渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』
中公新書の一冊として、中央公論新社から2012年5月に刊行されました。副題は「三国志から見る邪馬台国」です。三国志と邪馬台国論争は、現代日本社会においてとくに人気の高い歴史分野なのですが、邪馬台国論争はまさに三国時代のことで、邪馬台国は三国で最大の勢力を誇った魏と密接な関係を有していたというのに、一般の歴史愛好者層では両者が密接に関連しているという印象はあまりなく、それぞれ個別に盛り上がっている感があります。
本書では、三国時代を中心に中国古代史・思想史を専門とする著者が、自らの専攻分野の視点から、いわゆる「魏志倭人伝」を一般向けに解説しています。それはつまり、『三国志』の他の箇所をあまり参照せずに、「魏志倭人伝」の文章を「鮮やかに解読して」邪馬台国の場所を提示するということではなく、『三国志』全体を視野に入れたうえで、『三国志』の著者である陳寿の置かれた立場・知的状況も踏まえて、陳寿の偏向を具体的に指摘し、「魏志倭人伝」がいかなる性質の記録であるか、また「魏志倭人伝」のうち、どの箇所がどのていど信用できるのか検証している、ということです。
陳寿にも中華世界の知識人としての偏見があり、さらには最初蜀に仕えて後に晋に仕えたという政治的立場から、『三国志』の執筆に政治的制約があっただろう、と一般論として考えている人は、私も含めて多いでしょう。しかし、それを実証的に指摘できるかとなると、私のように専門家ではない人間には難しいところがあります。本書は、「魏志倭人伝」を含む『三国志』の偏向の要因として、当時の中華世界(漢字文化圏)共通の知的状況と、中華世界の一地域である蜀の知的系譜とに由来する陳寿の世界観と、晋およびその皇室の司馬氏にとっての政治・歴史認識に起因する陳寿への要請(政治的圧力)とを指摘しています。
それらの具体的根拠として、まず『三国志』というか『魏書』では西戎(西域)伝が欠けていることが指摘されています。東夷・西戎・北狄・南蛮という四方の夷狄のうち、『魏書』には西戎・南蛮の伝が欠けています。蜀と呉の存在のために、南蛮伝が欠けているのは仕方がないので、西戎伝が欠けていることが問題となります。陳寿は西戎伝を記さない理由として、西域の諸国から朝貢のない年はなく、漢代とほぼ同じだったため、と『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝」にて述べています。しかし陳寿は、西域諸国が蜀に通ずることもあり、漢代と同様に魏に朝貢していたわけではないことを伝える書である『諸葛亮集』の編纂者でもあり、ここには明らかな偏向・作為があります。
この偏向の理由は、魏において西域諸国との関係で重要な、大月氏国の君主を「親魏大月氏王」に封じた功績が司馬氏と結びつかないばかりか、晋の実質的な創業者である司馬懿にとって最大の政敵である曹爽の父の曹真に帰せられるからでした。対照的に、倭国が朝貢してきて、その君主である卑弥呼を「親魏倭王」に封じた功績は司馬氏のものと認識されていたために、倭は『三国志』唯一の夷狄伝である「烏丸鮮卑東夷伝」において、最大の文字数の割かれた「異民族」となったり、他の東夷よりも礼に適ったところがあると記載されたりするなど、全体的に「好意的に」扱われていました。
また、司馬懿の功績を称えるためと、その最大の政敵である曹爽の父の曹真への対抗上、倭国は大月氏国と同等以上であることが要請されており、これも「魏志倭人伝」の記述を制約した可能性が指摘されます。具体的には、人口が大月氏国以上であることが要請され、遠方よりの朝貢ほど執政者の徳の高さを示すことから、洛陽から倭国の都たる邪馬台国までの距離が、洛陽から大月氏国までの距離と同等以上とされていることが挙げられています。これは現代から見れば理念ですが、晋の公式見解であり、晋に仕えていた陳寿は当然のこととして採用しました。
「魏志倭人伝」の記述を制約していたというか、その方向性を規定していたのは、大月氏国およびその背後にある曹真の存在だけではなく、呉の存在も大きな影響を及ぼしました。魏にとって、呉への対抗上、倭は呉を脅かすべき存在でなければならず、陳寿は、『魏略』にはない「東冶」という地名を加えて、倭は会稽の東冶の東にあるのだろう、と記載しました。この結果、倭はさらに南に位置して、呉を背後から脅かすことが可能な存在として観念されることになりました。
また、文献からは証明できませんが、呉と倭との提携を魏が懸念していただろうということも、倭の位置も含む「魏志倭人伝」の記述を制約していた可能性があり、じっさい、呉の紀年鏡が日本で出土していることからも、呉の影響が一部日本列島にまで及んでいた可能性はじゅうぶん考えられますし。それは、呉と一時的に提携したこともある公孫氏経由でのことだったのかもしれません。こうした懸念のために、『魏略』にはある「倭人は自ら考えるに太伯の後裔であるという」との一節を、陳寿は採用しなかったと考えられます。太伯は呉の祖とされており、倭と呉との提携先を魏が懸念していたとしたら、魏の後継者たる晋においても、この一節は不都合ということになります。
こうした理由で倭の位置がじっさいよりも南に位置することになったため、「魏志倭人伝」の倭人の風俗に関する記事も、そのまま受け取ることは危うく、当時の中華世界の知識人にとって必読の書とも言える『漢書』地理志や『礼記』などに依拠しながら、理念的に記述した可能性もじゅうぶん考えられます。中華世界の史書において、夷狄伝は記述対象となる夷狄のためではなく中華の栄光を示すために書かれるのであり、必ずしも事実を記録しているのではありません。
このように、「魏志倭人伝」の記述には、距離・方位などの点で理念的なところが多分にあるので、距離が弱点とされる邪馬台国九州説も、方位が弱点とされる邪馬台国大和説も、それぞれの弱点は大きな問題にはなりません。古墳の年代の繰り上がりと、3世紀になって北部九州の弥生遺跡の優越性が失われることから、考古学的には大和説が有利となります。また、伊都国に置かれた大率が刺史のようだと述べられていますが、当時の中華世界では、「首都圏」には刺史ではなく司隷校尉が置かれました。邪馬台国が九州にあった場合、「首都圏」たる伊都国に置かれた大率は司隷校尉のようだと表現されたでしょうから、「魏志倭人伝」の記述からは邪馬台国大和説が有利となります。
以上、本書の見解についてざっと述べてきましたが、日本列島内の考古学的成果と「魏志倭人伝」との照合には慎重でなければならないだろうな、と思います。また、大率・刺史・司隷校尉に関する本書の見解が妥当だとしても、本書で指摘されているように、邪馬台国九州説(とはいっても、この場合は北部九州説とするのが妥当でしょうか)が否定されるということであり、邪馬台国大和説が有利になるとはいっても、その決定打とは言えないでしょう。もっとも、本書の主題は邪馬台国所在地論争ではなく、「魏志倭人伝」を当時の中華世界の知的状況の中に的確に位置づけることであり、所在地論争は派生的問題であるように思います。主題についてはたいへん面白く読み進められ、あるいは、邪馬台国論争に詳しい人にとっては既知のことばかりなのかもしれませんが、不勉強な私にとっては得るものがひじょうに多く、たいへん有益な一冊となりました。
本書では、三国時代を中心に中国古代史・思想史を専門とする著者が、自らの専攻分野の視点から、いわゆる「魏志倭人伝」を一般向けに解説しています。それはつまり、『三国志』の他の箇所をあまり参照せずに、「魏志倭人伝」の文章を「鮮やかに解読して」邪馬台国の場所を提示するということではなく、『三国志』全体を視野に入れたうえで、『三国志』の著者である陳寿の置かれた立場・知的状況も踏まえて、陳寿の偏向を具体的に指摘し、「魏志倭人伝」がいかなる性質の記録であるか、また「魏志倭人伝」のうち、どの箇所がどのていど信用できるのか検証している、ということです。
陳寿にも中華世界の知識人としての偏見があり、さらには最初蜀に仕えて後に晋に仕えたという政治的立場から、『三国志』の執筆に政治的制約があっただろう、と一般論として考えている人は、私も含めて多いでしょう。しかし、それを実証的に指摘できるかとなると、私のように専門家ではない人間には難しいところがあります。本書は、「魏志倭人伝」を含む『三国志』の偏向の要因として、当時の中華世界(漢字文化圏)共通の知的状況と、中華世界の一地域である蜀の知的系譜とに由来する陳寿の世界観と、晋およびその皇室の司馬氏にとっての政治・歴史認識に起因する陳寿への要請(政治的圧力)とを指摘しています。
それらの具体的根拠として、まず『三国志』というか『魏書』では西戎(西域)伝が欠けていることが指摘されています。東夷・西戎・北狄・南蛮という四方の夷狄のうち、『魏書』には西戎・南蛮の伝が欠けています。蜀と呉の存在のために、南蛮伝が欠けているのは仕方がないので、西戎伝が欠けていることが問題となります。陳寿は西戎伝を記さない理由として、西域の諸国から朝貢のない年はなく、漢代とほぼ同じだったため、と『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝」にて述べています。しかし陳寿は、西域諸国が蜀に通ずることもあり、漢代と同様に魏に朝貢していたわけではないことを伝える書である『諸葛亮集』の編纂者でもあり、ここには明らかな偏向・作為があります。
この偏向の理由は、魏において西域諸国との関係で重要な、大月氏国の君主を「親魏大月氏王」に封じた功績が司馬氏と結びつかないばかりか、晋の実質的な創業者である司馬懿にとって最大の政敵である曹爽の父の曹真に帰せられるからでした。対照的に、倭国が朝貢してきて、その君主である卑弥呼を「親魏倭王」に封じた功績は司馬氏のものと認識されていたために、倭は『三国志』唯一の夷狄伝である「烏丸鮮卑東夷伝」において、最大の文字数の割かれた「異民族」となったり、他の東夷よりも礼に適ったところがあると記載されたりするなど、全体的に「好意的に」扱われていました。
また、司馬懿の功績を称えるためと、その最大の政敵である曹爽の父の曹真への対抗上、倭国は大月氏国と同等以上であることが要請されており、これも「魏志倭人伝」の記述を制約した可能性が指摘されます。具体的には、人口が大月氏国以上であることが要請され、遠方よりの朝貢ほど執政者の徳の高さを示すことから、洛陽から倭国の都たる邪馬台国までの距離が、洛陽から大月氏国までの距離と同等以上とされていることが挙げられています。これは現代から見れば理念ですが、晋の公式見解であり、晋に仕えていた陳寿は当然のこととして採用しました。
「魏志倭人伝」の記述を制約していたというか、その方向性を規定していたのは、大月氏国およびその背後にある曹真の存在だけではなく、呉の存在も大きな影響を及ぼしました。魏にとって、呉への対抗上、倭は呉を脅かすべき存在でなければならず、陳寿は、『魏略』にはない「東冶」という地名を加えて、倭は会稽の東冶の東にあるのだろう、と記載しました。この結果、倭はさらに南に位置して、呉を背後から脅かすことが可能な存在として観念されることになりました。
また、文献からは証明できませんが、呉と倭との提携を魏が懸念していただろうということも、倭の位置も含む「魏志倭人伝」の記述を制約していた可能性があり、じっさい、呉の紀年鏡が日本で出土していることからも、呉の影響が一部日本列島にまで及んでいた可能性はじゅうぶん考えられますし。それは、呉と一時的に提携したこともある公孫氏経由でのことだったのかもしれません。こうした懸念のために、『魏略』にはある「倭人は自ら考えるに太伯の後裔であるという」との一節を、陳寿は採用しなかったと考えられます。太伯は呉の祖とされており、倭と呉との提携先を魏が懸念していたとしたら、魏の後継者たる晋においても、この一節は不都合ということになります。
こうした理由で倭の位置がじっさいよりも南に位置することになったため、「魏志倭人伝」の倭人の風俗に関する記事も、そのまま受け取ることは危うく、当時の中華世界の知識人にとって必読の書とも言える『漢書』地理志や『礼記』などに依拠しながら、理念的に記述した可能性もじゅうぶん考えられます。中華世界の史書において、夷狄伝は記述対象となる夷狄のためではなく中華の栄光を示すために書かれるのであり、必ずしも事実を記録しているのではありません。
このように、「魏志倭人伝」の記述には、距離・方位などの点で理念的なところが多分にあるので、距離が弱点とされる邪馬台国九州説も、方位が弱点とされる邪馬台国大和説も、それぞれの弱点は大きな問題にはなりません。古墳の年代の繰り上がりと、3世紀になって北部九州の弥生遺跡の優越性が失われることから、考古学的には大和説が有利となります。また、伊都国に置かれた大率が刺史のようだと述べられていますが、当時の中華世界では、「首都圏」には刺史ではなく司隷校尉が置かれました。邪馬台国が九州にあった場合、「首都圏」たる伊都国に置かれた大率は司隷校尉のようだと表現されたでしょうから、「魏志倭人伝」の記述からは邪馬台国大和説が有利となります。
以上、本書の見解についてざっと述べてきましたが、日本列島内の考古学的成果と「魏志倭人伝」との照合には慎重でなければならないだろうな、と思います。また、大率・刺史・司隷校尉に関する本書の見解が妥当だとしても、本書で指摘されているように、邪馬台国九州説(とはいっても、この場合は北部九州説とするのが妥当でしょうか)が否定されるということであり、邪馬台国大和説が有利になるとはいっても、その決定打とは言えないでしょう。もっとも、本書の主題は邪馬台国所在地論争ではなく、「魏志倭人伝」を当時の中華世界の知的状況の中に的確に位置づけることであり、所在地論争は派生的問題であるように思います。主題についてはたいへん面白く読み進められ、あるいは、邪馬台国論争に詳しい人にとっては既知のことばかりなのかもしれませんが、不勉強な私にとっては得るものがひじょうに多く、たいへん有益な一冊となりました。
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