大河ドラマ『平清盛』第34回「白河院の伝言」
まだ日付は変わっていないのですが、9月3日分の記事として掲載しておきます。今回は、清盛が深刻な病状に陥ったことによる、周囲の変化と清盛の決意というか心象風景が描かれました。前者は、時忠が宗盛に棟梁の座を狙うよう唆したり、姉の時子に実子ではない重盛より宗盛のほうが可愛いのではないか、と婉曲に問いかけたりして、平家一門に亀裂が入っていく様が描かれました。また、基房が平家一門を退けて八条院・以仁王と提携しようとしたり、西光が相変わらず清盛への敵意を抱き続けていたり、源頼政が野心・誇りを垣間見せたりしましたが、清盛が回復したこともあり、それらは直ちに決定的な衝突へとは至りませんでした。しかし、今後の展開の伏線として、注目すべき場面であり、なかなかよく描けていたように思います。
問題は、重病の清盛の見た夢というか心象風景なのですが、すでに2/3ほど経過した時点で、第1回で退場した清盛の実母の舞子と、第2回で退場した白河院の新場面が描かれるとは予想していませんでした。今回、第1回の冒頭(オープニング前の鎌倉での立柱儀式のことではなく、実質的な物語の始まりである、オープニング後に舞子が為義たちに追われている場面)の前の話である、舞子が清盛を身ごもり、白河院の命で追われる前の出来事も描かれました。合理的に解釈しようとすると、祇園女御や父の忠盛や白河院などから聞いた話と、それらに基づく願望・不安・後悔などを清盛が夢で見た、ということなのでしょう。舞子が白河院追われる前の話は第1回で描いてもよさそうなのですが、物語がすでに2/3ほど経過した時点で描いたことには、重要な意味が込められているのではないか、と思います。
しかし正直なところ、今回を見たかぎりでは、脚本の意図するところがどうもよく分からず、最終回まで見て考える必要があるのかな、とも思います。現時点では、清盛がまだ白河院の到達した高みには達しておらず、さらなる高みへ上ることを決意し、それが権力への執念を強めていき、周囲の反感を買って平家一門の没落へと至るということと、清盛自身は否定し乗り越えようとするものの、清盛にはやはり物の怪の血が流れている、という構図を改めて示そうとしているのかな、と考えています。今回の脚本はかなりひねった構成になっていると思いますが、それが成功したか否か判断するには、最終回まで待つ必要があるのかもしれません。
今回、第3回以来の登場となった政子は、時系列ではその時より若く、まだ子供という雰囲気を出そうとする演出になっていましたが、さすがに無理があったと思います。ここは素直に子役を起用したほうがよかったと思うのですが、清盛・義朝・政子は子供(少年・少女)時代から成人役だったのにたいして、頼朝は成人役の前に子役・少年役が起用されたり(幼児役も含めると成人役の前に3人起用したことになります)、重盛は数え年19歳の時点でも少年役が起用されたりなど、どうもこの作品の配役の基準がよく分かりません。無気力状態の頼朝が政子と出会ってどのように変わっていくのか、注目しています。今回は回想場面が多く、主役の演技など不満も残りましたが、序盤の映像を改めて見て、懐かしさもありました。
問題は、重病の清盛の見た夢というか心象風景なのですが、すでに2/3ほど経過した時点で、第1回で退場した清盛の実母の舞子と、第2回で退場した白河院の新場面が描かれるとは予想していませんでした。今回、第1回の冒頭(オープニング前の鎌倉での立柱儀式のことではなく、実質的な物語の始まりである、オープニング後に舞子が為義たちに追われている場面)の前の話である、舞子が清盛を身ごもり、白河院の命で追われる前の出来事も描かれました。合理的に解釈しようとすると、祇園女御や父の忠盛や白河院などから聞いた話と、それらに基づく願望・不安・後悔などを清盛が夢で見た、ということなのでしょう。舞子が白河院追われる前の話は第1回で描いてもよさそうなのですが、物語がすでに2/3ほど経過した時点で描いたことには、重要な意味が込められているのではないか、と思います。
しかし正直なところ、今回を見たかぎりでは、脚本の意図するところがどうもよく分からず、最終回まで見て考える必要があるのかな、とも思います。現時点では、清盛がまだ白河院の到達した高みには達しておらず、さらなる高みへ上ることを決意し、それが権力への執念を強めていき、周囲の反感を買って平家一門の没落へと至るということと、清盛自身は否定し乗り越えようとするものの、清盛にはやはり物の怪の血が流れている、という構図を改めて示そうとしているのかな、と考えています。今回の脚本はかなりひねった構成になっていると思いますが、それが成功したか否か判断するには、最終回まで待つ必要があるのかもしれません。
今回、第3回以来の登場となった政子は、時系列ではその時より若く、まだ子供という雰囲気を出そうとする演出になっていましたが、さすがに無理があったと思います。ここは素直に子役を起用したほうがよかったと思うのですが、清盛・義朝・政子は子供(少年・少女)時代から成人役だったのにたいして、頼朝は成人役の前に子役・少年役が起用されたり(幼児役も含めると成人役の前に3人起用したことになります)、重盛は数え年19歳の時点でも少年役が起用されたりなど、どうもこの作品の配役の基準がよく分かりません。無気力状態の頼朝が政子と出会ってどのように変わっていくのか、注目しています。今回は回想場面が多く、主役の演技など不満も残りましたが、序盤の映像を改めて見て、懐かしさもありました。
この記事へのコメント
序盤の映像懐かしかったですね、璋子が特に。劉さんはソレを言ってるのでしょ?笑。
私も清盛が胎児のコロからのシーンとは予想外でした。この構成力は作品の魅力ですね。
話が進んだ訳ではないので特に可もなく不可もなし。
むかしみた『天地人』の母と子の対話で主人公の苦悩を表現した10話くらい?でしたか。
心理描写シーンというくくりで比較すると、出来は遥かに違うと思いました。