元代以降の日本による中国軽視?

 今月20日に、ある中国人ジャーナリストが、ブログサイト・新浪ブログで「元代以降の日本による中国軽視」の原因を分析した、と報道されました。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=50870

 この報道で引用されているブログの記事を見つけられなかったので、「ある中国人ジャーナリスト」が本当にこの報道で紹介されているような趣旨の記事を公開したのか、私の力不足・努力不足もあって確証は得られませんでした。しかし、レコードチャイナに掲載された記事なので、この記事で「引用」されている、興味深いというか色々と考えさせられる歴史観が、現代中国における歴史観の典型例の一つと考えるのは、さほど的外れではないだろう、と思います。そこで、この報道で「引用」されている歴史観について、雑感を述べていくことにします。

 この記事を読んだ少なからぬ人にとって、そもそも「中国」とは何を指すのか、と違和感があることでしょう。この報道を読むと、本来「中国」を体現しているのは「漢民族」であり、「モンゴル民族」や「マンジュ(ジュシェン)民族」は異民族であり外来者・征服者である、という歴史観が提示されているようです。これは、多くの現代日本人にとって馴染み深い歴史観でしょうが、漢・チベット・モンゴル・ウイグル民族などをも含む、中華民族なる概念を公式に標榜している中華人民共和国政府の体制教義的言説とは、整合的と言えないでしょう。

 現代中国政府の体制教義的言説では、たとえば金と宋との争いは「兄弟喧嘩」・「内輪揉め」ということになるのでしょうが、現代中国でも岳飛が称揚され、秦檜が嫌悪されていることから考えて、中華人民共和国の国民の多数を占める漢民族の多くも、現代日本人の多くと、「中国」をめぐる歴史観を多分に共有しているところがあるのではないか、と思います。これは、漢字文化圏において重大な問題というか価値観である、正統・華夷という概念に関わってくることではないか、と考えています。中国(の沿岸部を中心とした大都市部)や日本は、程度の差はあるにしても、近代以降、ヨーロッパ文化(アメリカ合衆国も含みます)の規範に染まってしまったところが多分にありますが、それでも、前近代の社会を前提として近代ヨーロッパ文化を受容しましたから、前近代の価値観を継承しているところもあります。

 「中国」の定義と関連して、この報道における「民族」なる概念の使用についても、疑問をもつ人は少なくないでしょう。近代以降の「創られた伝統」を指摘する「進歩的で良心的」な見解では、近代における民族の創出が強調されるのでしょうが、近代以降の民族という枠組みは、前近代の歴史に規定されるところが多分にあり、読み替えという作業が必要ではあるものの、それぞれ程度の差はあれ、前近代において何らかの実態があったのではないか、と私は考えています。

 たとえば、ヤマト(日本)民族も漢民族も、多分に分裂状況を呈しながらも、共通する政治体制下にあり、それに起因する文字文化の共通性が、近代以降に民族なる概念に読み替えることを比較的容易にしたのではないか、と私は考えています。さらに両者を比較すると、地理的な問題もありますが、曲がりなりにも日本という政治的枠組みが千年以上継続したことが、現代におけるヤマト(日本)民族の自明性が漢民族よりも強いだろうこと(これは中国在住経験のある知人の見解に依拠しているので、実証できたというわけではないのですが)の前提になっているのではないか、と思います。

 けっきょくのところ、現代の日本でも中国でも、多数の国民が通時的に使うさいの中国という用語に、古くからの漢字文化圏の政治体制下にある地域という前提があり、それは現代中国政府の体制教義的言説とは整合的ではない、ということなのでしょう。こうした歴史観は、いわゆる近代の衝撃により読み替えられているところも多分にあるのかもしれませんが、前近代の価値観に規定されているところも多分にあるのではないか、と思います。その意味で、前近代史について、日中両国民の間で歴史観の共有が進む可能性もあるとは思います。

 そのさいに問題となるのは、中華人民共和国が今後も経済・軍事・政治大国として影響力を強めていった場合、通時的な中国の範囲が、漠然と現代の中華人民共和国の領域にまで拡大して印象づけられる可能性のあることです。もともと、漢民族へと読み替えられる元になった中華という概念は多分に文化的なもので、曖昧というか包含力の強いところがあり、漢字と儒教に代表される礼制を身に着ければ中華と認められるというところがあります。

 近代の民族概念には血統的なところもあるのですが、一方で文化的なところもあり、けっきょくのところ、民族の枠組みは現実の力関係(武力・経済力だけではなく、文化・情報発信力も含みます)により決まるところが多分にあります。中国の少数民族の中華民族(実質的には漢民族ということになるでしょう)への同化(きつい表現を用いると民族浄化)は、中華人民共和国の経済・軍事・政治的発展が続けば、今後も進んでいくでしょうから、通時的な中国という概念が、1000年以上前にさかのぼってチベットやモンゴルなどに適用される状況が、日中両国で当然の光景になる日が来るのかもしれません。またそうした状況では、近代以降の日本(とダイチン=グルン末期~毛沢東政権下の政治的潮流の一部)では軽蔑されるところが多分にあった「伝統中国文化」が、再び前近代のように多数派から賞賛されるようになるかもしれません。

 ここまで、この報道で引用された記事の前提となる概念・見解について述べてきました。以下、この報道の個別の見解について雑感を述べていくことにします。かつて日本が中国を手本としていながら、中国と距離を置き、中国を見下すようになった、という大まかな見通しは、現代日本では広く浸透していると言えるでしょう。その転機については、遣唐使の廃止(この認識には問題があるのですが、ここでは通俗的な意味合いを用います)と考える人がもっとも多いでしょうが、近代初期と考える人も一定以上いるだろう、と思います。

 この報道で引用されている記事では、モンゴル帝国による華北・華南の支配が、日本の中国への憧憬が軽視・敵意に変わる転機になったと指摘されており、転機については現代日本における主流の認識と一致しないものの、大まかな見通しは現代日本の認識と共通するところが多い、と言えるでしょう。ただ、漢民族が異民族であるモンゴル民族に打ち負かされ、そのモンゴル民族を退けた日本で、「政治大国としての東洋のリーダー」であろうとする政治意識が芽生えて強化され、異民族が統治した元朝以降の中国に「本当の中国人」はいないという認識が生じたとの見解は、現代日本ではあまり見られないでしょうし、そもそも史実とはかなり異なるだろう、と思います。

 現代日本でも、魏晋南北朝以降の北方集団の南下をもって、本来の中国人(漢民族)は絶滅してしまった、との見解が「国士様」を中心として一定以上の支持を集めているでしょうが、それには岡田英弘氏の影響が大きいと思われ、第二次大戦後になってからの現象ではないか、と私は考えています。また、「政治大国としての東洋のリーダー」であろうとする政治意識と似たものを、あえて前近代の日本に探すならば、それは、華北・華南ではなく自らこそ中華である、との認識になるでしょうが、その認識が生じる契機となったのは、いわゆる明清交替(華夷変態)であり、この時期以降、日本だけではなく朝鮮においても同様の意識が強まっていきました。ただ、その前に、中国は文の国であるとして、その軟弱さを軽蔑するような認識も、日本では生じてきていました。

 しかし、自らを中華とする意識が強まった江戸時代において、「中国文化」への傾倒は頂点に達します。この状況が変わるのは、「中国文化」とは大きく異なる近代ヨーロッパ文化の本格的な受容以降のことでした。「異民族」が「漢民族」を制圧しても、日本における「中国文化」への傾倒は変わらず、大元ウルスが華北、さらには華南を制圧してからも、いわゆる文永弘安の役などの一時期をのぞいて、大元ウルスの華南の統治体制が弛緩するまで、日本列島と大元ウルスの統治下にあった華北・華南との交流は、商人・禅僧を中心として、むしろ前代までよりも盛んになりました。こうした状況は、「中国文化」への傾倒というよりは、近代以降の日本においてヨーロッパ文化が規範であるように、前近代の日本においては「中国文化」が規範だった、と表現するのが妥当かもしれません。

 大元ウルスに替わって明が華北・華南を支配するようになってから、明が冊封体制という名目の統制交易を志向したため、大元ウルスが華北・華南を支配していた頃と比較すると、日本列島と華北・華南との交流は衰えたところがありますが、日本列島の政治権力はおおむね明と敵対せず、むしろ明の提示した枠組みに参入して、華南との交易を維持し、文化を導入しようとし続けました。前近代において大元ウルス以降、華北・華南を支配した政治勢力にはっきりと敵対した日本列島の政権は、後期鎌倉幕府と豊臣政権くらいですが、それは例外的事象であり、そもそも前者は侵略を受けた側だった、という事情があります。

 その意味で、「元・明・清は大国であったにもかかわらず、日本にとって敵となった」との認識は、近代以降の歴史を前近代に投影したものであり、妥当とは言い難く、この点では現代日本における歴史認識との乖離が見られます。しかし、この報道で引用された記事の提示した見解が、大まかなところでは現代日本の見解と一致することは否定できないでしょう。その意味で、あるいは日本人編集者がかなり手を加えているのではないか、との疑問も残りますが、今回は、現代の中華人民共和国における歴史認識の一例として、取り上げてみた次第です。

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