遠山美都男『日本書紀の虚構と史実』

 まだ日付は変わっていないのですが、9月26日分の記事として掲載しておきます。歴史新書の一冊として洋泉社より2012年8月に刊行されました。このブログでも過去に何度か遠山氏の著書を取り上げてきましたが、
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_25.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200901article_22.html
https://sicambre.seesaa.net/article/201206article_26.html
遠山氏の著書の多くは読みやすく面白いものの、疑問に思うところも多分に見られ、それは本書でも変わらないので、注意して読んでいかねばならないな、と思います。ただ、史料の制約から、それ以降の時代と比較して、あまり研究が盛んではないだろう7世紀政治史を意欲的に見直していき、その成果を一般向け書籍で精力的に紹介していく、という遠山氏の姿勢は、私のように7世紀政治史に関心のある素人にはありがたいことです。

 本書で疑問に思う見解の一つは、乙巳の変についてです。乙巳の変を起こしたのは皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)を次期天皇(治天下大王)に推す勢力で、皇極天皇もその計画に賛同していた、という本書の仮説は、状況証拠からして説得力があると思います。また、皇極が都城建設に熱心だったとの見解も、史料だけではなく考古学的成果からも説得力があると思います。ただ、これは遠山氏の見解に全体的に見られる傾向なのですが、そうした仮説自体には説得力があるものの、それを所与の前提というか自明視してしまうところがあり、その仮説から新たな解釈を提示するさいに、説得力のある論証がなされていない場合がたびたびあるように思います。

 乙巳の変とその前史について、都城建設に熱心だった皇極天皇にとって、君主ではないのにすでに斑鳩に都城的な場を築いていた上宮王家の存在は許せず、蘇我入鹿に命じて滅ぼさせた、と本書では主張されています。この見解はまだ解釈・推測として有効だろうとは思うのですが、さらに本書では、入鹿は上宮王家を滅ぼした後、都城建設に目立った貢献をしなくなったようで、そこに次期天皇が古人大兄皇子と定まったことを不満に思う軽皇子がつけ入り、都城建設を含む国政改革の計画を皇極天皇に熱心に訴え、皇極天皇は軽皇子の計画に夢中になり入鹿を裏切ったのだ、と主張されています。

 さすがにここまでいくと飛躍しすぎといった感があり、入鹿が上宮王家を滅ぼした後は都城建設に目立った貢献をしなくなったようだというのは、都城建設に熱心だった皇極天皇という仮説を大前提とした場合、入鹿の殺害をそのように説明することも可能かもしれない、という程度の説得力しかなく、確たる根拠はないと思います。同じ程度の状況証拠でよければ、皇極天皇は息子の中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)に帝位を継承させたかったものの、中大兄皇子はまだ若かったので、まずは中大兄にとって強敵となる古人大兄皇子を除くために、帝位への野心を抱く軽皇子と帝位を譲るという妥協をして提携した、という説明も可能でしょう。

 また、天智が弟の大海人皇子(後の天武天皇)との間に濃厚な婚姻関係を築き、新たなというかより限定された範囲の皇族を構築しなおし、安定的な皇位継承を企図したという見解も、状況証拠からそのように解釈することは可能ですし、一定以上の説得力はあると思います。しかし、それを所与の前提として、大海人皇子が大友皇子の後見人としての役割を天智から任じられており、それを大海人皇子が裏切った結果壬申の乱が勃発した、との本書の解釈は、一定以上の説得力はあると思いますが、確定的とは言えないように思います。

 このように、疑問に思うところもありますが、いわゆる女帝の役割を軽視する感のあった通俗的見解を見直し、推古天皇や皇極天皇(斉明天皇)の権威・権力を見直したことは説得力があると思いますし、蘇我蝦夷があっけなく滅びた要因は古人大兄皇子の出家にあった、との見解の論証には説得力があるなど、遠山氏の見解には、総合的には妥当なものが少なくないように思います。何よりも、執筆に慣れているということもあってか、一般読者向けの解説はなかなか上手いと思いますので、遠山氏が非専門家にとって貴重な研究者であることは確かでしょう。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック