日本で根強い大元ウルス統治下の文化にたいする低い評価

 以前、このブログにて、「たとえば、私はその方の著作を一冊も読んだことがないので具体名は挙げませんが、現代日本のある人気作家の中国大陸史に関する小説のなかには、文天祥を賛美するものがあるそうです」と述べたことがありますが、
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_53.html
そのさいに念頭に置いていたのは田中芳樹氏で、上述したように、田中氏の著書を読んだことがなく確認できなかったため、具体的に人名を挙げませんでした。その後も田中氏の著書を読んだことはないのですが、最近になって、田中氏の著書(『創竜伝』12巻)にて大元ウルス治下の文化への評価が述べられていることを知りました。
http://www.tanautsu.net/kousatsu01_36.html

 「でも宋はたしかモンゴル帝国にほろぼされたんだよな。これは単純にモンゴルの軍隊のほうが強かったからだろ?」
 「宋は三百二十年つづき、豊かな文化と芸術を後世にのこした。モンゴルは宋をほろぼしたあと九十一年で滅亡し、後世に何ものこさなかった」
 「うーん」
 「ま、元曲とよばれる戯曲はさかんになって、名作もあるが、それも侵略されたがわの旧宋人たちがつくったものだ。モンゴルは軍事力と経済力で世界を征服し、支配しようとした。その結果、中国でもエジプトでもペルシアでもポーランドでもベトナムでも日本でも、侵略者であるモンゴル軍と戦った人々の名が、ヒーローとして後世にのこることになった」


 念のために、図書館でじっさいに本を手に取り、上記の引用が間違いないことを確認しました。そもそも、小説での登場人物の台詞と著者の見解とがどれだけ一致するのか、という問題があるのですが、かなり美化されているように思われる主人公らしき四兄弟の長男と四男との会話であるということと、上記サイトの他の記事などから、この一節は田中氏の見解とかなりのところ一致するのではないか、と思います。もちろん、そうではないだろう、との批判もあるかもしれませんから、田中氏について詳しい方にご指摘をいただき、それが妥当だと私が判断すれば、謝罪して訂正します。

 上記の一節は、田中氏のみならず、一昔前までの日本における主流的見解(学界ではなく一般水準を想定しています)とおおむね一致するものではないか、と思います。こうした見解は、杉山正明氏の一連の一般向け啓蒙書により、大元ウルス治下の中華地域で出版文化が盛んになったことや、朱子学が普及したことなどが知られるようになり、日本でも見直されつつあるように思うのですが、それでも、依然として根強いように思います。この問題については、宮紀子『モンゴル時代の出版文化』
http://www.amazon.co.jp/dp/4815805261
http://f43.aaa.livedoor.jp/~choku/20060103.htm
が大いに参考になるようなのですが、私の見識では咀嚼できないかもしれません。いつか読もう、とは考えているのですが。

 また、明が華北の過半を支配下に置いた後も、明と大元ウルスとの対峙はクビライ家の断絶した1388年まで続き、明が軍事的に劣勢だったこともあるわけですから、「モンゴルは宋をほろぼしたあと九十一年で滅亡し」という解釈が的外れであることも、言うまでもありません。クビライ王朝が滅亡した後も、チンギス=カンの末裔がモンゴル高原の有力遊牧集団に推戴され続け、いわゆる土木の変など、明がそうしたモンゴル高原の勢力に大打撃を受けたことがありました。「モンゴル(元)が1368年に滅亡した」というのは、偏狭な中華至上主義の産物なのでしょう。

 上記の一節のような見解は、今後日本では捨て去られるだろう、と期待しているのですが、一方で、中華人民共和国が今後も経済・軍事・政治大国として影響力を強めていった場合、現代中国政府の体制教義的言説と必ずしも整合的とは言えない、いわば漢民族ナショナリズム・中華至上主義とでも呼ぶべき思潮が、現代中国の国民の間で盛んなようだということを考えると、上記の一節に代表されるような中華至上主義が今でも根強い日本で、そうした見解が勢いを盛り返すのではないか、との懸念を捨て切れません。なお、上記の記事を読んで興味をもったので、ついでに『創竜伝』10巻にも目を通したところ、以下のような記述を見つけました(P94~95)。

 富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。「こうやってすこしずつ日本の社会も変わっていくんでしょうかね」
 「さあ、それはどうかね」
 始は首をかしげた。
 「もともと日本でも中国でも、文化的な伝統夫婦別姓だったんだ。源頼朝の妻は北条政子だし、足利義政の妻は日野富子だった。夫婦同姓になったのは明治時代からだ」
 「近代国家になりたい、というわけで、ヨーロッパ式を持ち込んだんですね」
 「だから夫婦別姓はむしろ旧くからのアジア的伝統への回帰なのかもしれない。夫の姓を名乗るのはイヤ、父親の姓を名乗りたい、というのは進歩的と持ち上げたり、家庭制度を破壊するとさわいだりするようなものかなあ、はたして」
 「夫婦で新しい姓をつくるとか、姓そのものをなくす、というのなら画期的だと思いますけどね」
 「むろん選択の余地は多いほうがいいに決まってる。夫婦が対等に話しあって、互いに納得すればいいことさ」
 「日本では流行が正義ですからね。そのうち同姓の夫婦が、遅れているとか保守的だとかいわれて、非難や嘲笑をあびるかもしれませんよ」
 「まさか・・・・・・と思いたいなあ」


 あくまでも小説内の創作人物同士の会話ではありますが、この一節で示された歴史認識は、おそらく著者の歴史認識でもあるのでしょう。この歴史認識が間違っていることは、このブログでも何度か取り上げましたが、
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_7.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_17.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_30.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200804article_17.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200904article_24.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200909article_13.html
https://sicambre.seesaa.net/article/201003article_8.html
夫婦別姓容認論の一部で見られる、日本の伝統は夫婦別姓であり、その根拠は北条政子と日野富子である、という言説の源流の一つとして、人気作家の作品におけるこの一節があるのではないだろうか、と思います。

 田中芳樹氏の著作の愛読者ではなく、それどころか田中氏の著作をまともに読んだことのない私が、田中氏を批判的に取り上げたのは、田中氏が近代日本でも根強い華夷思想的歴史観を体現する有名人らしく(田中氏の著作をまともに読んだことのない私も、ネット上で直接田中氏を調べていたわけでもないのに、田中氏の華夷思想志向を知ったくらいです)、それが現代中国の国民の間で盛んな、いわば漢民族ナショナリズム・中華至上主義とでも呼ぶべき思潮とかなりのところ整合的であり、中華人民共和国の影響力が強まるにつれ、そうした歴史観が「真実の歴史」・「正しい歴史認識」として声高に主張されるようになるのではないか、と懸念しているからです。

 また、十代の頃の私の心性も田中氏のそれとよく似ているように思われ、そうした心性を徹底的に見つめ直し克服しなかったために、二十代半ばから三十代前半まで、東アジア世界論という問題の多い枠組みにはまってしまったのではないか、と後悔・反省しているためでもあります。この記事で取り上げた問題は、現在の私にとって優先順位が最も高いというわけではないのですが、今後もたまにこのブログで取り上げていこう、と考えています。

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