杉山正明『ユーラシアの東西』
日本経済新聞出版社より2010年12月に刊行されました。一般向けの歴史書というよりは随筆集で、ロシアを中心として、時事問題にもかなりの分量が割かれています。内容はというと、相変わらずの杉山節で、杉山氏の他の著書を読んでいれば、とくに目新しいところはないのですが、いぜんとしてヨーロッパ中心史観と中華中心史観の根強い日本では、杉山氏の提言が必要なのだろう、とは思います。とくに、中華人民共和国が今後も経済・軍事・政治大国として影響力を強めていった場合、日本でも中国へのさらなる迎合により中華中心史観(それには、中華人民共和国政府の公式見解と整合的ではない見解も少なからず含まれることでしょう)が強化される可能性が高いので、杉山氏の提言は基本的には有意義だと思います。本書では、東アジアなる概念をさほど批判・留保もなく使用することへの疑問が呈されていますが、かつて東アジア世界論にはまったことのある私は、近年ではそのことを大いに反省しています。以下、杉山氏の東アジアなる概念についての見解を一部引用します(P34~37、一部漢数字を算用数字に改め、段落ごとに1行空けました)。
現在の日本でごく普通に使われている「東アジア」(East Asia)の語は、日英同盟の文章にあらわれ、そののち次第に普及する。逆に、それ以前の用例は、寡聞にして知らない。いいかえれば、「東アジア」という発想や括り方は、せいぜいここ百年あまりのものでしかない。
また、「東アジア」といっても、実際にどこからどこまでの地域を具体的にさしているかというと、使う人の都合によってまことにまちまちである。日本・韓国・北朝鮮・中国に限る場合もあれば、東南アジアを含むこともある。
(中略)
歴史家たちがいう「東アジア」は、日本史・東洋史・考古学・美術史・思想史などを問わず、しばしば人ごと・テーマごと・時代ごとに伸縮して定まらない。どこか「ぬえ」のようなものである。
(中略)
このところよく使われる「東アジア世界」ということばも、多分にそうではないか。事柄を歴史上のことに限るならば、日本列島・韓半島はしばらくおいて、中国を例にとると、いわゆる中華本土のほか、ではそのときどきの内陸アジア地域はどうなのか、おなじくマンチュリアは、モンゴリアは、ティベットは、そして雲南・広西・ヴェトナム・タイ北部・ミャンマー北半などなどは、一体どうであったのか。ところが、歴史上の「東アジア世界」を謳う日本の研究・著述・出版物を見ると、たいていはこうした各地域は「辺境」視されているのか、そもそもはじめから眼中にないのか、ともかくほとんど気にしていないかのごとくである。それが、学術研究としてあまりの質朴さのゆえとは、あえていわない。いずれにせよ、ようするにご都合主義か、あるいは無意識のうちの中華主義なのである。
(中略)
近年、主に日本史家による「東アジア論」が目につくが、おおむねは列島の視線から半島や大陸沿岸部との接触・交渉・つながりを主な対象とする「海の東アジア」であって、大陸の内側にほとんど入ろうとしないのは率直にいってほほえましい。
(中略)
だが、それで「東アジア世界」といわれると、首をかしげざるをえない。また、前近代における海域交流の過大視は、近現代史の逆投影になりかねない。
(中略)
歴史上、確かな事実として現在の日本・朝鮮半島・中華人民共和国の国域の総和に近いかたちで辛くも「東アジア」といえそうになってくるのは、せいぜいのところ乾隆帝時代に宿命の敵といってもいいジューンガル遊牧国家をついに滅ぼし、「ダイチン・グルン」が西方と南方に大きく領域拡大して、新疆・ティベット・緬滇方面などをゆるやかな間接統治下に入れてからではないか。すなわち、早くても1760年代以後のこと、大局的にはロシアの海と陸での南下が目に着き始める18世紀末ころから徐々にそうなりゆくのだろう。
(中略)
ようするに、「東アジア」の語はもともと輪郭のボンヤリしたイメージ語でしかなかった。それは日英同盟の条文で使われたときから、基本的にはずっと変わりない。所詮は、近代における欧米目線の造語にすぎない。したがって、たとえば「東アジアの漢字文化」とか「東アジアの考古世界」とかいっても、一見わかったような気分になるが、実はよくよく考えるとどこか奇妙である。ありていにいえば、東アジアというフワフワしたパッケージか看板をあらかじめ用意し、実は都合のいいものだけをそこに押し込んで、それで何かを論じようとすること自体が、かなりおかしい。
(中略)
まして、近々の政治家がいう「東アジア」や「東アジア共同体」など、ほとんどまやかしかもしくは耳にここちよい空疎なキャッチフレーズにすぎない。なお、あえて附言すれば、よくもわるくも中国人はもともと「アジア」や「東アジア」といった語は好まない。「アジア」が好きなのは、日本である。
現在の日本でごく普通に使われている「東アジア」(East Asia)の語は、日英同盟の文章にあらわれ、そののち次第に普及する。逆に、それ以前の用例は、寡聞にして知らない。いいかえれば、「東アジア」という発想や括り方は、せいぜいここ百年あまりのものでしかない。
また、「東アジア」といっても、実際にどこからどこまでの地域を具体的にさしているかというと、使う人の都合によってまことにまちまちである。日本・韓国・北朝鮮・中国に限る場合もあれば、東南アジアを含むこともある。
(中略)
歴史家たちがいう「東アジア」は、日本史・東洋史・考古学・美術史・思想史などを問わず、しばしば人ごと・テーマごと・時代ごとに伸縮して定まらない。どこか「ぬえ」のようなものである。
(中略)
このところよく使われる「東アジア世界」ということばも、多分にそうではないか。事柄を歴史上のことに限るならば、日本列島・韓半島はしばらくおいて、中国を例にとると、いわゆる中華本土のほか、ではそのときどきの内陸アジア地域はどうなのか、おなじくマンチュリアは、モンゴリアは、ティベットは、そして雲南・広西・ヴェトナム・タイ北部・ミャンマー北半などなどは、一体どうであったのか。ところが、歴史上の「東アジア世界」を謳う日本の研究・著述・出版物を見ると、たいていはこうした各地域は「辺境」視されているのか、そもそもはじめから眼中にないのか、ともかくほとんど気にしていないかのごとくである。それが、学術研究としてあまりの質朴さのゆえとは、あえていわない。いずれにせよ、ようするにご都合主義か、あるいは無意識のうちの中華主義なのである。
(中略)
近年、主に日本史家による「東アジア論」が目につくが、おおむねは列島の視線から半島や大陸沿岸部との接触・交渉・つながりを主な対象とする「海の東アジア」であって、大陸の内側にほとんど入ろうとしないのは率直にいってほほえましい。
(中略)
だが、それで「東アジア世界」といわれると、首をかしげざるをえない。また、前近代における海域交流の過大視は、近現代史の逆投影になりかねない。
(中略)
歴史上、確かな事実として現在の日本・朝鮮半島・中華人民共和国の国域の総和に近いかたちで辛くも「東アジア」といえそうになってくるのは、せいぜいのところ乾隆帝時代に宿命の敵といってもいいジューンガル遊牧国家をついに滅ぼし、「ダイチン・グルン」が西方と南方に大きく領域拡大して、新疆・ティベット・緬滇方面などをゆるやかな間接統治下に入れてからではないか。すなわち、早くても1760年代以後のこと、大局的にはロシアの海と陸での南下が目に着き始める18世紀末ころから徐々にそうなりゆくのだろう。
(中略)
ようするに、「東アジア」の語はもともと輪郭のボンヤリしたイメージ語でしかなかった。それは日英同盟の条文で使われたときから、基本的にはずっと変わりない。所詮は、近代における欧米目線の造語にすぎない。したがって、たとえば「東アジアの漢字文化」とか「東アジアの考古世界」とかいっても、一見わかったような気分になるが、実はよくよく考えるとどこか奇妙である。ありていにいえば、東アジアというフワフワしたパッケージか看板をあらかじめ用意し、実は都合のいいものだけをそこに押し込んで、それで何かを論じようとすること自体が、かなりおかしい。
(中略)
まして、近々の政治家がいう「東アジア」や「東アジア共同体」など、ほとんどまやかしかもしくは耳にここちよい空疎なキャッチフレーズにすぎない。なお、あえて附言すれば、よくもわるくも中国人はもともと「アジア」や「東アジア」といった語は好まない。「アジア」が好きなのは、日本である。
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