羽田正『新しい世界史へ―地球市民のための構想』(岩波書店)
岩波新書(赤版)の一冊として、2011年11月に刊行されました。著者の以前の著書『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』(講談社、2007年)
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_15.html
がたいへん面白かったので、期待して読み始めたのですが、『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』とは異なり、具体的な史実の描写はほとんどなく、抽象的・理念的な内容ではあったものの、期待通りに面白く読み進められました。
本書にて著者は、地球規模での解決が必要な問題が山積している現代社会において、人類の一体性・地球市民としての意識を醸成するための新たな世界史が要求されている、という認識に基づき、これまでの世界史の枠組みの問題点を批判し、未熟な構想の段階と断りつつ、新たな世界史がどうあるべきか、披露しています。著者は、現代日本社会における世界史(ここではおもに、高校世界史教育・教科書が想定されています)の問題点として、
(1)日本人の世界史である。
(2)自と他の区別や違いを強調する。
(3)ヨーロッパ中心史観から自由ではない。
という三点を挙げています。
これは日本社会における世界史の問題点ですが、こうした問題点は、それぞれの国で様相に違いがあるとはいえ、他国の歴史教育でも見られることで、日本だけのことではない、と著者は指摘しています。また著者は、ヨーロッパのみならず、中国・イスラームなど、他の地域・概念を中心とした史観をも批判し、中心史観からの脱却と、そもそもヨーロッパ・中国・イスラームという枠組み自体、古くからずっと存在する固定的なものではなく、恣意的なところが多分にあることを指摘しています。こうした問題点の列挙は、『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』を読んでいたこともあって、とくに驚きも違和感もありませんでした。
私も含めて、著者の提言にかなりのところで賛同する人は少なくないでしょうが、一方で、著者も認めているように、新しい世界史の提示がきわめて困難で、まだその試みがやっと始まろうとしている段階にある、ということも否定できません。また、ヨーロッパ中心史観をはじめとして中心史観から脱却し、近代以降の国民国家的歴史像を超えようとする試みは、しょせんは「先進国」だからこそ主張できる「配慮」に欠けたものではないか、との批判もあるかもしれません。また、これと関連して、ナショナリズムとの距離をとろうとする著者の姿勢は、帝国主義の時代の宗主国側の責任を相対化しようとするもので、やはり「先進国」の論理ではないか、との批判もあるでしょう。
おそらく、「正しいナショナリズム」と「間違った(悪い)ナショナリズム」とを区別し、明治時代以降の(あるいは、時としてそれ以前からの)日本を糾弾する人が多いであろう、日本の「進歩的で良心的な」一派は、著者の提示する新しい世界史構想を、厳しく批判することでしょう。ただ、そうした「進歩的で良心的な」人々も、「日本」という枠組みの相対化をも提示する著者の主張には、おそらく賛同するのでしょうが。著者自身も認めるように、新しい世界史の構想はまだ始まったばかりで、こうした問題点も含めて、多くの人が見解を提示し、議論していけばよいのではないか、と思います。
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がたいへん面白かったので、期待して読み始めたのですが、『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』とは異なり、具体的な史実の描写はほとんどなく、抽象的・理念的な内容ではあったものの、期待通りに面白く読み進められました。
本書にて著者は、地球規模での解決が必要な問題が山積している現代社会において、人類の一体性・地球市民としての意識を醸成するための新たな世界史が要求されている、という認識に基づき、これまでの世界史の枠組みの問題点を批判し、未熟な構想の段階と断りつつ、新たな世界史がどうあるべきか、披露しています。著者は、現代日本社会における世界史(ここではおもに、高校世界史教育・教科書が想定されています)の問題点として、
(1)日本人の世界史である。
(2)自と他の区別や違いを強調する。
(3)ヨーロッパ中心史観から自由ではない。
という三点を挙げています。
これは日本社会における世界史の問題点ですが、こうした問題点は、それぞれの国で様相に違いがあるとはいえ、他国の歴史教育でも見られることで、日本だけのことではない、と著者は指摘しています。また著者は、ヨーロッパのみならず、中国・イスラームなど、他の地域・概念を中心とした史観をも批判し、中心史観からの脱却と、そもそもヨーロッパ・中国・イスラームという枠組み自体、古くからずっと存在する固定的なものではなく、恣意的なところが多分にあることを指摘しています。こうした問題点の列挙は、『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』を読んでいたこともあって、とくに驚きも違和感もありませんでした。
私も含めて、著者の提言にかなりのところで賛同する人は少なくないでしょうが、一方で、著者も認めているように、新しい世界史の提示がきわめて困難で、まだその試みがやっと始まろうとしている段階にある、ということも否定できません。また、ヨーロッパ中心史観をはじめとして中心史観から脱却し、近代以降の国民国家的歴史像を超えようとする試みは、しょせんは「先進国」だからこそ主張できる「配慮」に欠けたものではないか、との批判もあるかもしれません。また、これと関連して、ナショナリズムとの距離をとろうとする著者の姿勢は、帝国主義の時代の宗主国側の責任を相対化しようとするもので、やはり「先進国」の論理ではないか、との批判もあるでしょう。
おそらく、「正しいナショナリズム」と「間違った(悪い)ナショナリズム」とを区別し、明治時代以降の(あるいは、時としてそれ以前からの)日本を糾弾する人が多いであろう、日本の「進歩的で良心的な」一派は、著者の提示する新しい世界史構想を、厳しく批判することでしょう。ただ、そうした「進歩的で良心的な」人々も、「日本」という枠組みの相対化をも提示する著者の主張には、おそらく賛同するのでしょうが。著者自身も認めるように、新しい世界史の構想はまだ始まったばかりで、こうした問題点も含めて、多くの人が見解を提示し、議論していけばよいのではないか、と思います。
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