瀧浪貞子『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』
まだ日付は変わっていないのですが、5月4日分の記事として掲載しておきます。『敗者の日本史』全20巻の第2巻として、2013年3月に吉川弘文館より刊行されました。『敗者の日本史』は20巻構成で、すでに半数近く刊行されているのですが、本書を最初に購入して読み終えました。まだ本書しか読んでいないのですが、たいへん面白そうな構成になっているので、できれば全巻購入して読もう、と考えています。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n4704.html
本書は、孝謙(称徳)天皇と道鏡を中心とした、奈良時代後半の政治史となっています。道鏡は、明治時代~第二次世界大戦までの日本社会において逆臣とみなされ、戦後の日本社会においても、一般的には悪人として評価されることがほとんどで、不人気のように思います。戦前において大逆臣とされていた足利尊氏(高氏)が、戦後も不人気とはいえ、悪人という評価は少なくなったように思えることや、同じく戦前には逆臣とされていた平将門や蘇我入鹿については、小説やドラマなどの影響もあって肯定的に評価する見解すらさほど珍しくなくなってきたことと比較すると(『天智と天武~新説・日本書紀~』も、そうした背景のもとに生まれた漫画作品と言えるでしょう)、道鏡の不人気は際立っているように思います。
本書がその道鏡を称徳天皇とともに古代史にどう位置づけるのか、興味をもって読み始めたのですが、道鏡と称徳天皇はその後の日本における政治・文化の在り様をかなりのところ規定した、と本書では評価されています。しかし、それは道鏡と称徳天皇による統治体制にたいする否定・反動の結果とされており、私のような専門家ではない一般読者層の間で、本書により道鏡および称徳天皇への評価が高まる、ということはなさそうに思います。ただ、宇佐八幡宮神託事件も含めて、本書は道鏡および称徳天皇への通俗的な認識を改めるものであり、読みごたえのある一冊になっているとは思います。
本書は、奈良時代において朝廷で政治的陰謀の頻発した要因として、皇位継承をめぐる不安定さがあった、と指摘しています。持統天皇の強い意志により、草壁皇子の系統が正統という意識が生まれ、当時の権力中枢はそれを守っていこうとしましたが、草壁皇子とその子の文武天皇(軽皇子)が若くして死に、文武天皇の嫡子と位置づけられた聖武天皇(首皇子)の即位の前提として、その祖母(元明天皇)と伯母(元正天皇)とが中継ぎとして即位するという、不安定な皇位継承が続きました。この間、まだ天武の息子たちが健在であり、元正天皇が名指しで批判される事件が起きるなど、朝廷のなかには女帝の存在を不満に思う者が少なくなかったようで、女帝の地位は不安定でした。
こうした状況のなか、阿倍内親王(孝謙天皇)は、同父同母弟の基王が皇太子に立てられたにも関わらず、満年齢で1歳に満たず死んでしまったことから、草壁皇統の嫡系として皇太子に立てられました(現時点では、日本史上唯一の女性皇太子)。しかし、橘奈良麻呂の変でも明らかになったように、孝謙天皇の皇位継承者としての正統性を疑問視する人々は少なくなかったようで、じっさい問題として、孝謙天皇は未婚で、安積親王の死後は、聖武天皇には息子はいなかったのですから、その後継者を決めなければならない、ということは朝廷の人々にとって共通認識になっていたようです。
しかし、聖武天皇もその皇后の光明子も草壁皇統という意識に囚われ、それは二人の娘の孝謙天皇にも強く引き継がれました。その結果として、政治情勢の不安定化の要因となった皇位継承問題の解決は先延ばしされ、孝謙天皇の皇位継承者として道祖王が決まったのは、聖武上皇の崩御直前でした。その道祖王は聖武上皇崩御後1年も経たずに廃太子となり、代わって大炊王(淳仁天皇)が皇太子に立てられ、その後間もなく即位しました。皇位継承者が、草壁皇統から天武系へと拡大された、というわけです。
孝謙上皇が道鏡と出会ったのは、このような状況においてでした。支配層の間で後継勝者としての正統性を充分には認められていなかった孝謙上皇は、病気になったところを道鏡の看病により回復し、道鏡に傾倒するようになります。朝廷での基盤が不安定な孝謙上皇にとって、道鏡は師であり同志でもあったのでしょう。道鏡が孝謙上皇に重用されるようになると、二人が男女であることから憶測を呼んだようで、淳仁天皇は孝謙上皇を諌めますが、これが道鏡を重用する孝謙上皇の逆鱗に触れ、孝謙上皇と淳仁天皇およびその庇護者の藤原仲麻呂との関係が悪化します。この対立は武力衝突に至り、孝謙上皇が勝利して、仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は配流となります。
こうして孝謙上皇は重祚することになりますが(称徳天皇)、この結果として、政治情勢の不安定化の要因となった皇位継承問題が再燃します。この問題は、聖武・孝謙朝の時と同じくまたもや先送りされ、称徳天皇が後継者を決めたのは、崩御直前でした。もっとも、これは本書の見解であり、一般には、称徳天皇の後継者として白壁王(光仁天皇)が決まったことは称徳天皇の考えではなく、藤原百川たちが称徳天皇の遺宣を偽作したのだ、とされています。この点について、本書の見解が間違っているとまでは言えないにしても、説得力が充分あるわけではないように思います。
道鏡は称徳天皇の崩御とともに失脚したわけで、道鏡およびその一族の権威権力の源泉が、称徳天皇の道鏡への傾倒という個人的な関係にあったことは間違いないでしょう。では、称徳天皇と道鏡の関係は本書ではどう理解されるのかというと、道鏡は称徳天皇にとって特別な師範であり、称徳天皇が道鏡に求めたのは出家者としての自らの分身で、道鏡はいわば法界の主として位置づけられ、女帝と法王とによる「共治」体制が称徳天皇の理想でした。俗界の称徳天皇を道鏡が法界の象徴という立場から権威づけて後見していくという体制で、称徳天皇は群臣の反応を気にかけて道鏡に世俗的権限を与えることに慎重であり、じゅうらいからの太政官体制は、藤原永手や吉備真備といった称徳天皇の寵臣の重用により強化され、実務が担われました。
称徳天皇は父の聖武天皇に倣って仏教に傾倒して出家し、仏教と神祇との習合を進めましたが、その前提として、神仏習合があるていど進行していた、という事情があります。当時、神仏習合が進んでいた神社として宇佐神宮があり、聖武・孝謙・称徳朝で重要な役割を果たしたのは、そのためでもありました。しかし、称徳天皇の仏教への傾倒は、仏教から厳密に隔離されていた儀式への道鏡たち僧侶への進出を招き、それが群臣に反感を持たれ、称徳天皇崩御後の神仏隔離への動きを強めた、という反作用もありました。
称徳天皇が道鏡を重用し、その一族も引き立てるなか、宇佐八幡宮神託事件が起きます。本書のこの事件についての見解は、通俗的なものとはかなり異なります。草壁皇統の嫡系としての誇りを両親に叩き込まれた称徳天皇は、いかに道鏡を重用していても、道鏡を天皇とする決断は下せませんでした。道鏡を天皇とせよとの宇佐八幡宮の神託(とされるもの)は、宇佐神宮内の勢力争いに、称徳天皇・道鏡に取り入ろうとする者たちの思惑が重ねあって奏上されました。道鏡やその弟の弓削浄人は、一時皇位への野心がかなり強まったかもしれませんが、称徳天皇に認められず、けっきょく断念せざるを得ませんでした。
和気清麻呂が称徳天皇に処罰されたのも、道鏡の即位を否定する託宣を報告したからではありませんでした。称徳天皇は清麻呂に、道鏡の即位を否定するような託宣を持ち帰るよう期待し、清麻呂に内意を打ち明けたと考えられますが、清麻呂が道鏡の即位を否定するだけではなく、追放するような託宣も(捏造して)報告した(それは当時の支配層の大半の意思を反映したものでもあったのでしょう)ために、道鏡に傾倒していた称徳天皇は激怒し、道鏡への配慮からも、清麻呂を処罰しました。しかし一方で、道鏡の即位を阻止するという点で清麻呂は称徳天皇の意思に忠実だったわけで、本書では、処罰された後の清麻呂を称徳天皇は密かに援助していたのではないか、と推測されています。
称徳天皇と道鏡は、後世に大きな影響を及ぼしました。皇位継承問題については、君臣の別が峻厳化され、皇太子制度が整備されたことにより、女帝の中継ぎとしての役割が失われ、次に女帝が登場するのは900年近くも後になります。政治・文化的には、聖武~称徳朝、とくに称徳天皇と道鏡による「共治」体制において神仏習合が進行したものの、朝廷支配層の反発により、いったんは神仏隔離が志向され、その後に神仏習合が改めて進んでいった、ということが挙げられます。その後の日本の文化を大きく規定した神仏習合の在り様は、否定的な方向ではあるものの、称徳天皇と道鏡に大きく影響を受けた、ということになります。
以上、本書の見解についてざっと見てきましたが、たいへん読みやすく、教えられることが多々あり、じつに有益な一冊だと思います。称徳天皇や道鏡の考え・心理状態について、本当にそう考えてよいのだろうか、と疑問に思う箇所もあり、それはいつかじっくりと調べてみようと考えてはいますが、全体的になかなか魅力的な見解が提示されていように思います。称徳天皇や道鏡について本格的に論じた一般向け書籍は少ないでしょうから、その意味で本書は貴重だと言えるでしょう。本書を読んでも道鏡への印象が劇的によくなるということはないかもしれませんが、道鏡について見直す契機になるとは思います。道鏡もまた時代の犠牲者だった、との本書の指摘については、今後も考えていきたい課題です。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n4704.html
本書は、孝謙(称徳)天皇と道鏡を中心とした、奈良時代後半の政治史となっています。道鏡は、明治時代~第二次世界大戦までの日本社会において逆臣とみなされ、戦後の日本社会においても、一般的には悪人として評価されることがほとんどで、不人気のように思います。戦前において大逆臣とされていた足利尊氏(高氏)が、戦後も不人気とはいえ、悪人という評価は少なくなったように思えることや、同じく戦前には逆臣とされていた平将門や蘇我入鹿については、小説やドラマなどの影響もあって肯定的に評価する見解すらさほど珍しくなくなってきたことと比較すると(『天智と天武~新説・日本書紀~』も、そうした背景のもとに生まれた漫画作品と言えるでしょう)、道鏡の不人気は際立っているように思います。
本書がその道鏡を称徳天皇とともに古代史にどう位置づけるのか、興味をもって読み始めたのですが、道鏡と称徳天皇はその後の日本における政治・文化の在り様をかなりのところ規定した、と本書では評価されています。しかし、それは道鏡と称徳天皇による統治体制にたいする否定・反動の結果とされており、私のような専門家ではない一般読者層の間で、本書により道鏡および称徳天皇への評価が高まる、ということはなさそうに思います。ただ、宇佐八幡宮神託事件も含めて、本書は道鏡および称徳天皇への通俗的な認識を改めるものであり、読みごたえのある一冊になっているとは思います。
本書は、奈良時代において朝廷で政治的陰謀の頻発した要因として、皇位継承をめぐる不安定さがあった、と指摘しています。持統天皇の強い意志により、草壁皇子の系統が正統という意識が生まれ、当時の権力中枢はそれを守っていこうとしましたが、草壁皇子とその子の文武天皇(軽皇子)が若くして死に、文武天皇の嫡子と位置づけられた聖武天皇(首皇子)の即位の前提として、その祖母(元明天皇)と伯母(元正天皇)とが中継ぎとして即位するという、不安定な皇位継承が続きました。この間、まだ天武の息子たちが健在であり、元正天皇が名指しで批判される事件が起きるなど、朝廷のなかには女帝の存在を不満に思う者が少なくなかったようで、女帝の地位は不安定でした。
こうした状況のなか、阿倍内親王(孝謙天皇)は、同父同母弟の基王が皇太子に立てられたにも関わらず、満年齢で1歳に満たず死んでしまったことから、草壁皇統の嫡系として皇太子に立てられました(現時点では、日本史上唯一の女性皇太子)。しかし、橘奈良麻呂の変でも明らかになったように、孝謙天皇の皇位継承者としての正統性を疑問視する人々は少なくなかったようで、じっさい問題として、孝謙天皇は未婚で、安積親王の死後は、聖武天皇には息子はいなかったのですから、その後継者を決めなければならない、ということは朝廷の人々にとって共通認識になっていたようです。
しかし、聖武天皇もその皇后の光明子も草壁皇統という意識に囚われ、それは二人の娘の孝謙天皇にも強く引き継がれました。その結果として、政治情勢の不安定化の要因となった皇位継承問題の解決は先延ばしされ、孝謙天皇の皇位継承者として道祖王が決まったのは、聖武上皇の崩御直前でした。その道祖王は聖武上皇崩御後1年も経たずに廃太子となり、代わって大炊王(淳仁天皇)が皇太子に立てられ、その後間もなく即位しました。皇位継承者が、草壁皇統から天武系へと拡大された、というわけです。
孝謙上皇が道鏡と出会ったのは、このような状況においてでした。支配層の間で後継勝者としての正統性を充分には認められていなかった孝謙上皇は、病気になったところを道鏡の看病により回復し、道鏡に傾倒するようになります。朝廷での基盤が不安定な孝謙上皇にとって、道鏡は師であり同志でもあったのでしょう。道鏡が孝謙上皇に重用されるようになると、二人が男女であることから憶測を呼んだようで、淳仁天皇は孝謙上皇を諌めますが、これが道鏡を重用する孝謙上皇の逆鱗に触れ、孝謙上皇と淳仁天皇およびその庇護者の藤原仲麻呂との関係が悪化します。この対立は武力衝突に至り、孝謙上皇が勝利して、仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は配流となります。
こうして孝謙上皇は重祚することになりますが(称徳天皇)、この結果として、政治情勢の不安定化の要因となった皇位継承問題が再燃します。この問題は、聖武・孝謙朝の時と同じくまたもや先送りされ、称徳天皇が後継者を決めたのは、崩御直前でした。もっとも、これは本書の見解であり、一般には、称徳天皇の後継者として白壁王(光仁天皇)が決まったことは称徳天皇の考えではなく、藤原百川たちが称徳天皇の遺宣を偽作したのだ、とされています。この点について、本書の見解が間違っているとまでは言えないにしても、説得力が充分あるわけではないように思います。
道鏡は称徳天皇の崩御とともに失脚したわけで、道鏡およびその一族の権威権力の源泉が、称徳天皇の道鏡への傾倒という個人的な関係にあったことは間違いないでしょう。では、称徳天皇と道鏡の関係は本書ではどう理解されるのかというと、道鏡は称徳天皇にとって特別な師範であり、称徳天皇が道鏡に求めたのは出家者としての自らの分身で、道鏡はいわば法界の主として位置づけられ、女帝と法王とによる「共治」体制が称徳天皇の理想でした。俗界の称徳天皇を道鏡が法界の象徴という立場から権威づけて後見していくという体制で、称徳天皇は群臣の反応を気にかけて道鏡に世俗的権限を与えることに慎重であり、じゅうらいからの太政官体制は、藤原永手や吉備真備といった称徳天皇の寵臣の重用により強化され、実務が担われました。
称徳天皇は父の聖武天皇に倣って仏教に傾倒して出家し、仏教と神祇との習合を進めましたが、その前提として、神仏習合があるていど進行していた、という事情があります。当時、神仏習合が進んでいた神社として宇佐神宮があり、聖武・孝謙・称徳朝で重要な役割を果たしたのは、そのためでもありました。しかし、称徳天皇の仏教への傾倒は、仏教から厳密に隔離されていた儀式への道鏡たち僧侶への進出を招き、それが群臣に反感を持たれ、称徳天皇崩御後の神仏隔離への動きを強めた、という反作用もありました。
称徳天皇が道鏡を重用し、その一族も引き立てるなか、宇佐八幡宮神託事件が起きます。本書のこの事件についての見解は、通俗的なものとはかなり異なります。草壁皇統の嫡系としての誇りを両親に叩き込まれた称徳天皇は、いかに道鏡を重用していても、道鏡を天皇とする決断は下せませんでした。道鏡を天皇とせよとの宇佐八幡宮の神託(とされるもの)は、宇佐神宮内の勢力争いに、称徳天皇・道鏡に取り入ろうとする者たちの思惑が重ねあって奏上されました。道鏡やその弟の弓削浄人は、一時皇位への野心がかなり強まったかもしれませんが、称徳天皇に認められず、けっきょく断念せざるを得ませんでした。
和気清麻呂が称徳天皇に処罰されたのも、道鏡の即位を否定する託宣を報告したからではありませんでした。称徳天皇は清麻呂に、道鏡の即位を否定するような託宣を持ち帰るよう期待し、清麻呂に内意を打ち明けたと考えられますが、清麻呂が道鏡の即位を否定するだけではなく、追放するような託宣も(捏造して)報告した(それは当時の支配層の大半の意思を反映したものでもあったのでしょう)ために、道鏡に傾倒していた称徳天皇は激怒し、道鏡への配慮からも、清麻呂を処罰しました。しかし一方で、道鏡の即位を阻止するという点で清麻呂は称徳天皇の意思に忠実だったわけで、本書では、処罰された後の清麻呂を称徳天皇は密かに援助していたのではないか、と推測されています。
称徳天皇と道鏡は、後世に大きな影響を及ぼしました。皇位継承問題については、君臣の別が峻厳化され、皇太子制度が整備されたことにより、女帝の中継ぎとしての役割が失われ、次に女帝が登場するのは900年近くも後になります。政治・文化的には、聖武~称徳朝、とくに称徳天皇と道鏡による「共治」体制において神仏習合が進行したものの、朝廷支配層の反発により、いったんは神仏隔離が志向され、その後に神仏習合が改めて進んでいった、ということが挙げられます。その後の日本の文化を大きく規定した神仏習合の在り様は、否定的な方向ではあるものの、称徳天皇と道鏡に大きく影響を受けた、ということになります。
以上、本書の見解についてざっと見てきましたが、たいへん読みやすく、教えられることが多々あり、じつに有益な一冊だと思います。称徳天皇や道鏡の考え・心理状態について、本当にそう考えてよいのだろうか、と疑問に思う箇所もあり、それはいつかじっくりと調べてみようと考えてはいますが、全体的になかなか魅力的な見解が提示されていように思います。称徳天皇や道鏡について本格的に論じた一般向け書籍は少ないでしょうから、その意味で本書は貴重だと言えるでしょう。本書を読んでも道鏡への印象が劇的によくなるということはないかもしれませんが、道鏡について見直す契機になるとは思います。道鏡もまた時代の犠牲者だった、との本書の指摘については、今後も考えていきたい課題です。
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