鳥羽天皇と崇徳天皇との関係、および天皇の権力についての雑感

 今年の大河ドラマ『平清盛』では、系図上では鳥羽の子とされている崇徳の実父が白河だという説が採用されています。これは同時代の文献には見当たらず、やや時代の下った鎌倉時代初期の文献に見えるので、疑問視する人も少なくないようですが、この問題を歴史学のみならず医学的見地からも詳細に検証し、崇徳は白河の実子だと主張した研究者もいるようです。もっとも、私はその見解を読んだことがないので、崇徳の実父が鳥羽と白河のどちらなのか、確信をもてないというのが正直なところです。

 鳥羽と崇徳の関係が険悪だったことはまず間違いなく、鳥羽が実子でないことを理由に崇徳を嫌ったという説と矛盾しませんが、本当に崇徳の実父が白河だとしても、鳥羽・崇徳・周囲の人物がどのように認識していたのか、また彼らがそのことを知ったのはどの時期なのか、という問題があります。このように考えるのは、美川圭『院政』にて、崇徳の実父が白河との噂が流布されたのは病弱な近衛の後継が本格的に問題になった時期で、当時の政治状況からして黒幕は藤原忠通と推測され、鳥羽がこの噂を信じた状況証拠の一つとして、忠通の父忠実により崇徳の母である待賢門院の男性遍歴が日記に書き残されていたことが挙げられているからです。
https://sicambre.seesaa.net/article/200905article_13.html

 では、崇徳が実子ではないということ以外に、鳥羽が崇徳を譲位させて近衛を即位させた理由があるのかというと、月並みな推測となりますが、寵愛する得子(美福門院)との間の子である近衛を即位させたかったのかもしれません。また、古くは桓武が自身の子の世代で兄弟順に皇位を継承させる構想を持っていたと推測され、それが桓武没後に実現し、実現こそしなかったものの、鳥羽の曽祖父の後三条にも同様の構想が見られたように(この構想を後三条の長男である白河が潰そうとしたことが、院政の契機の一つとなりました)、鳥羽も自身の子の世代にて兄弟間で皇位を継承させることにより、生物学的事象に左右される不安定な皇位継承のなか、少しでも自身の系統を長く皇統として残そうという意図で、自身の血を継承する複数の皇統を用意しておこう、と考えたのかもしれません。もっとも、これは複数の概説書を参考にした私の素人考えで、的外れな憶測かもしれません。

 さらに考えられる理由は、幼帝として即位した天皇が成長し、自身の意思を明確に表わせるようになり、上皇・法皇と対立することが増えた、という可能性です。摂関政治以降天皇は実権を喪失し、摂政・関白・上皇・武家政権が実権を掌握する政治体制が続いた、というのがほとんどの日本人に共通する歴史認識でしょうが、そこからさらに、そもそも権力をふるった天皇はほとんどおらず、天皇は本質的には象徴的存在であり、第二次世界大戦後の天皇の在り様はむしろ伝統に合致しており、大日本帝国下の天皇の在り様こそ日本史では異端的だったのだ、との理解も見られます。これは戦後の象徴としての天皇の在り様を補強する言説とも考えられますが、むしろ、戦後の天皇の在り様を過去に投影したところが多分にあるように思います。

 しかし、院政期以降で考えてみても、父である上皇が健在な時点で、堀河・二条のように、完全とは言えないかもしりないにしても政治の主導権を握っていたと考えられる天皇がおり(二条の場合、父の後白河が中継ぎで権威に欠けていたという事情がありますが)、摂関政治以降天皇は実権を喪失したという歴史観には疑問が残ります。堀河の場合、成長していくと、関白の藤原師通とともに父の白河を抑えて(という表現・評価には問題があるかもしれませんが)政治的主導権を握っていったように思われます。師通と堀河が若くして亡くなることがなければ、現代日本人が想像するような専制的な白河院政はなかった可能性が高いのではないか、と私考えています。それは、院政という政治体制の成立には偶然性が多分にあったのではないか、ということでもあります。なお、師通が若くして亡くなったことは、摂関家(とこの時点で表現してよいのか疑問が残りますが)の衰退という観点では重要な契機の一つとなったように思います(もう一つは後三条の即位で、決定打となったのは保元の乱)。

 天皇にはさまざまな制約があり、摂関政治の確立とともに、幼帝や能力・精神状態に問題のある天皇でも国家が崩壊しないような安定的な政治体制が確立したとはいえ、やはり日本国の君主たる天皇の地位は重く、意欲・能力のある元服後の天皇であれば、かなりのていど実権を掌握できる可能性は低くないのではないか、と思います。鳥羽が崇徳を譲位させた一因として、崇徳が政治的に自立してきて、鳥羽の意向と対立する機会が増えてきたという事情を想定することもできるのではないか、と私は考えています。もっとも、これは素人考えなので、的外れである可能性もじゅうぶんありますが。

 なお、中世~近世後期にかけて天皇号が公的には用いられなかったことや、日本国の君主の称号の表記がほぼ天皇に一元化されたのが近代以降だということや(古代においては、公的には皇帝・天子という表記も場によって使い分けることが規定されていました)、その近代においてさえ、必ずしも表記が天皇に一元化されていなかったことなど、天皇号をめぐる問題で触れておかねばならないことは多々あると思うのですが、こうした問題については、余裕があれば後日述べることにします。

この記事へのコメント

えびすこ
2012年01月12日 08:38
白河法皇は院政期間が最長ですよね。曾孫の後白河法皇も長かったんですが、平安時代の天皇は全体的に幼少で即位する事が多いのも影響しましたね。20歳を過ぎてから即位した天皇は、平安時代後半(西暦1000年以降)では少ないですね。
院政においては現職の天皇が有能であると、元天皇である上皇・法皇が思うとおりに政務ができないので、院政が朝廷内の「老害」になったと思います。もはや健全たる「藤原体制」ではないので関白でも異論が言えないのかも。道長・頼通親子の時代とは違うので。
今年の大河ドラマは主人公含めて、出自に関しては「異説」を採用してますね。
これはあまりない事ですね。この時点で史実ではないとわかりますが。
天皇家の「親族対立」で見ると飛鳥時代の方がすさまじいですね。
2012年01月12日 21:07
清盛と崇徳の実父が白河との説について、おそらく多くの研究者は真偽を断定することは難しいと考えているでしょうし、崇徳についてはむしろ白川実父説のほうが有力なように思われますから、史実ではないとは断言はできないでしょう。
みら
2012年01月12日 23:07
こんばんわ

なるほど・・
同時代の史料としては残っていない訳ですか。
医学的検知ってどんな方法なんでしょ、興味がありますね。

男性遍歴の日記かあ・・何でも記録しておくものですね(笑)書き残した本人の思惑以上に悪用される場合もあるけど。


以前劉さんが書評していた時代考証の高橋さんの岩波新書も読んでみようかなと探してます。
この『院政』も、面白そうですね。(私が読むにはもう少し基本的知識が必要そうです)天皇の系図って難しいですよね、というか血縁として正しくないのよね。(裏血縁系図見たいのがあれば面白いのに)しかもが近いせいか長生きしませんね。
2012年01月12日 23:23
『院政』は平安後期以降の政治史に関心のある人にはお勧めの一冊だと思います。
みら
2012年01月13日 00:32
そうですか、おススめの一冊でしたら先ずは図書館で予約して読んでみます。

最近相撲みてないんですか?
みら
2012年01月13日 23:26
最近、熱中している事は何ですか?
また、今回の大河ドラマ配役の中で一番好きな女優さんは誰ですか?
2012年01月13日 23:50
熱中と言えるほどのものはないかもしれませんが、生命の維持に直接関わること以外でもっとも関心が高いのは、人類の進化、とくにネアンデルタール人と現生人類との関係です。

『平清盛』でもっとも好きな女優は安定感のある和久井映見氏で、登場はまだ後のことですが、演技の面で成長が見られれば、成海璃子氏になるかもしれません。
みら
2012年01月14日 00:38
ネアンデルタール人と現世人の比較のは研究成果を調べる事が趣味なんですね。

ふーん、あの賢夫人がお好きなんですか。若い頃の和久井映見はピュアな可愛さが勝っていましたが、頑固そうな部分がどうも人間的成長を妨げているように思えて「惜しい」と思う時があります。
成海璃子は『さくや…』の女優さんですね。

大器晩成かはたまたダイコン系か?
天然ぽい可愛らしさがありますね。

今回、役柄として松雪泰子さんに注目してゆきたいと思います。
ところで、清盛は神戸にはなにを功績としたのか、
兵庫と神戸のちょっとかわった名所とか、ご存じですか?
2012年01月14日 20:04
大輪田泊の大修築と福原京への「遷都」でしょう。

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