『天智と天武~新説・日本書紀~』第1巻(1)乙巳の変前夜

 まだ日付は変わっていないのですが、3月6日分の記事として掲載しておきます。今回から何回かにわたって、第1巻の内容について詳しく述べていくことにします。この作品は、岡倉天心とフェノロサが秘仏とされていた法隆寺夢殿の救世観音像を実地調査するという、有名な逸話で始まります(この作品では1884年のこととされています)。この場面にて、聖徳太子を模したとされる救世観音像を隠し、呪いたいと考えていた人物(たち)がいたことが示唆されます。救世観音像が1ページ全面に描かれた次のページに、同じく1ページ全面に描かれた人物が蘇我入鹿で、断定されているわけではありませんが、読者には聖徳太子=蘇我入鹿と印象づけるような構成・演出になっています。

 ここで舞台は645年正月と一気に過去にさかのぼります。旻の塾にて、中大兄皇子が『勝鬘経』を読んでいる蘇我入鹿に話しかけ、仏教はそれほど面白いのか、と尋ねます。心を新たにでき、澱んでいるものが少しだけ流れるようだ、と入鹿が答えると、そなたに澱みなどあるとは思えない、と中大兄皇子は言います。すると入鹿は、澱みのない人間などいません、と実に爽やかな表情で答えます。この場面では、旻の塾の他の学生二人を使い、当時の情勢・人間関係が解説されており、この二人の塾生の話により、中大兄皇子の母である皇極帝が入鹿を寵愛していることが分かります。

 そこへ新羅と高句麗の王子が入鹿に近づき、唐との外交をどう考えているのか、問いただします。二人とも、祖国の存亡がかかっているので必死ですが、百済の王子である豊璋は超然としています。塾生二人によると、豊璋は新羅と高句麗の王子よりもずっと優秀なので、他人の意見は聞かないし、何を考えているのかよく分からない、食えない人間とのことです。中大兄皇子が意地悪そうな笑みを浮かべて、唐寄りの新羅か反対の高句麗か、答えてやったらどうだ、と入鹿を促すと、どちらの味方をするつもりもないが、現在の唐の発展の礎となった貞観の治には見習うべきものがあると思っている、と入鹿は答えます。

 すると旻が現れ、その通りだ、ここに来ている者の大半はいずれ国の要職に就く身なのだから、国作りについて考えねばならない、と言います。すると中大兄皇子が、貞観の治を手本に水軍を充実させて防衛のための水城を要所に築く、と発言します。軍備だけなのか、と旻に尋ねられた中大兄皇子は、律令の運用を厳しくする、たとえば自分に逆らえば一日中裸踊りをしなければならないとか、と冗談を言って周囲の者を笑わせ、旻は苦笑します。すると入鹿は、拍手して笑顔で中大兄皇子を称え、王座に就いたらぜひ実行していただきたい、水軍の充実よりずっと楽しいではないかと言い、自分を揶揄するような発言に中大兄皇子は怒ります。この様子を見ていた塾生によると、入鹿は中大兄皇子に迎合しない唯一の人のようです。

 入鹿は、唐が武力だけではなく学芸の奨励などにより太平の世を築いたことを力説し、旻も満足そうに頷きます。ここで入鹿は、唐の都である長安には、イスラームやビザンツ帝国由来のネストリウス派の者まで学びに来ている、と指摘するのですが、入鹿がイスラームやビザンツ(東ローマ)帝国のことまではっきりと知っている、というような設定の台詞は、さすがにやり過ぎの感があります。入鹿は、我が国は唐との外交関係を絶っていてよいのか、広い世界を知るためにも敵ではなく友として接するべきだ、とまとめ、旻や他の塾生はいつもながらの入鹿の見聞の広さを褒め称えます。

 入鹿は、狭い世界で争うのはもったいない、と高句麗および新羅の王子に説き、二人とも完全には納得していない様子ながらも入鹿の弁才に圧倒されて引き下がりますが、豊璋は、抽象的すぎて何が言いたいのかさっぱり分からない、と入鹿にかみつきます。すると入鹿は、遣隋使の復活、つまり遣唐使だ、と答えます。豊璋は、入鹿が皇極帝に寵愛されており、その政策が実現される可能性を懸念します。後に描かれた話から解釈すると、入鹿の提唱する路線が実現し、倭国の百済寄りの政策が変更されると、祖国の百済が危機に陥るのではないか、と豊璋は懸念しているのでしょう。

 場面は変わって、蘇我本宗家の邸宅です。顔の見えない少年が笛を吹いていますが、これが月皇子のようです。蘇我本宗家の邸宅に入鹿を訪ねた中大兄皇子は、自分と手を組み、入鹿の理想を実現させないか、と入鹿に持ちかけます。自分の権力と入鹿の知力があれば、国を思いのままに動かせる、というわけです。入鹿は、今は中大兄皇子の母の皇極帝の治世であり、思いのままにできるはずもない、と答えます。すると中大兄皇子は笑い出し、自分の父である先帝(舒明天皇)の存命中に母の宝皇女(皇極帝)の心を奪い、不義の子までなした者の言葉とは思えない、と言います。

 しかし、入鹿は動じることなく、自分はどう思われてもかまわないが、月皇子は中大兄皇子の弟であり、13歳になって(月皇子=大海人は、この作品では633年生まれということになります)、中大兄皇子に聴かせたいと毎日竹笛の練習をしている、月皇子に罪はなく、せめて一目だけでも会ってもらいたい、と中大兄皇子に頼みますが、中大兄皇子は怒り、そんな弟は知らない、二度と名前を出すな、と言います。すると入鹿は、もし会っていただけるのなら、自分を如何様にしてもけっこうです、と中大兄皇子に申し出ます。中大兄皇子は驚きつつも魅入られたような表情で入鹿に向けて手を伸ばしますが、そこへ月皇子が声をかけ、中大兄皇子は馬で去ります。

 父の入鹿の前で、月皇子は中大兄皇子が来ていたことに気づいていないように振る舞いますが、後に第9話「月皇子」にて、月皇子はこの時の様子を木陰から見ていたことが明かされます。中大兄皇子は馬で去りながら、自分の心を取引の道具にする入鹿を忌々しく思います。後に第9話「月皇子」にて、中大兄皇子が入鹿に性的な意味合いも込めて憧れていたことが描かれますが、入鹿もそのことを知っていた、ということなのでしょう。息子の月皇子に、中大兄皇子が月皇子に会おうとしないことを伝えた入鹿は、中大兄皇子は気性が激しく、即位したら月皇子をどう思うだろう、と懸念します。すると月皇子は、父上からいただいた懐刀があり、自分の身は自分で守れる、と力強く答えます。

 この一連の様子を豊璋の配下の者が見ており、豊璋は中大兄に接近しようとします。蹴鞠の最中に中大兄皇子の靴が脱げ、それを豊璋が拾って中大兄皇子に捧げて、両者は親しく語り合うようになります。『日本書紀』に見える有名な逸話ですが、この時中大兄皇子に靴を捧げたのはもちろん中臣(藤原)鎌足で、この時点で豊璋=鎌足だと多くの読者に気づかせる、という構成になっています。豊璋は蘇我の邸宅に新羅の王子が出入りしている、と中大兄皇子に伝えますが、入鹿は三韓平等が信条だ、と相手にしません。

 しかし豊璋はしつこく、入鹿は裏では中大兄皇子の母の皇極帝と共謀し、唐と友好的な新羅に肩入れすると決めている、と中大兄皇子に伝えます。中大兄皇子は、そんなことは聞いていない、いいかげんなことを言うな、と怒りますが、入鹿と皇極帝にとって中大兄皇子は邪魔で、中大兄皇子が消えてくれれば、入鹿と皇極帝の間の子である月皇子が太子になれると考えるのではないか、と猜疑心の強い中大兄皇子の性格を把握した説得を続けます。月皇子を殺すよう豊璋が示唆すると、中大兄皇子は、用心深い入鹿を殺さない限り無理だ、と答えますが、それは中大兄皇子にしかできないことだ、と豊璋が中大兄皇子に進言するところで、第1話は終了です。

 この第1話は、岡倉天心とフェノロサが秘仏とされていた法隆寺夢殿の救世観音像を実地調査するという、有名な逸話をつかみとして、救世観音像のモデルの聖徳太子が蘇我入鹿だと強く示唆するような演出から、乙巳の変前夜へと物語を進める構成がよくできていて、長編(になるでしょうし、そうなることを強く願っています)の開幕としては素晴らしい出来になっているのではないか、と思います。入鹿は宝皇女(皇極天皇)との間に不義の子である月皇子を儲けますが、じつに爽やかな人物として描かれています。入鹿は自分にも澱みがあることを中大兄皇子に語っていますが、それは月皇子のことも指しているのではないか、と思います。

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