池上裕子『人物叢書(新装版) 織田信長』第1版第2刷

 まだ日付は変わっていないのですが、5月22日分の記事として掲載しておきます。吉川弘文館より2013年1月に刊行されました。第1版第1刷の刊行は2012年12月です。吉川弘文館の人物叢書はすでに多数刊行されており、本書で272冊目となるようです。ところが、意外なことに「大物」というか知名度の高い人物で取り上げられていない者も多く、天智天皇・天武天皇・源頼朝・足利尊氏・豊臣秀吉・徳川家康・大久保利通・伊藤博文・明治天皇などがそうで、三幕府の初代がいずれも取り上げられていないということになります。現代日本社会では知名度・人気の高い織田信長にしても、272冊目の刊行となります。

 それはともかくとして本書についてですが、信長の生涯がほぼ年代順に叙述されており、著者の見解が強く前面に出ているのではなく、手堅い内容になっています。信長の伝記は、当分本書が基本になるのではないか、と思わせる充実した一冊になっています。かつて、信長について熱心に調べたことのある私にとっては、懐かしくもある記述が少なからずありました。本書は全体的に、信長を英雄視するというよりは、信長に敵対した人々、さらには滅ぼされた側への視点を意識した内容になっており、そのこともあって、信長への評価はやや厳しいものがあるようにも思いますが、的外れな主張が展開されているわけではない、とは思います。

 本書が提示する信長像は、支配領域(分国)を拡大するために絶えず拡張を続け、戦国大名としては最大の成果を収めた、独裁的・専制的な人物である、というものです。自らへの絶対服従を要求した信長が重用したのは、尾張出身の譜代と家長権を振るえる子供や弟であり、外様は厚遇されず、それが一度は重用された荒木村重・松永久秀などの離反を招来し、信長を死に追いやった明智光秀の謀反も、その文脈で解されます。本書は全体的に、著者自身の見解はそれほど強調されているわけではありませんが、それでもなかなか興味深い見解も指摘されており、以下に引用するP281の一節はとくに興味深いものです。

 信長の発給文書をみて気づくことは、信長自身は百姓や村と正面から向き合おうとしなかった権力なのではないかということである。郷村宛の禁制意外に村や百姓支配に関わって発給した文書はほとんどないのである。信長は領主に対し当知行安堵状や知行宛行状を発給するが、あくまで領主にしか目が注がれてはいない。それをうけて、村や百姓に対するのは奉行人や領主自身である。信長には農政・民政がないのである。戦争遂行には築城、道路整備、兵粮等の運搬のために百姓らの夫役・陣夫役等が不可欠である。信長は村・百姓の負担の実情に思いを致すことはなかったし、その年間の負担数量を規定することもなかった。道普請でも信長は家臣に命令を発するだけである。それを受けた家臣は自分の才覚で人足や資材等を集めて速やかに遂行し結果を出さなければならない。百姓らの負担がどれだけ過重かに信長は関知しない。『兼見卿記』をみると、村井貞勝はたびたび兼見に人足等の負担を頼み込んでいる。兼見は渋りながらも結局それに応じる。信長にとって戦争と政権運営は家臣・領主との関係において遂行されるものであり、結果だけを評価する。彼らの存在基盤をなす百姓らに直接向き合うことはなかった。

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