小林よしのり、有本香『はじめての支那論』
幻冬舎現代新書の一冊として、幻冬舎より2011年7月に刊行されました。書店で見かけて、どんなものなのだろうかと、怖いもの見たさで購入して読みました。本書で云うところの支那がどう定義されるのか、明確に述べられているわけではないのですが、おおむね、漢人の居住地域で漢字文化の圧倒的に優勢な地域と考えてよさそうです。「支那論」と題しているので、支那という呼称をめぐる議論についてそれなりに説明・議論があるのかな、と予想していたのですが、意外にあっさりとしていました。
本書における個々の事象についての見解にも、色々と疑問はあるのですが、全体的に、日本人・中国人(支那人・漢人)という枠組みを固定的・画一的に把握する傾向があることが、まず気になります。次に、本書を読んでの大きな疑問は、エゴイストであることをまったく隠そうともしない小林氏が、そのエゴイズムを大前提としながら、「公」なるものに高い価値を認めて、日本にはそれがあるが支那にはないという認識のもと、支那にたいする日本の優位を自明のものとして、議論を進めていることです。小林氏のエゴイズムとは、中華人民共和国の国民が全員豊かな生活を送るようになったら日本は困るのであり、日本は先に豊かになった国であることを最大限に活かして、反グローバリズムの立場でやって行けば、やがてグローバリズムの害悪に気付いた他の諸国の道標になる、というものです。
小林氏の主張には的確なところがあり、確かに、中華人民共和国の国民全員が日本や米国の平均的国民のような豊かな生活をすることは、地球の資源が有限であることから考えて、おそらく無理でしょう。もっとも、技術革新によりそれは可能だ、との反論はあるでしょうが。しょせん、全員が勝ち組になったり豊かな生活を送れたりするような社会など無理であり、これまでの先進国の豊かな生活も、全国民が豊かになれたわけではなく、国内の貧困層や海外の後進国の(先進国よりも割合が高く、生活水準の低い)貧困層からの収奪で成り立ってきたところが多分にあるでしょう。
そうした格差・収奪を前提とした豊かさを既得権として、他者の参入を阻んでそれを固守しようとするようなエゴイズムと、支那にはないような誇るべき日本の「公」なるものとがどう結びつくのか、疑問に思います。小林氏も有本氏も中国や米国を日本よりも利己主義的と評価し、中国については、市民も国民もおらず、その利己主義が世界で反感を買っている、と批判的に述べています。グローバリズムへの対応について、小林氏と有本氏の見解は異なるので、おもに小林氏への疑問となるのですが、結局のところ、小林氏の提言通りに日本が進むとしても、それは現状とは別の形態の利己主義が現出したというだけのことであり、日本が世界の道標になって、今よりも多くの人が幸せになれるとは、とても思えません。
本書で重要な概念となる中華思想についても、それで現在の中華人民共和国の膨張・覇権主義志向を説明するのは、酒の席での与太話にしかならないのではないか、と疑問に思います。もちろん、現在の中華人民共和国は、さまざまな歴史的経緯を踏まえて近代化してきたわけで、現代の中華人民共和国の国籍を有する人々の意識に、中華思想が何らかの影響を与えているかもしれない、という議論は成り立つでしょうが、現在の中華人民共和国の膨張・侵略を伴う覇権主義志向は、基本的には遅れてきた帝国主義によるものだ、と解釈するのがよいように思います。70~80年遅れではありますが、現代の中華人民共和国は、かつての日本やドイツと似た立場にある、ということなのだと思います。また、比喩だとしても、文化・思想について、DNAを継承しているとか、DNAの中に脈々と流れているとか表現するのは、さすがにそろそろ止めるべきではないか、と思います。
他の個々の事象についての見解にたいする疑問は、気が向けば後で詳しく述べることも考えていますが、少しだけ述べておくと、支那の歴史には連続性がなく、それは百姓でも同じだとして、現在の四川省の住人は、明末~清初に移住してきた人々の子孫で、それ以前の四川省の住人は、その頃に皆殺しにされた(おそらく、張献忠による殺戮を指しているのでしょう)、との見解(他者の見解の引用ではありますが、肯定的に引用されています)に疑問が残ります。本書では、日本ではよく指摘される、中国は白髪三千丈という誇張表現の国だからという理由で、中華人民共和国の主張する大日本帝国の残虐行為への疑問が示唆されているのですが、一方で、「支那の文献記録に見える」張献忠の殺戮行為については、あっさりと肯定されています。どうも本書には、俗流文化論的な議論も含めて、こうしたご都合主義が垣間見えます。
グローバリズムをめぐる議論など、興味深いところもありますが、本書は全体的に、それほど認識を改めさせられるような見解が提示されているわけではなく、中華人民共和国の中間層や支配層には、とくに脅威とは受け止められない可能性が高そうです。おそらく、本書を中華人民共和国で翻訳・出版しようとしたら、許可される可能性が高いのではないか、と思います。それは、中華人民共和国の中間層や支配層にとって、本書は現代日本人の後ろ向きな発想を示しているものであり、近年になって彼らの間でますます強くなっているであろう、日本に対する優越感を再確認できるだろうから、というのが本書を読んでの私の見解です。
本書における個々の事象についての見解にも、色々と疑問はあるのですが、全体的に、日本人・中国人(支那人・漢人)という枠組みを固定的・画一的に把握する傾向があることが、まず気になります。次に、本書を読んでの大きな疑問は、エゴイストであることをまったく隠そうともしない小林氏が、そのエゴイズムを大前提としながら、「公」なるものに高い価値を認めて、日本にはそれがあるが支那にはないという認識のもと、支那にたいする日本の優位を自明のものとして、議論を進めていることです。小林氏のエゴイズムとは、中華人民共和国の国民が全員豊かな生活を送るようになったら日本は困るのであり、日本は先に豊かになった国であることを最大限に活かして、反グローバリズムの立場でやって行けば、やがてグローバリズムの害悪に気付いた他の諸国の道標になる、というものです。
小林氏の主張には的確なところがあり、確かに、中華人民共和国の国民全員が日本や米国の平均的国民のような豊かな生活をすることは、地球の資源が有限であることから考えて、おそらく無理でしょう。もっとも、技術革新によりそれは可能だ、との反論はあるでしょうが。しょせん、全員が勝ち組になったり豊かな生活を送れたりするような社会など無理であり、これまでの先進国の豊かな生活も、全国民が豊かになれたわけではなく、国内の貧困層や海外の後進国の(先進国よりも割合が高く、生活水準の低い)貧困層からの収奪で成り立ってきたところが多分にあるでしょう。
そうした格差・収奪を前提とした豊かさを既得権として、他者の参入を阻んでそれを固守しようとするようなエゴイズムと、支那にはないような誇るべき日本の「公」なるものとがどう結びつくのか、疑問に思います。小林氏も有本氏も中国や米国を日本よりも利己主義的と評価し、中国については、市民も国民もおらず、その利己主義が世界で反感を買っている、と批判的に述べています。グローバリズムへの対応について、小林氏と有本氏の見解は異なるので、おもに小林氏への疑問となるのですが、結局のところ、小林氏の提言通りに日本が進むとしても、それは現状とは別の形態の利己主義が現出したというだけのことであり、日本が世界の道標になって、今よりも多くの人が幸せになれるとは、とても思えません。
本書で重要な概念となる中華思想についても、それで現在の中華人民共和国の膨張・覇権主義志向を説明するのは、酒の席での与太話にしかならないのではないか、と疑問に思います。もちろん、現在の中華人民共和国は、さまざまな歴史的経緯を踏まえて近代化してきたわけで、現代の中華人民共和国の国籍を有する人々の意識に、中華思想が何らかの影響を与えているかもしれない、という議論は成り立つでしょうが、現在の中華人民共和国の膨張・侵略を伴う覇権主義志向は、基本的には遅れてきた帝国主義によるものだ、と解釈するのがよいように思います。70~80年遅れではありますが、現代の中華人民共和国は、かつての日本やドイツと似た立場にある、ということなのだと思います。また、比喩だとしても、文化・思想について、DNAを継承しているとか、DNAの中に脈々と流れているとか表現するのは、さすがにそろそろ止めるべきではないか、と思います。
他の個々の事象についての見解にたいする疑問は、気が向けば後で詳しく述べることも考えていますが、少しだけ述べておくと、支那の歴史には連続性がなく、それは百姓でも同じだとして、現在の四川省の住人は、明末~清初に移住してきた人々の子孫で、それ以前の四川省の住人は、その頃に皆殺しにされた(おそらく、張献忠による殺戮を指しているのでしょう)、との見解(他者の見解の引用ではありますが、肯定的に引用されています)に疑問が残ります。本書では、日本ではよく指摘される、中国は白髪三千丈という誇張表現の国だからという理由で、中華人民共和国の主張する大日本帝国の残虐行為への疑問が示唆されているのですが、一方で、「支那の文献記録に見える」張献忠の殺戮行為については、あっさりと肯定されています。どうも本書には、俗流文化論的な議論も含めて、こうしたご都合主義が垣間見えます。
グローバリズムをめぐる議論など、興味深いところもありますが、本書は全体的に、それほど認識を改めさせられるような見解が提示されているわけではなく、中華人民共和国の中間層や支配層には、とくに脅威とは受け止められない可能性が高そうです。おそらく、本書を中華人民共和国で翻訳・出版しようとしたら、許可される可能性が高いのではないか、と思います。それは、中華人民共和国の中間層や支配層にとって、本書は現代日本人の後ろ向きな発想を示しているものであり、近年になって彼らの間でますます強くなっているであろう、日本に対する優越感を再確認できるだろうから、というのが本書を読んでの私の見解です。
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