杉晴夫『人類はなぜ短期間で進化できたのか ラマルク説で読み解く』
まだ日付は変わっていないのですが、10月13日分の記事として掲載しておきます。平凡社新書の一冊として平凡社より2012年7月に刊行されました。「ラマルク説で読み解く」という副題を見た時点でかなりのていど覚悟はしていたのですが、大外れの一冊でした。新書でそれほど文字数が多くないのに、途中で挫折しそうになったくらいで、何度か中断しつつ、読み始めてからかなりの時間が経過してやっと読み終えられました。この本をなぜ購入してしまったのか、購入時の心理状態が自分でもよく思い出せないのですが、表題に見える人類と進化という単語に興味をもったのと、新書で安いということで、購入の決断を安易に下してしまったのではないか、と思います。以下、本文の引用では一部の漢数字を算用数字に改めています。
本書を貫くのは、ラマルク説への傾倒というよりも、ダーウィンおよび現代では通説となっている総合説への強烈な敵意です。生物学に限らず物理学や歴史学など、さまざまな学問において通説と認められている見解にたいして、これぞ真実だとして敵意むきだしの私見を主張する人は少なくありませんが、そうした事例はおおむね、無知・誤解による通説への的外れな批判に終わっています。残念ながら本書で強調されている総合説やダーウィンの見解への批判も、おおむね著者の無知・誤解による的外れなものになっています。
本書の問題点についてすべて指摘するだけの見識・気力は私にはないので、とくに気になった点についていくつか述べていきますが、まずは、中立説の提唱で有名な木村資生を代表的な新ダーウィン主義者とみなし、その見解を批判している点についてです(P29~30)。そもそも、中立説の提唱者である木村を代表的な新ダーウィン主義者とみなす認識自体が疑問なのですが(現代では、中立説も総合説の一部を構成する、というのがおおむね共通認識になっているようですが)、木村の見解を批判する直前の段落にて、「遺伝子(DNA)には心がないのだから、ランダムに起こる突然変異は生物にとって有利なもの、有害なもの、および無害無益なものが、ほぼ等しい確率で起こるであろう」と述べていること(P28)も問題です。もちろんこれは、中立説の主張とは大いに異なる説明なのですが、その根拠はまったく示されておらず、中立説の提唱者である木村の見解を批判する前提として、このような「私見」を持ち出しても無効なのではないか、と思います。
また、本書ではたびたび、急激な進化を遂げた人類と、人類に近縁の霊長類をはじめとして進化の止まった他の生物という対比が強調されることも問題で、チンパンジーとボノボとの分岐や、ゴリラの多様性などを考えれば、これは的外れな見解です。そもそも、著者のこうした主張の基礎となるのが、「人類は現生種の類人猿から進化したのではなく、1000万年以上前に現れた高等な霊長類が人類の直系の祖先とされている。この高等霊長類は、すでに人類の基本的特徴を備えているので猿人と呼ばれ、他の霊長類とは区別される」との認識なので(P51)、著者は根本的なところで現代の総合説を勘違いしていますし、また人類の進化に関する基本的な知識に欠けるようです。
「人類は現生種の類人猿から進化したのではなく」という一節は、創造説などで主張される、進化学にたいする古典的な「批判」というか誤解を想起させます。もちろん、現代人は現生類人猿から進化したのではなく、犬や馬など他の生物と比較すると、現生類人猿との間により新しい年代で最終共通祖先がおり、最終共通祖先から分岐後、各系統はそれぞれ独自に派生的特徴を強めてきた、ということにすぎません。さすがに著者は、素朴な創造説支持者のような古典的な誤解はしていないと思うのですが、人類と比較すると進化の止まった霊長類、との認識が本書ではたびたび見られるので、危うさもあります。著者の通説への批判は、一事が万事このような的外れなものとなっています。
本書で提示される見解は、現代の進化学の成果への誤解と無知に基づいており、より具体的な事例となる人類の進化についても、同様の傾向が見られます。上述した引用にも誤解が見られますが、現時点では、チンパンジーの祖先と分岐した後の人類の祖先として最古の候補となるのは、700万年前頃の化石(サヘラントロプス=チャデンシス)で、1000万年以上前に人類の基本的特徴を備えた「高等霊長類」が存在していたという証拠はなく、もちろん本書でも提示されていません。次に、「原人」であるホモ=エレクトスの出現が60~30万年前頃という見解が本書では何度か見られますが、「原人」ということは広義のエレクトスということでしょうから、現時点では180万年前頃までさかのぼります。
脳容量の増加についての本書の図(P196)にも問題があり、いわゆる北京原人から現生人類(ホモ=サピエンス)までのこの40万年間に脳容量の増加が急であったことを示したいようですが、化石証拠が少ないために今後見解が訂正される可能性もあるものの、現時点では、人類の進化における脳容量の増加は、250~180万年前頃(ホモ属の確立期)と60~50万年前頃において顕著だったと考えるのが妥当であり、本書の図は根本的な訂正が必要となるでしょう。エレクトスの出現を60~30万年前頃とするなど、著者の人類進化に関する認識には、明らかに時代遅れのものが多いのではないか、と思います。
現生人類の拡散についての本書の見解も間違っており、著者は、現生人類のアメリカ大陸への到達はヨーロッパへの到達よりも前のことだった、と述べていますが(P205)、これはおそらく、巻末の参考文献に挙げられている『人類の足跡10万年全史』
https://sicambre.seesaa.net/article/200709article_20.html
を誤読したためでしょう。現時点では、現生人類(に限らずどの人類種でも)がヨーロッパよりも先にアメリカ大陸に進出した、という確たる証拠はまったくありません。どうも、著者はこのような誤読・誤解を重ねた結果、総合説やダーウィンについて敵意を抱くようになったのではないか、と思います。また、猿人が日常的に狩りを行ない、火を使用して獲物の肉を調理していた、との認識も見られますが(P57)、通説ではそのようなことは主張されておらず、もちろん本書でもその証拠はまったく提示されていません。本格的な狩猟も火の使用の証拠も、現時点では、広義のエレクトスの出現からかなり経過した後になって確認されます。
本書の特徴は、人類の生物学的進化と「文明」の発展とが結びつけられて考察されていることで、「天才」の役割が強調されています。本書の後半で展開される「文明」の発展と「天才」の役割について、色々と突っ込む気力はありませんが、怠惰で現状維持・保守志向の多数の一般人と、名誉・富にこだわらず新境地を切り開く「天才」という区分が、あまりにも単純な類型化になっているということと、ギリシアのみで人類史上ただ一回の知的活動の爆発があったとの見解が、古典的なヨーロッパ中心史観を悪い意味で継承・強調してしまっている、という感想のみ述べておきます。
とにかく問題の多い本書ですが、有益な問題提起もあります。それは、二足歩行により人類の手(前肢)の運動が精緻化し、人類がさまざまな道具を考案・製作することが可能になったことと、人類の社会の形成により言語による意思疎通がますます重要になったことが、脳の発達を促したという広く行われている説明は、ラマルク説に基づくものだ、という指摘です(P197~198)。こうしたことなどから、用不用説の正しさは明らかだ、と本書では主張されているのですが、著者が指摘するように、人類の進化をこのように説明する解説は珍しくないように思います。
そうした解説は確かにラマルク説的ですが、だからといってラマルク説が妥当なのではなく、そもそも、道具を使うことや言語を用いることで脳が発達していった、という分かりやすさを志向した説明自体が問題なのだろう、と私は昔から考えてきました。確かに、道具・言語の使用は脳の発達を促しますが、それは遺伝的制約が大きいというか、遺伝的に決められた範囲内のことです。アウストラロピテクス属から初期ホモ属を経て現代人にいたる脳容量の増大は遺伝的変異を前提としたものであり、道具・言語を使用していれば必然的に脳容量が増大していくというものではありませんし、道具・言語を使用していれば必然的に遺伝的変異が生じるというものでもなく、もちろんそうした仕組みが証明されたことはありません。遺伝的変異自体は偶然の産物で、個体の意志も含む遺伝子の発現結果としての表現型による諸活動が、そうした意志や活動を特定の方向で伸ばすような遺伝的変異をもたらすような仕組みは、まったく証明されていません。
脳容量の増大をもたらす遺伝的変異は、おそらく知的能力の向上を伴って生存に有利になるため、集団内で選択され広まったのでしょうが、そのような淘汰圧が強力に働いたのは、脳容量の増大をもたらす遺伝的変異が生じてすぐのことではなく、しばらく経過してからのことで、その契機は自然・社会環境の変化だった、という可能性も考えられます。脳容量の増大がそうだったという強く主張するわけではありませんが、進化史においてそうした事例は珍しくなかったのではないか、と思います。遺伝的変異の生じた時期と淘汰圧の作用し始めた時期との間にずれがあったのか否かという問題はさておき、ともかく、分かりやすさを志向することも必要ではありますが、進化史の叙述においては、安易にラマルク説的な解説に陥らないよう、注意すべきではないか、と思います。
本書を貫くのは、ラマルク説への傾倒というよりも、ダーウィンおよび現代では通説となっている総合説への強烈な敵意です。生物学に限らず物理学や歴史学など、さまざまな学問において通説と認められている見解にたいして、これぞ真実だとして敵意むきだしの私見を主張する人は少なくありませんが、そうした事例はおおむね、無知・誤解による通説への的外れな批判に終わっています。残念ながら本書で強調されている総合説やダーウィンの見解への批判も、おおむね著者の無知・誤解による的外れなものになっています。
本書の問題点についてすべて指摘するだけの見識・気力は私にはないので、とくに気になった点についていくつか述べていきますが、まずは、中立説の提唱で有名な木村資生を代表的な新ダーウィン主義者とみなし、その見解を批判している点についてです(P29~30)。そもそも、中立説の提唱者である木村を代表的な新ダーウィン主義者とみなす認識自体が疑問なのですが(現代では、中立説も総合説の一部を構成する、というのがおおむね共通認識になっているようですが)、木村の見解を批判する直前の段落にて、「遺伝子(DNA)には心がないのだから、ランダムに起こる突然変異は生物にとって有利なもの、有害なもの、および無害無益なものが、ほぼ等しい確率で起こるであろう」と述べていること(P28)も問題です。もちろんこれは、中立説の主張とは大いに異なる説明なのですが、その根拠はまったく示されておらず、中立説の提唱者である木村の見解を批判する前提として、このような「私見」を持ち出しても無効なのではないか、と思います。
また、本書ではたびたび、急激な進化を遂げた人類と、人類に近縁の霊長類をはじめとして進化の止まった他の生物という対比が強調されることも問題で、チンパンジーとボノボとの分岐や、ゴリラの多様性などを考えれば、これは的外れな見解です。そもそも、著者のこうした主張の基礎となるのが、「人類は現生種の類人猿から進化したのではなく、1000万年以上前に現れた高等な霊長類が人類の直系の祖先とされている。この高等霊長類は、すでに人類の基本的特徴を備えているので猿人と呼ばれ、他の霊長類とは区別される」との認識なので(P51)、著者は根本的なところで現代の総合説を勘違いしていますし、また人類の進化に関する基本的な知識に欠けるようです。
「人類は現生種の類人猿から進化したのではなく」という一節は、創造説などで主張される、進化学にたいする古典的な「批判」というか誤解を想起させます。もちろん、現代人は現生類人猿から進化したのではなく、犬や馬など他の生物と比較すると、現生類人猿との間により新しい年代で最終共通祖先がおり、最終共通祖先から分岐後、各系統はそれぞれ独自に派生的特徴を強めてきた、ということにすぎません。さすがに著者は、素朴な創造説支持者のような古典的な誤解はしていないと思うのですが、人類と比較すると進化の止まった霊長類、との認識が本書ではたびたび見られるので、危うさもあります。著者の通説への批判は、一事が万事このような的外れなものとなっています。
本書で提示される見解は、現代の進化学の成果への誤解と無知に基づいており、より具体的な事例となる人類の進化についても、同様の傾向が見られます。上述した引用にも誤解が見られますが、現時点では、チンパンジーの祖先と分岐した後の人類の祖先として最古の候補となるのは、700万年前頃の化石(サヘラントロプス=チャデンシス)で、1000万年以上前に人類の基本的特徴を備えた「高等霊長類」が存在していたという証拠はなく、もちろん本書でも提示されていません。次に、「原人」であるホモ=エレクトスの出現が60~30万年前頃という見解が本書では何度か見られますが、「原人」ということは広義のエレクトスということでしょうから、現時点では180万年前頃までさかのぼります。
脳容量の増加についての本書の図(P196)にも問題があり、いわゆる北京原人から現生人類(ホモ=サピエンス)までのこの40万年間に脳容量の増加が急であったことを示したいようですが、化石証拠が少ないために今後見解が訂正される可能性もあるものの、現時点では、人類の進化における脳容量の増加は、250~180万年前頃(ホモ属の確立期)と60~50万年前頃において顕著だったと考えるのが妥当であり、本書の図は根本的な訂正が必要となるでしょう。エレクトスの出現を60~30万年前頃とするなど、著者の人類進化に関する認識には、明らかに時代遅れのものが多いのではないか、と思います。
現生人類の拡散についての本書の見解も間違っており、著者は、現生人類のアメリカ大陸への到達はヨーロッパへの到達よりも前のことだった、と述べていますが(P205)、これはおそらく、巻末の参考文献に挙げられている『人類の足跡10万年全史』
https://sicambre.seesaa.net/article/200709article_20.html
を誤読したためでしょう。現時点では、現生人類(に限らずどの人類種でも)がヨーロッパよりも先にアメリカ大陸に進出した、という確たる証拠はまったくありません。どうも、著者はこのような誤読・誤解を重ねた結果、総合説やダーウィンについて敵意を抱くようになったのではないか、と思います。また、猿人が日常的に狩りを行ない、火を使用して獲物の肉を調理していた、との認識も見られますが(P57)、通説ではそのようなことは主張されておらず、もちろん本書でもその証拠はまったく提示されていません。本格的な狩猟も火の使用の証拠も、現時点では、広義のエレクトスの出現からかなり経過した後になって確認されます。
本書の特徴は、人類の生物学的進化と「文明」の発展とが結びつけられて考察されていることで、「天才」の役割が強調されています。本書の後半で展開される「文明」の発展と「天才」の役割について、色々と突っ込む気力はありませんが、怠惰で現状維持・保守志向の多数の一般人と、名誉・富にこだわらず新境地を切り開く「天才」という区分が、あまりにも単純な類型化になっているということと、ギリシアのみで人類史上ただ一回の知的活動の爆発があったとの見解が、古典的なヨーロッパ中心史観を悪い意味で継承・強調してしまっている、という感想のみ述べておきます。
とにかく問題の多い本書ですが、有益な問題提起もあります。それは、二足歩行により人類の手(前肢)の運動が精緻化し、人類がさまざまな道具を考案・製作することが可能になったことと、人類の社会の形成により言語による意思疎通がますます重要になったことが、脳の発達を促したという広く行われている説明は、ラマルク説に基づくものだ、という指摘です(P197~198)。こうしたことなどから、用不用説の正しさは明らかだ、と本書では主張されているのですが、著者が指摘するように、人類の進化をこのように説明する解説は珍しくないように思います。
そうした解説は確かにラマルク説的ですが、だからといってラマルク説が妥当なのではなく、そもそも、道具を使うことや言語を用いることで脳が発達していった、という分かりやすさを志向した説明自体が問題なのだろう、と私は昔から考えてきました。確かに、道具・言語の使用は脳の発達を促しますが、それは遺伝的制約が大きいというか、遺伝的に決められた範囲内のことです。アウストラロピテクス属から初期ホモ属を経て現代人にいたる脳容量の増大は遺伝的変異を前提としたものであり、道具・言語を使用していれば必然的に脳容量が増大していくというものではありませんし、道具・言語を使用していれば必然的に遺伝的変異が生じるというものでもなく、もちろんそうした仕組みが証明されたことはありません。遺伝的変異自体は偶然の産物で、個体の意志も含む遺伝子の発現結果としての表現型による諸活動が、そうした意志や活動を特定の方向で伸ばすような遺伝的変異をもたらすような仕組みは、まったく証明されていません。
脳容量の増大をもたらす遺伝的変異は、おそらく知的能力の向上を伴って生存に有利になるため、集団内で選択され広まったのでしょうが、そのような淘汰圧が強力に働いたのは、脳容量の増大をもたらす遺伝的変異が生じてすぐのことではなく、しばらく経過してからのことで、その契機は自然・社会環境の変化だった、という可能性も考えられます。脳容量の増大がそうだったという強く主張するわけではありませんが、進化史においてそうした事例は珍しくなかったのではないか、と思います。遺伝的変異の生じた時期と淘汰圧の作用し始めた時期との間にずれがあったのか否かという問題はさておき、ともかく、分かりやすさを志向することも必要ではありますが、進化史の叙述においては、安易にラマルク説的な解説に陥らないよう、注意すべきではないか、と思います。
この記事へのコメント
生殖をおこなうまでの生長期間に受ける自然淘汰圧ですか。
成体生長期間の長さとの関係などはあるのでしょうか?