりまでという、おおむね飛鳥時代の後半を対象としています。大化改新否定論が、近年の考古学的成果により見直されており、『日本書紀』に見える改新詔に『日本書紀』編纂時の潤色はあるにしても、孝徳朝からある程度は改革が進められていた可能性が高いことや、藤原京の規模が以前の推定よりも大きく、平城京・平安京以上の面積だったことが発掘により明らかになったことや、中国で天聖令が発見されたことにより、日本と唐との令の比較が大きく進展したことなどが紹介されており、「新発見」に相応しい内容になっていると思います。
もちろん、こうしたことは非専門家にもある程度浸透していることではあるでしょうが、日本古代史に関心のある非専門家でも、知らない人が意外といそうなので、意義があるのではないか、とも思います。藤原京が短期間で放棄された理由も、この第10号にてよく分かります。遣唐使が中断していた時期に、唐の都についての知識が不充分な中、『周礼』のような文献に依拠して藤原京を7世紀末に造営したところ、8世紀初頭の久々の遣唐使が帰国したことにより、藤原京は唐の都とは異なり、南東が高く北西へ向かって低くなるという地形も相応しくないことが判明しました。
この他には、藤原不比等を超人視する見解を批判する考察がなかなか興味深く、「在野系」の研究者が不比等をひじょうに高く評価することは珍しくありませんが、学界でも、不比等がその後の日本の政治体制・日本人の意識まで規定した大政治家・陰謀家であるように説く研究者もおり(大山誠一『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』)、
https://sicambre.seesaa.net/article/201002article_27.html
そうした見解を意識しての考察なのだろう、と思います。また、蘇我入鹿を、貴族が国の実権を握る高句麗型の政変を起こそうとしたものの、国王に権力を集中させる百済型の政変によって討たれた政治家、と位置づける見解も興味深いものでした。
もちろん、こうしたことは非専門家にもある程度浸透していることではあるでしょうが、日本古代史に関心のある非専門家でも、知らない人が意外といそうなので、意義があるのではないか、とも思います。藤原京が短期間で放棄された理由も、この第10号にてよく分かります。遣唐使が中断していた時期に、唐の都についての知識が不充分な中、『周礼』のような文献に依拠して藤原京を7世紀末に造営したところ、8世紀初頭の久々の遣唐使が帰国したことにより、藤原京は唐の都とは異なり、南東が高く北西へ向かって低くなるという地形も相応しくないことが判明しました。
この他には、藤原不比等を超人視する見解を批判する考察がなかなか興味深く、「在野系」の研究者が不比等をひじょうに高く評価することは珍しくありませんが、学界でも、不比等がその後の日本の政治体制・日本人の意識まで規定した大政治家・陰謀家であるように説く研究者もおり(大山誠一『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』)、
https://sicambre.seesaa.net/article/201002article_27.html
そうした見解を意識しての考察なのだろう、と思います。また、蘇我入鹿を、貴族が国の実権を握る高句麗型の政変を起こそうとしたものの、国王に権力を集中させる百済型の政変によって討たれた政治家、と位置づける見解も興味深いものでした。
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