榎本渉『選書日本中世史4 僧侶と海商たちの東シナ海』

 講談社選書メチエの選書日本中世史第4巻として、2010年10月に刊行されました。9~14世紀における東シナ海の様相が、僧侶の往来を中心に叙述されていますが、僧侶の具体的事例の紹介が多く、なかなか興味深い一冊です。著者自身が述べているように、一般的な日本史の枠組みから外れたところが多分にあるとも言えるのですが、基本的には日本中心の視点になっており、日本中世史のという表題が羊頭狗肉というわけではない、と思います。現代日本の社会状況から考えて、今後、本書のような近代以降の国境という枠組みにとらわれない一般向け書籍の刊行は増えていくのではないか、と予想しています。

 本書では、前近代の東シナ海の画期は、9世紀の海商の出現と、13世紀後半の明の建国とその海禁政策にあった、とされます。また、日本の僧侶の往来形態により注目した場合は、12世紀後半も画期になる、とされます。本書では、東シナ海における海商の出現の要因について、詳しい説明はなされていないのですが、江南の経済発展という状況変化が大きいのではないか、と思います。8世紀以前の東シナ海では、日本からの視点では、人の往来は、遣唐使という約20年に一度の例外的出来事に頼るしかない困難なものだったのですが、9世紀の海商の出現により、東シナ海の人の往来は容易になり、じっさい、一時は僧侶の往来がかなり盛んになりました。

 ところが、海商の活動が盛んになったにも関わらず、日本と中華地域との僧侶の往来は停滞していきます。この理由として、当時は日本の朝廷による対外関係の管理が機能していたからだ、と本書では指摘されています。朝廷による対外関係の管理が弛緩するのが、院政期~鎌倉時代にかけてで、12世紀後半を画期とするのは、日本史からの視点が強い時代区分と言えます。本書では、対外関係という視点からは、日本の中世は12世紀後半に始まる、とされています。12世紀後半以降は、前代までと比較して、日本の朝廷による公的援助がなくなったものの、朝廷の統制が弛緩したため、僧侶の往来がひじょうに活発になります。これには、環東シナ海の経済発展という状況もあるのではないか、と思います。

 こうした活発な人の往来は、いわゆる元寇の前後に大元ウルスや日本の鎌倉幕府により一時的に制限されてしまうこともありましたが、大元ウルス支配下の中華地域、とくに江南が安定を保っている間は続きました。しかし、時の政治権力が交易を制限したことは、この後の時代に大きな影響を及ぼすことになり、明の海禁政策も、この延長線上にあるのではないか、とも思います。13世紀の第2四半期以降、大元ウルスの江南支配は揺らいでいき、江南の治安が悪化していくのにともない、日本と中華地域との人の往来も減少していきます。

 こうした状況のもと、大元ウルスに代わって中華地域を支配することになった明の建国者である朱元璋は、海上勢力と敵対勢力との一体化を恐れるようになり、政治権力による統制という海禁政策への志向を強めていきます。日本からの使者・僧侶は、当初こそ情報収集の目的もあって、明から優遇されましたが、大元ウルスにたいしてもそうであったように、日本の対外姿勢には強硬なところがあり、倭寇対策も不充分だったため、朱元璋は政治弾圧とも絡めて日本との関係を絶つことにします。

 日明関係が復活するのは、日本では足利義満が最高権力者だった時のことですが、かつての遣唐使の時のように制限された直接的交流のため、日本と中華地域との仏教交流は前代と比較して皮相的なものとなってしまいます。江戸時代に来日した隠元隆琦の教団が、法流で言えば臨済宗に属するのに、近代になって黄檗宗という独自の宗派に分類されたのは、明代以降の日本と中華地域との仏教交流が皮相的なものであり、この間に日本の禅宗が独自色を強めていったためだ、と本書では指摘されています。

 明の海禁政策のもと、交易の核として繁栄したのが琉球であり、それは必ずしも琉球内部の経済発展を前提としたものではなかったため、明の海禁政策が弛緩した16世紀半ば以降に琉球の相対的地位は低下していきます。それはまた、明が拒絶した海上交易の需要が巨大であったことを示している、と本書では指摘されています。個々の僧侶の細かい事績から広大な地域・海域の大きな流れを復元しようとする本書の意図は壮大とも言え、今後さらに実証面で研究が進展することを期待しています。

この記事へのコメント

S/M
2012年02月07日 23:10
ちょっと難しかった猫2

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