ネアンデルタール人所産の壁画の意義

 今年になって、旧石器時代のイベリア半島の洞窟壁画の一部はネアンデルタール人(ホモ=ネアンデルターレンシス)の所産ではないか、との研究が報道され、私は大いに注目しています。一つは、スペイン南部のマラガの東方約56kmにあるネルジャ洞窟の壁画についての研究で、
https://sicambre.seesaa.net/article/201202article_9.html
https://sicambre.seesaa.net/article/201202article_10.html
https://sicambre.seesaa.net/article/201202article_17.html
もう一つは、スペイン北部のビスケー湾沿いにある11ヶ所の洞窟壁画についての研究です。
https://sicambre.seesaa.net/article/201206article_15.html
https://sicambre.seesaa.net/article/201206article_16.html

 現時点では、これらの洞窟壁画のうちの一部がネアンデルタール人の所産なのか、確定したとは言えませんが、その可能性が無視できるほど低いものではないことは間違いないだろう、と思います。かりに、旧石器時代の洞窟壁画の一部がネアンデルタール人の所産だとすると、洞窟壁画のような高度な芸術活動を行なった人類は現生人類(ホモ=サピエンス)のみだった、という古人類学の長年の常識を覆すことになるので、私は大いに注目しています。

 この問題は、「現代的行動」の起源とその評価とも関わってきます。サピエンスと他の人類とを区分する考古学的・行動学的指標として、洞窟壁画などの芸術活動・石刀技法を用いるなどした高度な石器と装身具の使用・埋葬と副葬品などが挙げられ、これらが「現代的行動」とされます。「現代的行動」を可能とするのは計画性も含む高度な知性・象徴的思考能力であり、それを備えた人類こそ真のホモ=サピエンスであって、ネアンデルターレンシスなど他の人類と区分され得る、というわけです。

 「真のホモ=サピエンス」という表現を用いたのは、1980年代以降、サピエンスの起源が古くなっていき、遅くとも10万年前頃にはサピエンスが存在していたことが明らかになってきたことと関わってきます。10万年前頃のサピエンスの存在が確実視されるようになった頃には、「現代的行動」は上部旧石器時代・後期石器時代以降に認められるとの見解が一般的で、「解剖学的現代性」が「行動学的現代性」よりもかなり先行して出現すると理解されていたので、「現代的行動」の認められない年代のサピエンスを解剖学的現代人、「現代的行動」が認められるようになった時期以降のサピエンスを、現代人と変わらない行動学的現代人として分類する見解が提示されました。

 この分類は、解剖学的現代人には現代人と変わらないような潜在的知的能力が備わっていたか定かではない、という意味合いを持つものでした。その後の研究により、アフリカを中心として「現代的行動」の起源がじゅうらい考えられていたよりもさかのぼり、中期石器時代や中部旧石器時代にも認められることが明らかになり、「解剖学的現代性」と「行動学的現代性」の出現年代の差はかなり縮まってきました。しかし、そのさかのぼった「現代的行動」の担い手はサピエンスとされることがほとんどで、ネアンデルターレンシスの「現代的行動」の証拠が乏しかったことは否めません。しかし近年では、まだ議論はあるものの、ネアンデルターレンシスの「現代的行動」の証拠の提示も増えつつあり、サピエンスとの接触がなさそうな時期・地域のネアンデルターレンシスが、装飾品を作っていた、との見解も提示されています。
https://sicambre.seesaa.net/article/201001article_14.html

 そのため近年では、ネアンデルターレンシスにも一定以上の象徴的思考能力があった、とする見解が支持を集めつつあるように思うのですが、それでもなお、洞窟壁画のような高度な芸術はネアンデルターレンシスには認められず、そこにサピエンスとネアンデルターレンシスとの間の決定的な潜在的知的能力の違いがあるのではないか、との見解が根強いようです。じっさい、これまでネアンデルタール人所産の壁画は発見されていませんでしたから、潜在的に可能だったか否かはともかくとして、ネアンデルタール人が壁画を描くことはなかった、という見解が古人類学で常識になっていたのは、当然とも言えます。

 また、サピエンスのアフリカ単一起源説が圧倒的に優勢になっていった1990年代以降、ネアンデルターレンシスの絶滅とサピエンスの繁栄を説明するために、両者の違いをできるだけ強調する見解が主流になり、その影響が今でも根強いのだろう、とも思います。かりに、洞窟壁画の一部がネアンデルターレンシスの所産だとすると、古人類学での長年の常識を覆すというだけではなく、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの間の潜在的知的能力の違いを強調し、それが前者の絶滅と後者の繁栄という結果をもたらした、とする見解に大打撃を与えることになるでしょうから、その意味でも意義深いと思います。

 もっとも、洞窟壁画の一部がネアンデルターレンシスの所産だとしても、何らかの潜在的知的能力の差がサピエンスとネアンデルターレンシスの間にはあり、それが両者の運命を分けた、との見解が否定できるわけではありません。この問題の解決には、ネアンデルターレンシスのゲノム解読とサピエンスのそれとの比較が大いに貢献しそうですが、どの遺伝子が特定の環境でどのように発現し、それが知性とどう関わってくるのか、さらには繁栄・衰退にどのていど影響を及ぼしたのか、という検証はたいへん困難であり、ある程度の見通しがつくのがいつになるのか、現時点では見当がつきません。

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  • ネアンデルタール人の壁画に関する報道

    Excerpt: 今年になって、旧石器時代のイベリア半島の洞窟壁画の一部はネアンデルタール人(ホモ=ネアンデルターレンシス)の所産ではないか、との研究が報道され、私は大いに注目しています。一つは、スペイン南部のマラガの.. Weblog: 雑記帳 racked: 2012-07-25 00:00