大河ドラマ『平清盛』第3回「源平の御曹司」
今回も、鎌倉での義朝の菩提を弔う寺の立柱儀式の場面から始まりますが、前2回の映像の使いまわしで、新規の映像はありませんでした。さすがに飽きてきた感があるので、次回は別の場面での頼朝の回想か、本編から始まってもらいたいものだ、と思います。冒頭の立柱儀式の場面から、舞台はその53年前の都へと移ります。清盛の弟の平次も元服式を迎え、家盛という諱を名乗ることになります。平次の元服式の加冠役も、清盛の時と同じく藤原家成が務めているようです。
この大事な元服式の場に清盛はおらず、鱸丸など少ない郎党とともに、海賊から船を警護し、その見返りの米などを貧しい民人に分け与えていました。清盛は相変わらずの無頼で、とても従五位上・左兵衛佐という官位の人物とは思えない汚い身なりをしています。そうしたなか、清盛は鱸丸たちとともに間違って海賊として捕えられて京に連行されますが、忠盛を棟梁とする伊勢平氏一門の尽力により、罪を得ることは免れます。しかし、清盛の郎党のうち三人は、そのまま投獄されてしまいます。
清盛はこの三人を脱獄させますが、三人は鳥羽院を警護する北面の武士の一人である佐藤義清(西行)に行く手を阻まれ、捕えられてしまいます。清盛は三人を救おうとしますが、鱸丸に止められます。清盛は父の忠盛に責任をとると言いますが、自分がまだ責任をとれるような男ではなく、自分が正しい行為と信じて疑わなかった海賊撃退行為が、かえって海賊の報復により民人を苦しめており、忠盛を棟梁とする伊勢平氏一門の力で生かされていることを痛感し、自分の無力さを思い知らされます。忠盛の、厳しくも優しさと息子への期待を秘めた父としての在り様が、たいへん魅力的です。
このように無頼を気取っていた清盛が、自分の無力さと甘さを思い知らされて成長していくというのが今回の話の軸なのですが、そこで父の忠盛とともに重要な役割を果たすのが源義朝で、義朝と清盛との関係を一つの軸として、今後の物語が展開するのだろう、ということを予感させる内容でした。義朝はこの時まだ数え年で10歳なのですが、王家の犬にはならない、自分一人で生きていくと言って北面の武士に取り立てられることを拒否するような清盛に、自分の無力さと甘さを思い知らせるという役割を義朝が担うのだと考えると、数え年10歳の義朝はいきなり成人役の起用でもよいのかもしれません。義朝の言動には、結果論的解釈を感じさせるものがありますが、ドラマとしては許容範囲ではないかな、とも思います。
今回は清盛の成長が描かれ、今後へと期待をつなげる内容でしたが、正直なところ、歴史ドラマとして見た場合、違和感があったのは否定できません。今回の時点ですでに清盛の官位は従五位上・左兵衛佐であり、とても今回描かれたような汚い身なりをしていたとは思えません。清盛は新興の下級貴族層としては異例なほどに昇進が早く、それが白河院の御落胤という説の根拠にもなっているのですが、御落胤説の当否はさておき、そのように昇進が早かったということは、清盛は朝廷の秩序に従順というか、その枠内での世渡りが上手かったのではないか、と思います。
その意味でも、今回描かれたような汚い身なりをしていた清盛像には違和感があり、十代の清盛は、この作品で描かれるような無頼とは、少なくとも表面的には正反対に近い人物だったのではないか、と私は考えています。むしろ、この作品で描かれている折り目正しい家盛のほうが、じっさいの清盛に近かったように思うのですが、もちろん私がそのことを証明できるわけはなく、思いつきにすぎません。その家盛は、腹に一物ありそうな印象を与える表情をしており、これまでの優等生的な言動も、どうも裏がありそうに思えてなりません。案内本のあらすじをすでに読んでいて先入観があるためかもしれませんが、先の展開を知らなくても、そのように見える雰囲気を漂わせているように思います。
ただ、無力で甘い主人公が成長していく様がきちんと描かれており、清盛との関係が相変わらず微妙な宗子(池禅尼)や、嫌われ役を担っている平忠正や、今回も小物感全開の源為義や、清盛を慕っている鱸丸や、冷静な平家貞や、嫌らしさと冷たさも見せている藤原家成など、今のところ配役もおおむね成功しているように思われますので、歴史ドラマとしては多々疑問が残りますが、ドラマとしてはなかなか面白く、今後の展開に期待の持てる内容になっています。主人公の清盛も、その好敵手と位置づけられている義朝も、主要人物の一人である西行も、懸念していたよりはずっとよい感じの演技になっており、コーンスターチを多用しすぎているという点を除けば、今のところ期待値に近い内容になっています。ただ、相変わらずの画面の汚さもあり、残念ながら視聴率が上向く可能性は低そうです。
毎回楽しみな朝廷の場面では、鳥羽院と璋子(待賢門院)とのやり取りが期待通り見応えのあるものでした。璋子は、息子の崇徳帝が鳥羽院に疎まれていることを気にかけ、帝が愛しくはないのか、と鳥羽院に尋ねます。自分ではなく白河院の胤なのに我が子のように愛しめというのか、と鳥羽院は激怒しますが、叔父子とでも思えばいかがですか、と璋子は言います。さすがに鳥羽院は激怒して立ち去りますが、璋子は終始無邪気な物言いで、鳥羽院が激怒した理由をまったく理解できていない様子です。璋子は、主観的には悪意のある人物ではないのですが、感情の一部が致命的に欠落しているところのある人物として描かれています。鳥羽院と璋子との関係が今後どのように描写されるのか、たいへん楽しみです。
この大事な元服式の場に清盛はおらず、鱸丸など少ない郎党とともに、海賊から船を警護し、その見返りの米などを貧しい民人に分け与えていました。清盛は相変わらずの無頼で、とても従五位上・左兵衛佐という官位の人物とは思えない汚い身なりをしています。そうしたなか、清盛は鱸丸たちとともに間違って海賊として捕えられて京に連行されますが、忠盛を棟梁とする伊勢平氏一門の尽力により、罪を得ることは免れます。しかし、清盛の郎党のうち三人は、そのまま投獄されてしまいます。
清盛はこの三人を脱獄させますが、三人は鳥羽院を警護する北面の武士の一人である佐藤義清(西行)に行く手を阻まれ、捕えられてしまいます。清盛は三人を救おうとしますが、鱸丸に止められます。清盛は父の忠盛に責任をとると言いますが、自分がまだ責任をとれるような男ではなく、自分が正しい行為と信じて疑わなかった海賊撃退行為が、かえって海賊の報復により民人を苦しめており、忠盛を棟梁とする伊勢平氏一門の力で生かされていることを痛感し、自分の無力さを思い知らされます。忠盛の、厳しくも優しさと息子への期待を秘めた父としての在り様が、たいへん魅力的です。
このように無頼を気取っていた清盛が、自分の無力さと甘さを思い知らされて成長していくというのが今回の話の軸なのですが、そこで父の忠盛とともに重要な役割を果たすのが源義朝で、義朝と清盛との関係を一つの軸として、今後の物語が展開するのだろう、ということを予感させる内容でした。義朝はこの時まだ数え年で10歳なのですが、王家の犬にはならない、自分一人で生きていくと言って北面の武士に取り立てられることを拒否するような清盛に、自分の無力さと甘さを思い知らせるという役割を義朝が担うのだと考えると、数え年10歳の義朝はいきなり成人役の起用でもよいのかもしれません。義朝の言動には、結果論的解釈を感じさせるものがありますが、ドラマとしては許容範囲ではないかな、とも思います。
今回は清盛の成長が描かれ、今後へと期待をつなげる内容でしたが、正直なところ、歴史ドラマとして見た場合、違和感があったのは否定できません。今回の時点ですでに清盛の官位は従五位上・左兵衛佐であり、とても今回描かれたような汚い身なりをしていたとは思えません。清盛は新興の下級貴族層としては異例なほどに昇進が早く、それが白河院の御落胤という説の根拠にもなっているのですが、御落胤説の当否はさておき、そのように昇進が早かったということは、清盛は朝廷の秩序に従順というか、その枠内での世渡りが上手かったのではないか、と思います。
その意味でも、今回描かれたような汚い身なりをしていた清盛像には違和感があり、十代の清盛は、この作品で描かれるような無頼とは、少なくとも表面的には正反対に近い人物だったのではないか、と私は考えています。むしろ、この作品で描かれている折り目正しい家盛のほうが、じっさいの清盛に近かったように思うのですが、もちろん私がそのことを証明できるわけはなく、思いつきにすぎません。その家盛は、腹に一物ありそうな印象を与える表情をしており、これまでの優等生的な言動も、どうも裏がありそうに思えてなりません。案内本のあらすじをすでに読んでいて先入観があるためかもしれませんが、先の展開を知らなくても、そのように見える雰囲気を漂わせているように思います。
ただ、無力で甘い主人公が成長していく様がきちんと描かれており、清盛との関係が相変わらず微妙な宗子(池禅尼)や、嫌われ役を担っている平忠正や、今回も小物感全開の源為義や、清盛を慕っている鱸丸や、冷静な平家貞や、嫌らしさと冷たさも見せている藤原家成など、今のところ配役もおおむね成功しているように思われますので、歴史ドラマとしては多々疑問が残りますが、ドラマとしてはなかなか面白く、今後の展開に期待の持てる内容になっています。主人公の清盛も、その好敵手と位置づけられている義朝も、主要人物の一人である西行も、懸念していたよりはずっとよい感じの演技になっており、コーンスターチを多用しすぎているという点を除けば、今のところ期待値に近い内容になっています。ただ、相変わらずの画面の汚さもあり、残念ながら視聴率が上向く可能性は低そうです。
毎回楽しみな朝廷の場面では、鳥羽院と璋子(待賢門院)とのやり取りが期待通り見応えのあるものでした。璋子は、息子の崇徳帝が鳥羽院に疎まれていることを気にかけ、帝が愛しくはないのか、と鳥羽院に尋ねます。自分ではなく白河院の胤なのに我が子のように愛しめというのか、と鳥羽院は激怒しますが、叔父子とでも思えばいかがですか、と璋子は言います。さすがに鳥羽院は激怒して立ち去りますが、璋子は終始無邪気な物言いで、鳥羽院が激怒した理由をまったく理解できていない様子です。璋子は、主観的には悪意のある人物ではないのですが、感情の一部が致命的に欠落しているところのある人物として描かれています。鳥羽院と璋子との関係が今後どのように描写されるのか、たいへん楽しみです。
この記事へのコメント
内容的には序盤の展開が読めない上、清盛の人物像がわかりにくいです。視聴者は「将来の大成を知っている」だけに、若き日の清盛の言動に首をかしげながら見ている(私もその1人)と思います。この点は「序盤の主人公の振る舞いが昨年と似ている」と言う人がいると思いますが、昨年の江さんには愛嬌がありましたが清盛には愛嬌をあまり感じません。
第3回視聴率も関東では17%台。やはり低いですね。
このままいくと「1月の平均視聴率」としては過去最低になりそうです。
「放送1か月目」で見ても「炎立つ」や「花の乱」を下回るかも。
そんな中で今日発売の週刊ポストでは、「最悪の場合は途中で打ち切りになるのではなかろうか?」、と懸念する趣旨の記事があります。
出演者の身に何かアクシデント(急病や大ケガなど)が起きればそうなりそうですが、現実にNHKが「それ以外の理由」で打ち切りにするとは考えにくいです。
だんだん兵庫県知事の言い分の「不適切さ」がなくなりそうです。
「優等生=親を含めて周囲から将来を大いに期待される子供」。
今年は「主人公が少年期は優等生ではない所がいい」と言う人はいます。
大河ドラマの主人公が子供の時に優等生だと、ストーリー演出上では面白くないですかね?私は主人公がそういう人であっても面白くできると思いますよ。
勉学的な意味で優等生らしい所を披露して、「さすがは~だ。子供の時から頭が冴えてる」と視聴者が思えばいいのです。それじゃ嫌味に見えますかね?