『天智と天武~新説・日本書紀~』第25話「百済滅亡」

 これは8月29日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2013年9月10日号掲載分の感想です。前回で長く続いた「巡り物語」も終わり、今回から新章となります。今回は、660年9月、豊璋に百済滅亡の報告が届く場面から始まります。百済が滅亡したとの報せは、大海人皇子と中大兄皇子にも届きました。額田王の膝枕で横になりながら百済滅亡の報告を受けた中大兄皇子は、百済がいきなり滅亡したことを不審に思い、唐が介入したのだろう、と推測します。

 豊璋の邸宅では使者が豊璋に百済滅亡の状況を報告していました。使者によると、百済の首都である泗沘城が蟻の這い出る隙間もないほど包囲されたのが予想外だったとのことで、(そう言いつつも)義慈王と王子たちは脱出して扶余の山城に向かったもののそこも包囲され、わずかの近臣とともに熊津城へとのがれた、とのことです。敵軍の数をはっきりと申せ、と豊璋が使者に言うと、使者は新羅軍5万と唐軍13万と答え、豊璋はその多さに驚愕します。使者によると、扶余の山城では逃げ場を失った女官たちが、敵兵に凌辱されることを恐れて次々と断崖から身を投げ、その姿はさながら白馬江に白い花びらが落ちてゆくようであり、その崖は落花岩と呼ばれるようになった、とのことです。

 豊璋の横で使者からの報告を聞いていた鏡王女が抱いている史(不比等)が泣き出し、父の無念が分かるのか、と豊璋が話しかけます。鏡王女は慌てて豊璋に謝り、奥で寝かしつけてきます、と言って史を抱きかかえて奥の部屋に入ります。どうも、史は豊璋と鏡王女との間の息子という設定のようです。この時点では満1歳前後であろう史はたいへん可愛く描かれており、後に極悪な人相に成長することを思うと、なんとも恐ろしいものです(笑)。

 豊璋は、熊津城へと落ち延びた父の義慈王の安否を使者に尋ねます。使者の報告した義慈王の状況は、なんとも悲惨なものでした。熊津城を出た義慈王を出迎えたのは、馬上の武将でした。その武将は義慈王に頭が高いと言い、後ろ手に縛られた義慈王は新羅の兵に蹴られて倒れ、その武将を見上げるような姿勢となります。武烈王(金春秋)なのか、と義慈王が問いかけると、その武将は、武烈王の息子の法敏(後の文武王)だ、お前ごときは父の手を煩わすこともない、と答えます。20年前、義慈王が金法敏の妹を殺し、その屍を獄中に埋めて以来、自分の心は血を流し続けてきたが、今お前の命は自分の手中にあるのだから、心しておけ、と金法敏は恨みのこもった厳しい表情で義慈王に告げます。

 新羅の所夫里城では、金春秋が唐の将軍である蘇定方を迎えて、百済を滅ぼしたことを祝う宴会を催していました。武烈王は如才なく、蘇定方と唐の高宗への感謝を述べ、蘇定方も、金庾信をはじめとして新羅軍の勇猛さを賞賛します。上機嫌のなか、酒が足りないことに気づいた武烈王は酒を持ってくるよう命じますが、その役目を言いつけられたのは義慈王でした。情けなそうな表情を浮かべている義慈王に酒を注いでもらった蘇定方は、運命と思ってこらえるのだ、と義慈王に声をかけます。義慈王はそのまま下がろうとしますが、武烈王は得意げな表情で自分にも酒を注ぐよう義慈王に命じます。義慈王は屈辱感に満ちた表情を浮かべて武烈王に酒を注ぎ、その様子を見ていた百済の旧臣たちは涙を流します。

 使者の報告を聞いていた豊璋は衝撃を受け、かつて大海人皇子から聞いた、真に事を成したければ、充分な時間をかけて相手を研究し、緻密な計画を立てたうえで待つのだ、さすればその「時」は必ず訪れる、との武烈王の言葉を思い出していました。その「時」がとうとう来てしまったのだ、と豊璋は衝撃を受けつつも、使者に報告を促します。その後、義慈王は妃・王子・近習など合わせて97名および百姓1万人余と一緒に唐へと連行された、と使者が伝えると、命があるだけましか、と豊璋は言います。

 すると死者は、諦めてはなりません、と豊璋に強く訴えます。百済の最高の品官である佐平の鬼室福信たちの精鋭部隊はまだ残っている、自分が命からがらやって来たのもそのためだ、百済復興には豊璋様が必要なのだから、国王としてお戻りください、それが現地に残って闘っている百済人すべての願いです、と使者は涙を流しながら豊璋に訴えます。豊璋も覚悟を決め、分かった、と言った後、普段の策士の表情に戻り、そのためには倭国の援助が必要なので、不利な情報は漏らすな、と使者に小声で厳命します。

 そこへ中大兄皇子が現れ、何をこそこそ話しているのだ、と問い質します。いつもの冷たく皮肉な笑みを浮かべているかのような表情の中大兄皇子は、豊璋もついに王様とは、タナボタだな、と言います。運命を受け入れて百済復興に邁進したい、と言う豊璋に、勝算はあるのか、と中大兄皇子は尋ねます。もちろんです、倭の援助があれば尚のことであり、近いうちに正式に要請を、と使者が答えると、しかし唐・新羅軍は相当強いのだろう、と中大兄皇子はさらに尋ねます。唐の参入に不意を突かれただけであり、恐れるに足りない、と豊璋は自信があるかのように装って答えますが、中大兄皇子は冷淡な表情を浮かべて、それだけが敗因とは思えない、と言います。

 中大兄皇子は返答に窮している豊璋をその場ではそれ以上追及せず、まあよい、と言って豊璋を外に連れ出し、二人きりで今後の方針を話し合うことにします。豊璋を助けないでもない、と言う中大兄皇子ですが、懸念も伝えます。戦となると、新たに軍船や武器を造り、全国から兵を集めなければならないので、多大な負担に反対の声が出るだろうし、大海人皇子は新羅の武烈王と通じている、というわけです。さらに中大兄皇子は、大国の唐を下手に刺激したくない、と豊璋に伝えます。

 すると豊璋は、唐をそのままにしておくと、次は高句麗を討ち、新羅を支配し、やがては・・・と中大兄皇子を説得しようとします。我が国も唐の餌食になると言いたいのか、と中大兄皇子に問われた豊璋は、そうならないための百済復興なのだ、と力説します。しかし中大兄皇子は簡単には豊璋の進言を受け入れず、見返りが何なのか、豊璋に問い質します。どう状況分析しようが、唐・新羅との戦いは不利に違いないわけで、誰が好んで危険を冒しに行くのか、それ相応の見返りが期待できないのなら、援軍などもってのほかだ、と中大兄皇子は厳しく豊璋に言い渡します。

 返答に窮した豊璋は、何が望みなのか、中大兄皇子に尋ねます。すると中大兄皇子は、奪った領土全部と言いたいところだが、新羅の領土の半分で許してやる、そのくらいもらっても罰は当たるまい、と答えます。さらに中大兄皇子が、新羅の加耶地域はかつて任那と呼ばれており、我が国が軍事支配していた、そこが手に入るなら、自分の力で誰にも文句は言わせない、と高笑いしつつ言い、豊璋が苦悶の表情を浮かべるところで今回は終了です。

 今回は、いきなり百済の滅亡が描かれ、豊璋が実質的な主役との感もあります。大海人皇子も登場しましたが一瞬だけで、珍しく存在感のない回となりました。新章の初回に相応しく、大きく話が動きましたが、百済滅亡の前にもう少し主要人物の人間模様が描かれるのかな、と思っていたので、やや意外ではありました。武烈王はさすがに大海人の回想場面の時点(647年)より老けて描かれていましたが、相変わらず穏やかでいながら迫力のある表情でした。武烈王の復讐劇は、なかなか面白く読み応えのある話になっていました。

 祖国の滅亡で豊璋が精神的にも追い込まれていたということもありますが、中大兄皇子は豊璋にたいしてすっかり優位な立場で話を進めており、乙巳の変の直前から孝徳帝を置き去りにした頃までのような、頼りない中大兄皇子が豊璋に操られている、といった関係は過去のものになってしまったようです。この二人の関係は、中大兄皇子が「怪物」へと成長していった、ということをよく物語っているように思います。

 今回、鬼室福信が作中では初めて言及されていましたが、鬼室福信がどのような人物として描かれるのか、楽しみです。おそらく、鬼室福信はかなり個性の強い人物として描かれるのではないか、と予想しています。661年正月には斉明帝が百済復興運動救援のために西下していますから、おそらく次回には斉明帝・中大兄皇子をはじめとして倭国首脳陣が九州へと向かう様子が描かれそうです。

 それにしても、天皇(大王)の(都を遠く離れての)親征というと、斉明帝以前では景行天皇や倭王武の上表文など真偽の不明な事例ばかりで、天皇(大王)としては他に日清戦争時の明治天皇くらいしか類例のない、異常な事態だと言えるでしょう。作中にて中大兄皇子が斉明帝をどう説得するのか分かりませんが、優柔不断で穏やかな性格のように描かれている斉明帝ですから、最初は嫌な表情を浮かべそうです。その斉明帝はこの百済復興運動救援中に九州で崩御するので、中大兄皇子・大海人皇子兄弟との関係も含めて、どのようにその最期が描かれるのか、注目しています。

 九州へと向かう倭国首脳陣のなかに大海人皇子がいたのか不明ですが、すでに大海人皇子と結婚関係にある大田皇女・鸕野讚良皇女(持統天皇)は都から遠く離れた陣中にて出産していますから、大海人皇子も同行した可能性が高いでしょうし、この作品でもそのように描かれることでしょう。大田皇女・鸕野讚良皇女の出番は今後増えそうで、豊璋を祖父の仇と思っている大田皇女が、百済復興のための戦いをどう思っているのか、まだ2回ほど言及されただけで人物像の明かされていない鸕野讚良皇女がどのような人物として描かれるのか、大いに楽しみです。

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