曽根勇二『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』
まだ日付は変わっていないのですが、7月20日分の記事として掲載しておきます。『敗者の日本史』全20巻の第13巻として、2013年6月に吉川弘文館より刊行されました。朝鮮役の長期化にともない伏見と大坂を拠点とする物流の支配体制が形成され、伏見と大坂は「首都」として機能し、秀吉死後もその支配体制の構築が継続され、家康と秀頼は「秀吉政治」の(有力)継承(候補)者だった、という視点から、関ヶ原の戦いの後~大坂の陣、さらには「鎖国体制の確立」までが概観されています。この観点では、秀頼が寺社造営に熱心だったことは、豊臣の財力を削ぐための徳川の謀略に引っかかったからというよりも、「秀吉政治」の継承者としての正統性を誇示するためだった、と理解されます。本書では、関ヶ原の戦いの後の秀頼は一大名に転落し、徳川の謀略・挑発により無謀にも徳川政権と戦って滅亡した、との通俗的歴史観とは異なる見解が提示されています。
本書で強調されているのが、関ヶ原の戦いの後でも、徳川家康の政治的基盤が全国政権としては脆弱だった、ということです。大坂を支配できず、交易の掌握も含む西日本の統治が不充分だった徳川政権は、東国における交易の可能性を模索し、伊達政宗の有名な慶長遣欧使節も、そうした文脈で理解できます。江戸幕府が安定した全国政権となる前提として大坂の支配は必要条件で、一方、豊臣が家康の死を期待して大坂および大坂城を頼みとして時間稼ぎを図ったために、家康存命中の大坂の陣という結果に至りました。この戦いに豊臣方は敗れて滅亡しましたが、徳川政権が大坂を支配するようになっても、交易の統制を含む徳川政権の西日本支配はまだ不充分で、それが一応の完成を見たのは、秀忠時代を経て家光時代にまで下ります。徳川政権の「勝利」という後世の視点に依拠してしまうと、本書で提示されたような歴史像を見出すのは難しいものなのでしょう。
本書で強調されているのが、関ヶ原の戦いの後でも、徳川家康の政治的基盤が全国政権としては脆弱だった、ということです。大坂を支配できず、交易の掌握も含む西日本の統治が不充分だった徳川政権は、東国における交易の可能性を模索し、伊達政宗の有名な慶長遣欧使節も、そうした文脈で理解できます。江戸幕府が安定した全国政権となる前提として大坂の支配は必要条件で、一方、豊臣が家康の死を期待して大坂および大坂城を頼みとして時間稼ぎを図ったために、家康存命中の大坂の陣という結果に至りました。この戦いに豊臣方は敗れて滅亡しましたが、徳川政権が大坂を支配するようになっても、交易の統制を含む徳川政権の西日本支配はまだ不充分で、それが一応の完成を見たのは、秀忠時代を経て家光時代にまで下ります。徳川政権の「勝利」という後世の視点に依拠してしまうと、本書で提示されたような歴史像を見出すのは難しいものなのでしょう。
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