早島大祐『足軽の誕生 室町時代の光と影』第2刷

 まだ日付は変わっていないのですが、4月10日分の記事として掲載しておきます。朝日新書の一冊として、朝日新聞社より2013年1月に刊行されました。第1刷の刊行は2012年10月です。足軽は応仁の乱で大量に出現したとされますが、その理由というか背景となる、南北朝時代も含む室町時代前半の社会変容の叙述が本書の主題となります。本書では、足軽誕生の前提として、朝廷と武家の中心地が京都と鎌倉に分離していた鎌倉時代とは異なり、室町時代には京都に一元化され、京都に人・物資がさらに流入しやすい状況が出現していたことが指摘されています。これは、都鄙間の人の往来がさらに盛んになったことも意味します。

 こうした状況の進行とともに、武士勢力の拡張にともない、村落の有力者に守護大名級の武家と主従関係を結ぶ傾向も強まりました。これは村落の有力者の在地における立場を強化する一方で、中央情勢の変動にともない自身も没落する危険性も有するものであり、有力な守護大名だった赤松氏が嘉吉の変で没落して牢人が大量に出現したような事態も招来しました。赤松氏の没落などに伴い出現した大量の牢人は、かつての縁を頼って都やその周辺地域に居座り、応仁の乱直前には足軽予備軍たる大量の牢人が都やその周辺地域に出現していました。

 さらに、15世紀半ばになると有力守護大名とその代表的存在たる管領による統治機構が上手く機能しなくなり、新たに中央政治の主導権を握っていった奉行層が、じゅうらい有力守護大名に把握されていなかった在地の階層を被官化していき、応仁の乱における大量の足軽の出現という状況の一因を作っていきました。伊勢貞親を都市派、有力守護大名を地方派、管領細川家(京兆家)を中間派とする区分は、やや単純化されているかな、とも思うのですが、足軽の大量出現を室町時代の社会変容と政治動向に結びつけた叙述は、なかなか読みごたえがありました。

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