杉山正明氏の明・朱元璋にたいする評価
一般向け書籍での過激な?叙述で知られる杉山正明氏ですが、大元ウルスから「中華の地」を奪った(奪還した?)という事情のためなのか、明王朝とその創始者の朱元璋にたいしては、荒唐無稽とは言えないにしても、研究者とは思えないような表現の厳しい評価がくだされています。ただ、伝統的に中華(漢人と言うべきかもしれませんが)正統史観の強い日本では、「中華王朝」への厳しいというか突き放した見方にも一定以上の意義があるとは思いますし、今後、中華人民共和国の経済・軍事・政治力がますます強大化するようなことがあれば、日本では中華正統史観がますます強まる恐れもありますので、そうした史観を相対化するという意味でも、杉山氏の「中華世界」への突き放した評価は、注目すべきではないか、と思います。以下、杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)P246~252の部分引用です。一部漢数字は算用数字に改めました。
トゴン・テムルと朱元璋
トゴン・テムルののこる15年の治世は、天災と内紛、そのはての大都と中華本土の喪失、そして内モンゴリアにおける死去という三段がまえになっている。かれが、大都を捨てて北に退却するときの悲しみを歌ったとされる「順帝悲歌」は、悔恨と自責の念でいろどられ、中華本土を失ったのち、純粋に草原の民となったモンゴルの人々によって語りつがれた。
しかし、トゴン・テムルは、単純な悲劇の皇帝ではない。また、明の史書が口汚くののしるような自堕落で淫乱なだけの駄目人間だったわけでもない。
(中略)
かたや、朱元璋は、まったく幸運であった。一介のこそどろから、白蓮教の武装狂信集団に身を投じることで成り上がりのきっかけをえたとはいえ、トクト南伐軍が突然に消えうせるという珍事がなければ、歴史に名をのこすこともなく、消えていったことだろう。
そのごもかれが、江南で辛くも、ささやかな勢力を保っている間、大元ウルスは内部闘争で明け暮れていた。注目にも値しない貧弱な勢力だったからこそ安全だった。そして、この安全に生きのびたことこそが、かれに最大の幸運を呼ぶことになった。
とはいえ、不安で仕方のない朱元璋は、山西に根拠するココ・テムルに、友好を求める書簡を送っていた。朱元璋自身が、生き残りに必死で(それもモンゴルの枠組みのなかで)、とても中華のあるじとなることなど、おもってもいなかったのである。
悪の権化
農民から身をおこして支配者となったという類似からだろうか、これまでしばしば、朱元璋と豊臣秀吉を見くらべて論じられている。しかし、事実は、ぜんぜんちがう。おなじようにおもうのは、おもいこみである。
現実の朱元璋は、悪のかたまりといってもいい根暗な人物であった。のしあがる過程でも、いくらでも人を裏切り、平気で旧主や朋友を殺した。政権を樹立したのちは、苦労時代の功臣ごと、なんと五度にもわたって、政府官吏を家族ぐるみで、しかもそのつど万単位で虐殺した。みずからの手足ともなる政府関係者を、これほど徹底して殺しつくそうとする精神構造は、異常というほかない。世界史上、朱元璋のような例は、さすがに見当たらない。
かれは、知識人を憎悪していたのだろう。自分の治下から、本気で文化や知識をになう人間を一掃しようとしたのでは、とさえおもえるほどである。すべての人間は、自分に唯々諾々と従う羊のような存在であればいいと考えたのではないか。
それは、白蓮教のメシア思想が、かれのなかで、まだ生きていて、自分をこそ衆生を救うために下生した弥勒なのだと、おもっていたためかもしれない。そのためには、救われる衆生は、かそけくはかなき存在でなければならず、救うべき自分は、絶対唯一の権能者でなければならなかったのか。ともかく、「大明」という国号からして、白蓮教の匂いは強い。そして、おそらくもはや、かれには、人間らしい心はなかったのだろう。
その結果、明代のはじめ100年あまりは、まったく文化不毛となった。社会の暗黒さと、文化や著述の限りない乏しさは、中国史上で突出している。モンゴル治下における中国社会・経済・文化の繁栄・活発ぶりとは、両極端である。むしろ、中国文化の良さの多くは、明代のはじめ100年いじょうの空白で、いったん断絶したといってもいい。野蛮なモンゴルを追いはらって、中華文明が蘇ったなどというのは、誤解もはなはだしい。
朱元璋が、中華の主人となったのは、ひとえに幸運であっただけである。かれの「天下」は、モンゴルが勝手にこけてくれたおかげにすぎないことは、明代末期の学者たちでさえ、率直に明言している(ちなみに、明もそのころになると、今度は政権・社会のすべてにわたって、ありとあらゆるたががはずれ、放縦・出鱈目・淫乱、なんでもありのおもしろい時代となっており、学者も自由にものがいえた)。幸運だけで「殺人鬼」が天下人となるというのは、おそろしいことだが、それは客観の事実である。
(中略)
「元の滅亡」という不思議さ
1368年、天災と内紛でボロボロとなった大都政府にむかって、朱元璋は兵を出した。この年に、明と称したかれの政権にとって、はじめてのモンゴルへの敵対であった。ところが、疲弊しきった華北の諸城は、戦わずに開城しつづけ、ほとんどなにごともないままに、明軍は大都に迫った。ようするに、ただ行進したのである。かたや、トゴン・テムル政府の救援要請に、誰も応じなかった。モンゴル諸王・諸将は、ただ傍観した。トゴン・テムルは、やむなく近衛軍をひきいて北へすこし移動した。騒動がおさまれば、すぐにもどってくるつもりであった。
従来の中国史は、これをもって「元の滅亡」という。不思議なことである。中華主義の王朝断代史の産物であることは、いうまでもない。
トゴン・テムルと朱元璋
トゴン・テムルののこる15年の治世は、天災と内紛、そのはての大都と中華本土の喪失、そして内モンゴリアにおける死去という三段がまえになっている。かれが、大都を捨てて北に退却するときの悲しみを歌ったとされる「順帝悲歌」は、悔恨と自責の念でいろどられ、中華本土を失ったのち、純粋に草原の民となったモンゴルの人々によって語りつがれた。
しかし、トゴン・テムルは、単純な悲劇の皇帝ではない。また、明の史書が口汚くののしるような自堕落で淫乱なだけの駄目人間だったわけでもない。
(中略)
かたや、朱元璋は、まったく幸運であった。一介のこそどろから、白蓮教の武装狂信集団に身を投じることで成り上がりのきっかけをえたとはいえ、トクト南伐軍が突然に消えうせるという珍事がなければ、歴史に名をのこすこともなく、消えていったことだろう。
そのごもかれが、江南で辛くも、ささやかな勢力を保っている間、大元ウルスは内部闘争で明け暮れていた。注目にも値しない貧弱な勢力だったからこそ安全だった。そして、この安全に生きのびたことこそが、かれに最大の幸運を呼ぶことになった。
とはいえ、不安で仕方のない朱元璋は、山西に根拠するココ・テムルに、友好を求める書簡を送っていた。朱元璋自身が、生き残りに必死で(それもモンゴルの枠組みのなかで)、とても中華のあるじとなることなど、おもってもいなかったのである。
悪の権化
農民から身をおこして支配者となったという類似からだろうか、これまでしばしば、朱元璋と豊臣秀吉を見くらべて論じられている。しかし、事実は、ぜんぜんちがう。おなじようにおもうのは、おもいこみである。
現実の朱元璋は、悪のかたまりといってもいい根暗な人物であった。のしあがる過程でも、いくらでも人を裏切り、平気で旧主や朋友を殺した。政権を樹立したのちは、苦労時代の功臣ごと、なんと五度にもわたって、政府官吏を家族ぐるみで、しかもそのつど万単位で虐殺した。みずからの手足ともなる政府関係者を、これほど徹底して殺しつくそうとする精神構造は、異常というほかない。世界史上、朱元璋のような例は、さすがに見当たらない。
かれは、知識人を憎悪していたのだろう。自分の治下から、本気で文化や知識をになう人間を一掃しようとしたのでは、とさえおもえるほどである。すべての人間は、自分に唯々諾々と従う羊のような存在であればいいと考えたのではないか。
それは、白蓮教のメシア思想が、かれのなかで、まだ生きていて、自分をこそ衆生を救うために下生した弥勒なのだと、おもっていたためかもしれない。そのためには、救われる衆生は、かそけくはかなき存在でなければならず、救うべき自分は、絶対唯一の権能者でなければならなかったのか。ともかく、「大明」という国号からして、白蓮教の匂いは強い。そして、おそらくもはや、かれには、人間らしい心はなかったのだろう。
その結果、明代のはじめ100年あまりは、まったく文化不毛となった。社会の暗黒さと、文化や著述の限りない乏しさは、中国史上で突出している。モンゴル治下における中国社会・経済・文化の繁栄・活発ぶりとは、両極端である。むしろ、中国文化の良さの多くは、明代のはじめ100年いじょうの空白で、いったん断絶したといってもいい。野蛮なモンゴルを追いはらって、中華文明が蘇ったなどというのは、誤解もはなはだしい。
朱元璋が、中華の主人となったのは、ひとえに幸運であっただけである。かれの「天下」は、モンゴルが勝手にこけてくれたおかげにすぎないことは、明代末期の学者たちでさえ、率直に明言している(ちなみに、明もそのころになると、今度は政権・社会のすべてにわたって、ありとあらゆるたががはずれ、放縦・出鱈目・淫乱、なんでもありのおもしろい時代となっており、学者も自由にものがいえた)。幸運だけで「殺人鬼」が天下人となるというのは、おそろしいことだが、それは客観の事実である。
(中略)
「元の滅亡」という不思議さ
1368年、天災と内紛でボロボロとなった大都政府にむかって、朱元璋は兵を出した。この年に、明と称したかれの政権にとって、はじめてのモンゴルへの敵対であった。ところが、疲弊しきった華北の諸城は、戦わずに開城しつづけ、ほとんどなにごともないままに、明軍は大都に迫った。ようするに、ただ行進したのである。かたや、トゴン・テムル政府の救援要請に、誰も応じなかった。モンゴル諸王・諸将は、ただ傍観した。トゴン・テムルは、やむなく近衛軍をひきいて北へすこし移動した。騒動がおさまれば、すぐにもどってくるつもりであった。
従来の中国史は、これをもって「元の滅亡」という。不思議なことである。中華主義の王朝断代史の産物であることは、いうまでもない。
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