大河~ドラマ『平清盛』全体的な感想(5)大河ドラマと歴史学との距離
まだ日付は変わっていないのですが、1月19日分の記事として掲載しておきます。全体的な感想(1)は以下の記事で、
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_5.html
全体的な感想(2)は以下の記事で
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_7.html
全体的な感想(3)は以下の記事で、
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_10.html
全体的な感想(4)は以下の記事で述べました。
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_16.html
大河ドラマがどこまで史実に忠実であるべきか、というか歴史学の研究成果に沿うべきか、というのは難問であり、答えのない問題と言うべきかもしれませんが、それでも限度はあると思います。たとえばこの作品でいうと、清盛や義朝や後白河院が、月に人を送り込むとか、大陸間弾道ミサイルで高麗・金・南宋を攻撃するとかいった計画を立てるという場面が描かれれば、明らかに問題というか誤りだとほとんどの人には分かるでしょう。それは極端にしても、清盛がトマトやジャガイモを使った料理を食べている場面を描けば、批判されても仕方ないでしょう。まあ、トマトやジャガイモの事例もまだ極端と言えそうですが、私も含めて一般人の多くは、平安時代末期の常識をこの時代の研究者よりもはるかに知らないわけで、研究者やこの時代に詳しい人から見ておかしな描写がどこまで許されるかとなると、線引きがたいへん難しいとは思います。
そもそも、言葉からして、忠実に再現しようとすると、現代日本社会では字幕が必要になり、娯楽映像作品には適さないでしょう。歴史ものの映画でよく見られるように、地域・時代に関わらず人々が英語で話す作品が少なからずあるように、言葉の問題はあるていど割り切らなければならないだろう、とは思います。ただ、それでもやはり限度はあり、平安時代末期の日本を舞台にした大河ドラマで、トイレに行くとか遺伝子などという言葉が出るのは問題でしょう。もっとも、これも線引きの難しいところがあり、トイレは極端にしても、当時の言葉・概念だけで台詞を構成するというのは難しく、研究者が考証を担当しても、見逃すこともあるのではないか、とも思います。
このように線引きが難しいとなると、最終的には各視聴者が自分で基準を設けて判断すればよいのではないか、とも思うのですが、やはり専門家の見解が重視されるべきではないかな、と思います。現代では、さまざまな分野で専門家への懐疑が強まっているようですが、専門家の見解はもっと尊重されるべきだろう、とは思います。もちろん、だからといって専門家の見解を鵜呑みにしろということではなく、たとえば大河ドラマは専門家の見解にすべてしたがって制作されるべきだ、と主張するつもりはありませんし、以下の私見はすべてそれを大前提としたうえでのことです。
あくまでも新聞・雑誌・ネットなどでの私の見聞の範囲内ではありますが、この作品の舞台となっている平安時代末期というか中世初期・前半を専門とする歴史学の研究者の間で、この作品はきわめて評判が悪く、とくに脚本への評価はたいへん低くなっています。これは、研究者だけではなく、この時代に詳しい一般人の間でも同じ傾向が見られます。この作品、とくに脚本を誉めているこの時代の研究者となると、二人いる時代考証担当の一方である本郷和人氏だけです。この時代に詳しい人がこの作品に肯定的な見解を述べた例となると、この時代を専攻とする歴史学の研究者ではありませんが、『新潮45』2012年10月号にて小谷野敦氏がこの作品をそれなりに高く評価していたことくらいでしょうか。
もちろん、ネットでも既存メディアでも声の大きな主張が目立ち、批判というものは往々にして声高なものではありますし、私の見聞範囲は限定されているのですが、研究者か否かを問わず、平安時代末期に詳しくこの作品について語っている人のほとんどがこの作品を厳しく批判し、とくに脚本にたいして低い評価を下している一方で、脚本も含めてこの作品を絶賛しているのが本郷氏だけということは、この作品の歴史ドラマとしての価値を考えるうえで、とても無視できないだろう、とは思います。とはいえ、私にはそうした批判も咀嚼したうえで有意義な議論を展開するだけの見識はとてもなく、まとまりのない思いつきの羅列になりそうですが、以下、この問題についての雑感を述べていくことにします。
この作品は低視聴率ということでマスメディアに面白おかしく取り上げられることが多かったのですが、とくにネット上のニュースサイトに掲載される記事には、本当に視聴したうえでの批判なのか、と疑問に思うものが少なくなく、まともなものは少なかったように思います。そうした批判的な記事のなかには、この作品を擁護する見解も申し訳程度に掲載されているものが多かったのですが、この擁護も批判と同じく紋切型というか、視聴したうえでのものではなく、大河ドラマとしては前代未聞の低視聴率という負の話題性を題材にした、机上の作文との感は否めませんでした。
そうした紋切型の記事でよく見られたこの作品への擁護が、リアルな映像作りや史実に忠実で人間関係が複雑といったものでしたが、この作品を高く評価している私でさえ、そうした評価は的外れだろう、と考えているくらいです。まず、とくに序盤で顕著だったコーンスターチを多用した映像作りは、平安京が砂漠地帯にあったわけではないというほとんどの日本人にとって周知の事実からも、とてもリアルとは言い難いものでした。このコーンスターチの多用を海賊討伐の海戦場面でもやってしまったのですから、この作品の映像作りがテレビドラマとして優れていたとか効果的だったとかいう議論はあり得るかもしれませんが、リアルとはとても言えないように思います。
また、若き日の清盛の姿が汚すぎることからも、とてもリアルな映像作りとは言えないように思います。おそらく、若き日の清盛の姿を現代において忠実に映像化するための根拠になり得るような文献はないでしょうから、この作品における若き日の清盛の姿が間違いだと断定できるわけではなさそうですが、清盛の誕生時点ですでに祖父も父も国守を務めたことがあるわけで、清盛自身も数え年12歳で従五位下となり、その後も30歳の時の祗園闘乱事件の直前まではわりと順調に出世していったのですから、この作品で描かれたような、30代半ばまで薄汚れた格好で都を歩き回っていた、というようなことはまずあり得なかっただろう、と思います。
次に、人間関係が複雑という擁護についてですが、たとえば、藤原公教がほとんど端役扱いで、平治の乱でも重要な役割を果たさなかったとか、宗子(池禅尼)が重仁親王の乳母だったことが無視されているとか、清盛と信頼との姻戚関係とか、人間関係はかなり簡略化されており、テレビドラマとして分かりやすいように構成しよう、という意図が伝わってきました。少なくとも、この作品の人間関係がきょくたんに複雑だったということはないでしょう。あくまでも私の見聞の範囲内ではありますが、この時代に詳しく、おそらくこの作品で提示された人間関係を複雑とは思わない人たちのほとんどが、面白くない、脚本が駄目だと言っているわけですから、この作品の人間関係は低視聴率の根本的な原因ではないだろう、と思います。
これらのことからも、史実に忠実という擁護は疑問なのですが、根本的な問題は、活力にあふれる武士が、退廃的で乱れた王家・貴族に見下されつつも、彼らに取って代わって新しい世を作る、というこの作品の基本的な話の構造にあるのではないか、と思います。この作品の基本的な世界観は、現代日本社会では馴染みの通俗的歴史観に依拠したものである、と言えるわけです。この作品では、そうした世界観のもとに、忠盛や義朝や清盛が保元の乱の前より、多分に曖昧なところがあったとはいえ、武士の世を目指す、という明確な目標を立て、その実現のために奮闘しました。これは、悪い意味で後世の視点が露骨に出てしまっているというか、結果論的解釈になってしまっている感は否めません。
また、この作品における経宗・基房・兼実などといった公卿の戯画化も、上述した世界観に基づくものと言えるでしょう。さらに、源氏と平氏を類型化して対照的に描き、源氏を一まとめにし、頼政も義朝に従属していたかのように説明していることも、上述した基本的な世界観に淵源があると言えるでしょう。この作品の基本的な世界観が多分に依拠している通俗的歴史観は見直しも進んでいるわけで、そうしたことからも、通俗的歴史観にかなりのところ依拠したこの作品への批判・不満は大きかったのではないか、と思います。
また、この作品の後半~終盤にかけての清盛が専制化していく描写は、かなりのところ「平家物語史観」に依拠しているように思われ、その意味でも、現代日本社会では馴染みの通俗的歴史観に依拠している、と言えそうです。清盛と同じく、重盛・宗盛・信頼の人物描写も、通俗的歴史観に依拠したところが多分にあり、人物造形が陳腐である、との批判はあるだろうと思います。ただ、この作品でもこれまでの一般的印象通り無能と描かれた宗盛と信頼の見直し論については、興味深い見解ではあるものの、まだ確証されたとは言えないように思います。
一方で、この作品は戦後の歴史学の研究成果を取り入れたところもあり、平治の乱において、それまで対立していた後白河院政派と二条帝親政派の公卿層が反信西で一致する、という動向を描くところもありました。基本的な世界観は通俗的歴史観に依拠しているものの、多くの視聴者にとって馴染み深い物語にするという方針を徹底するわけではなく、ところどころの話では戦後の歴史学の研究成果を取り入れるといったところは、娯楽映像歴史作品としてやや中途半端になったのではないか、とも思います。ただ、この私見にはあまり自信はありません。
鳥羽院を中心とした序盤の宮中の描写なども、かなり戯画化されて現実離れしたところがありましたから、この作品が当時の身分社会を描けておらず、全体的に史実には忠実ではないというか、戦後の歴史学における見直しがあまり反映されず、古臭い通俗的歴史観を再生産する役割を果たしたばかりか、若き日の清盛の無頼など、新たな捏造(だろうと私は考えています)を提示したという意味で、この時代の専門家か否かに関わらず、この時代に詳しい人々の間できわめて不評だったのは、かなりのていど仕方のないところなのかな、とは思います。
正直なところ私も、放送開始前にこの作品の時代考証担当が髙橋昌明氏と知った時は(当初は、時代考証担当が二人とはしりませんでした)、近年の歴史学での見直しを取り入れ、比較的史実に忠実な物語になるのではないか、と期待していましたし、本放送よりもずっと史実に近い話にしても、さらに面白い話にするのは困難ではなかっただろう、と考えているだけに、残念ではあります。ただ、作品が完結した今になってみると、映像作りなどで不満はありましたが、実父白河院から引き継いだ物の怪の血と、武士である伊勢平氏の長男として育ったこととの間で時として悩み迷走しつつも、交易による豊かな国造りを目指して主人公を軸としつつも、その周囲の個性あふれる人物たちを魅力的に描いた群像劇となっていて、1年間の連続テレビドラマとしてはたいへん楽しめました。
歴史ドラマとしては欠陥が多かったことは否めませんし、そうした諸々の欠陥がどこまで許容範囲なのか、あるいは是正すべきなのか、という点について、現在の私の見識では的確に答えられませんし、おそらく一生かかっても無理でしょうが、そうした問題を考えさせられる重要な契機になったという意味でも、私にとっては記念碑的な作品となりました。けっきょくのところ、上手くまとめられず雑然とした感想の羅列になってしまいましたが、今回の本題はこれで終わりとします。以下、研究者の批判が厳しいものであったことについて、さらに述べていくつもりだったのですが、憶測というよりも邪推になってしまった感があるので、公開は控えることにしました。
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_5.html
全体的な感想(2)は以下の記事で
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_7.html
全体的な感想(3)は以下の記事で、
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_10.html
全体的な感想(4)は以下の記事で述べました。
https://sicambre.seesaa.net/article/201301article_16.html
大河ドラマがどこまで史実に忠実であるべきか、というか歴史学の研究成果に沿うべきか、というのは難問であり、答えのない問題と言うべきかもしれませんが、それでも限度はあると思います。たとえばこの作品でいうと、清盛や義朝や後白河院が、月に人を送り込むとか、大陸間弾道ミサイルで高麗・金・南宋を攻撃するとかいった計画を立てるという場面が描かれれば、明らかに問題というか誤りだとほとんどの人には分かるでしょう。それは極端にしても、清盛がトマトやジャガイモを使った料理を食べている場面を描けば、批判されても仕方ないでしょう。まあ、トマトやジャガイモの事例もまだ極端と言えそうですが、私も含めて一般人の多くは、平安時代末期の常識をこの時代の研究者よりもはるかに知らないわけで、研究者やこの時代に詳しい人から見ておかしな描写がどこまで許されるかとなると、線引きがたいへん難しいとは思います。
そもそも、言葉からして、忠実に再現しようとすると、現代日本社会では字幕が必要になり、娯楽映像作品には適さないでしょう。歴史ものの映画でよく見られるように、地域・時代に関わらず人々が英語で話す作品が少なからずあるように、言葉の問題はあるていど割り切らなければならないだろう、とは思います。ただ、それでもやはり限度はあり、平安時代末期の日本を舞台にした大河ドラマで、トイレに行くとか遺伝子などという言葉が出るのは問題でしょう。もっとも、これも線引きの難しいところがあり、トイレは極端にしても、当時の言葉・概念だけで台詞を構成するというのは難しく、研究者が考証を担当しても、見逃すこともあるのではないか、とも思います。
このように線引きが難しいとなると、最終的には各視聴者が自分で基準を設けて判断すればよいのではないか、とも思うのですが、やはり専門家の見解が重視されるべきではないかな、と思います。現代では、さまざまな分野で専門家への懐疑が強まっているようですが、専門家の見解はもっと尊重されるべきだろう、とは思います。もちろん、だからといって専門家の見解を鵜呑みにしろということではなく、たとえば大河ドラマは専門家の見解にすべてしたがって制作されるべきだ、と主張するつもりはありませんし、以下の私見はすべてそれを大前提としたうえでのことです。
あくまでも新聞・雑誌・ネットなどでの私の見聞の範囲内ではありますが、この作品の舞台となっている平安時代末期というか中世初期・前半を専門とする歴史学の研究者の間で、この作品はきわめて評判が悪く、とくに脚本への評価はたいへん低くなっています。これは、研究者だけではなく、この時代に詳しい一般人の間でも同じ傾向が見られます。この作品、とくに脚本を誉めているこの時代の研究者となると、二人いる時代考証担当の一方である本郷和人氏だけです。この時代に詳しい人がこの作品に肯定的な見解を述べた例となると、この時代を専攻とする歴史学の研究者ではありませんが、『新潮45』2012年10月号にて小谷野敦氏がこの作品をそれなりに高く評価していたことくらいでしょうか。
もちろん、ネットでも既存メディアでも声の大きな主張が目立ち、批判というものは往々にして声高なものではありますし、私の見聞範囲は限定されているのですが、研究者か否かを問わず、平安時代末期に詳しくこの作品について語っている人のほとんどがこの作品を厳しく批判し、とくに脚本にたいして低い評価を下している一方で、脚本も含めてこの作品を絶賛しているのが本郷氏だけということは、この作品の歴史ドラマとしての価値を考えるうえで、とても無視できないだろう、とは思います。とはいえ、私にはそうした批判も咀嚼したうえで有意義な議論を展開するだけの見識はとてもなく、まとまりのない思いつきの羅列になりそうですが、以下、この問題についての雑感を述べていくことにします。
この作品は低視聴率ということでマスメディアに面白おかしく取り上げられることが多かったのですが、とくにネット上のニュースサイトに掲載される記事には、本当に視聴したうえでの批判なのか、と疑問に思うものが少なくなく、まともなものは少なかったように思います。そうした批判的な記事のなかには、この作品を擁護する見解も申し訳程度に掲載されているものが多かったのですが、この擁護も批判と同じく紋切型というか、視聴したうえでのものではなく、大河ドラマとしては前代未聞の低視聴率という負の話題性を題材にした、机上の作文との感は否めませんでした。
そうした紋切型の記事でよく見られたこの作品への擁護が、リアルな映像作りや史実に忠実で人間関係が複雑といったものでしたが、この作品を高く評価している私でさえ、そうした評価は的外れだろう、と考えているくらいです。まず、とくに序盤で顕著だったコーンスターチを多用した映像作りは、平安京が砂漠地帯にあったわけではないというほとんどの日本人にとって周知の事実からも、とてもリアルとは言い難いものでした。このコーンスターチの多用を海賊討伐の海戦場面でもやってしまったのですから、この作品の映像作りがテレビドラマとして優れていたとか効果的だったとかいう議論はあり得るかもしれませんが、リアルとはとても言えないように思います。
また、若き日の清盛の姿が汚すぎることからも、とてもリアルな映像作りとは言えないように思います。おそらく、若き日の清盛の姿を現代において忠実に映像化するための根拠になり得るような文献はないでしょうから、この作品における若き日の清盛の姿が間違いだと断定できるわけではなさそうですが、清盛の誕生時点ですでに祖父も父も国守を務めたことがあるわけで、清盛自身も数え年12歳で従五位下となり、その後も30歳の時の祗園闘乱事件の直前まではわりと順調に出世していったのですから、この作品で描かれたような、30代半ばまで薄汚れた格好で都を歩き回っていた、というようなことはまずあり得なかっただろう、と思います。
次に、人間関係が複雑という擁護についてですが、たとえば、藤原公教がほとんど端役扱いで、平治の乱でも重要な役割を果たさなかったとか、宗子(池禅尼)が重仁親王の乳母だったことが無視されているとか、清盛と信頼との姻戚関係とか、人間関係はかなり簡略化されており、テレビドラマとして分かりやすいように構成しよう、という意図が伝わってきました。少なくとも、この作品の人間関係がきょくたんに複雑だったということはないでしょう。あくまでも私の見聞の範囲内ではありますが、この時代に詳しく、おそらくこの作品で提示された人間関係を複雑とは思わない人たちのほとんどが、面白くない、脚本が駄目だと言っているわけですから、この作品の人間関係は低視聴率の根本的な原因ではないだろう、と思います。
これらのことからも、史実に忠実という擁護は疑問なのですが、根本的な問題は、活力にあふれる武士が、退廃的で乱れた王家・貴族に見下されつつも、彼らに取って代わって新しい世を作る、というこの作品の基本的な話の構造にあるのではないか、と思います。この作品の基本的な世界観は、現代日本社会では馴染みの通俗的歴史観に依拠したものである、と言えるわけです。この作品では、そうした世界観のもとに、忠盛や義朝や清盛が保元の乱の前より、多分に曖昧なところがあったとはいえ、武士の世を目指す、という明確な目標を立て、その実現のために奮闘しました。これは、悪い意味で後世の視点が露骨に出てしまっているというか、結果論的解釈になってしまっている感は否めません。
また、この作品における経宗・基房・兼実などといった公卿の戯画化も、上述した世界観に基づくものと言えるでしょう。さらに、源氏と平氏を類型化して対照的に描き、源氏を一まとめにし、頼政も義朝に従属していたかのように説明していることも、上述した基本的な世界観に淵源があると言えるでしょう。この作品の基本的な世界観が多分に依拠している通俗的歴史観は見直しも進んでいるわけで、そうしたことからも、通俗的歴史観にかなりのところ依拠したこの作品への批判・不満は大きかったのではないか、と思います。
また、この作品の後半~終盤にかけての清盛が専制化していく描写は、かなりのところ「平家物語史観」に依拠しているように思われ、その意味でも、現代日本社会では馴染みの通俗的歴史観に依拠している、と言えそうです。清盛と同じく、重盛・宗盛・信頼の人物描写も、通俗的歴史観に依拠したところが多分にあり、人物造形が陳腐である、との批判はあるだろうと思います。ただ、この作品でもこれまでの一般的印象通り無能と描かれた宗盛と信頼の見直し論については、興味深い見解ではあるものの、まだ確証されたとは言えないように思います。
一方で、この作品は戦後の歴史学の研究成果を取り入れたところもあり、平治の乱において、それまで対立していた後白河院政派と二条帝親政派の公卿層が反信西で一致する、という動向を描くところもありました。基本的な世界観は通俗的歴史観に依拠しているものの、多くの視聴者にとって馴染み深い物語にするという方針を徹底するわけではなく、ところどころの話では戦後の歴史学の研究成果を取り入れるといったところは、娯楽映像歴史作品としてやや中途半端になったのではないか、とも思います。ただ、この私見にはあまり自信はありません。
鳥羽院を中心とした序盤の宮中の描写なども、かなり戯画化されて現実離れしたところがありましたから、この作品が当時の身分社会を描けておらず、全体的に史実には忠実ではないというか、戦後の歴史学における見直しがあまり反映されず、古臭い通俗的歴史観を再生産する役割を果たしたばかりか、若き日の清盛の無頼など、新たな捏造(だろうと私は考えています)を提示したという意味で、この時代の専門家か否かに関わらず、この時代に詳しい人々の間できわめて不評だったのは、かなりのていど仕方のないところなのかな、とは思います。
正直なところ私も、放送開始前にこの作品の時代考証担当が髙橋昌明氏と知った時は(当初は、時代考証担当が二人とはしりませんでした)、近年の歴史学での見直しを取り入れ、比較的史実に忠実な物語になるのではないか、と期待していましたし、本放送よりもずっと史実に近い話にしても、さらに面白い話にするのは困難ではなかっただろう、と考えているだけに、残念ではあります。ただ、作品が完結した今になってみると、映像作りなどで不満はありましたが、実父白河院から引き継いだ物の怪の血と、武士である伊勢平氏の長男として育ったこととの間で時として悩み迷走しつつも、交易による豊かな国造りを目指して主人公を軸としつつも、その周囲の個性あふれる人物たちを魅力的に描いた群像劇となっていて、1年間の連続テレビドラマとしてはたいへん楽しめました。
歴史ドラマとしては欠陥が多かったことは否めませんし、そうした諸々の欠陥がどこまで許容範囲なのか、あるいは是正すべきなのか、という点について、現在の私の見識では的確に答えられませんし、おそらく一生かかっても無理でしょうが、そうした問題を考えさせられる重要な契機になったという意味でも、私にとっては記念碑的な作品となりました。けっきょくのところ、上手くまとめられず雑然とした感想の羅列になってしまいましたが、今回の本題はこれで終わりとします。以下、研究者の批判が厳しいものであったことについて、さらに述べていくつもりだったのですが、憶測というよりも邪推になってしまった感があるので、公開は控えることにしました。
この記事へのコメント
大河ドラマ『平清盛』に関するご考察を大変に興味深く拝読しました。
私自身としては最近になく興味をそそられた時代・素材であり、視聴率が物語るほど悪い内容ではないと思っていました。
ご考察を読むにしたがい、比較的馴染みのない時代を限られた枠の中でわかりやすく語ることが求められる一方、十分な知識を持つ層もそれなりに満足させねばならない難しさなど、今の時代に大河ドラマを提供するうえで、一朝一夕に達成できそうもない課題をあらためて感じました。
大河ドラマに限らず、心の琴線に触れる脚本なら、撮影や演出が少し??でも好印象が残るように思います。加えて俳優さんに技量があれば申し分ありません。
コーンスターチや、その後の露出プラス補正しすぎなのかと思える画面が気になるようでは、その放送回は自分にとって物足らないのだろうと思います。
八重の桜では、ある俳優さんが登場するのを楽しみに待っています。
そのころに、テレビを見る時間があるよう祈っています。
長々とすみませんでした。
前半の白河・鳥羽院政期は一般にはあまり馴染みがないというか不人気な時代でしょうから、作品が完結した今になってみると、もっと工夫があってしかるべきだったのではないかな、と思います。