細川重男『北条氏と鎌倉幕府』
講談社選書メチエの一冊として、2011年3月に刊行されました。鎌倉幕府の実権を握った北条一族がなぜ将軍にならなかったのかという観点から、鎌倉時代を概観しつつ、義時と時宗を中心にした北条一族の盛衰と支配の論理を説明しています。北条一族がなぜ将軍にならなかったのかという問題は、天皇という枠組みがなぜ千数百年以上続いたのか、という問題と通ずるところがあるように思われます。こうした問題意識の前提として、本当は天皇や将軍になりたかったのになれなかった、という解釈があることが多いのですが、本書では、そうした前提にたいする疑問が呈され、著者の見解が提示されています。
この問題にたいする本書の解答は、北条一族得宗が幕府の実権を握る根拠は鎌倉将軍の「御後見」であることに求められ、北条一族自らが将軍になる必要はなく、またなりたくもなかった、というものです。この論理の前提として、承久の乱で上皇側に完勝した義時が、頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を得たことが挙げられます。もともとは北条一族の嫡流ではなく庶子だった義時は、こうした評価を得るとともに、鎌倉幕府の守護神ともいうべき八幡神の加護を受けた武内宿禰の再誕である、とされるようになります。
複数の将軍に仕えた義時は、複数の天皇に仕えた伝説的忠臣である武内宿禰に擬えられました。武内宿禰は、亡き主君である仲哀とその妻である神功の子となる、九州で生まれた応神の天皇即位にあたって、神功とともにその反対者を平定するという功績がありました。これが、亡き主君の妻で姉にあたる北条政子とともに、西からやってきた新たな主君である摂家将軍頼経(将軍就任は承久の乱後のことです)を支えて、承久の乱を平定した義時の事跡に擬えられました。しかも、鎌倉幕府の守護神ともいうべき八幡神は、応神と同一視されているという前提もありました。
当時の人々には説得力があっただろうこの論理により、北条一族得宗は主君である鎌倉将軍の「御後見」として、鎌倉幕府の実権を握る正当性を有したのですが、それは、天皇と摂関家との関係に類似したものであり、当時の人々にとって不自然なことではなかったのでしょう。この他にも、義時の人物像や時宗の権力集中志向や貞時の政治への意欲と挫折など、興味深い見解が多く、なかなか読み応えがあると思います。とくに、時宗が義時の再来を目指しており、承久の乱の類比としてモンゴル襲来を認識していたことが、強硬な対応につながったのではないか、との指摘は興味深く、今後検証されていくべきではないか、と思います。
残念なのは、小島毅氏の著書とも通ずるような、くだけ過ぎというかふざけていると受け止められてもおかしくない箇所が少なくないことですが、著者は小島氏と同じく1962年生まれですから、青年期を過ごした1970年代後半から1980年代前半の、軽薄な時代風潮に影響を受けたのかもしれません。もっとも、小島氏の著書、とくに『足利義満 消された日本国王』と比較すると、かなりましだとは思いますが。本書のような研究者による一般向け啓蒙書では、編集者が研究者に分かりやすさを強く求めることが多いのでしょうが、平易な文章はふざけた文章とは異なると思います。
以上の文章を執筆したのは少し前なのですが、その後、細川氏のブログを発見しました。
http://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
偏見はよくないのですが、細川氏の年齢を考えると、さすがにどうかなあ、という痛いブログなのでやや驚きました。しかし、考えてみると、本書からもその片鱗は窺えたので、やはりなあ、という思いもあります。しかし、良くも悪くもというか、良くもの方の比重が高いという意味で、精神の若い人ということなのかもしれません。もっとも、こう感じるのも、私が保守的なところの多分にある人間だからなのかもしれません。
この問題にたいする本書の解答は、北条一族得宗が幕府の実権を握る根拠は鎌倉将軍の「御後見」であることに求められ、北条一族自らが将軍になる必要はなく、またなりたくもなかった、というものです。この論理の前提として、承久の乱で上皇側に完勝した義時が、頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を得たことが挙げられます。もともとは北条一族の嫡流ではなく庶子だった義時は、こうした評価を得るとともに、鎌倉幕府の守護神ともいうべき八幡神の加護を受けた武内宿禰の再誕である、とされるようになります。
複数の将軍に仕えた義時は、複数の天皇に仕えた伝説的忠臣である武内宿禰に擬えられました。武内宿禰は、亡き主君である仲哀とその妻である神功の子となる、九州で生まれた応神の天皇即位にあたって、神功とともにその反対者を平定するという功績がありました。これが、亡き主君の妻で姉にあたる北条政子とともに、西からやってきた新たな主君である摂家将軍頼経(将軍就任は承久の乱後のことです)を支えて、承久の乱を平定した義時の事跡に擬えられました。しかも、鎌倉幕府の守護神ともいうべき八幡神は、応神と同一視されているという前提もありました。
当時の人々には説得力があっただろうこの論理により、北条一族得宗は主君である鎌倉将軍の「御後見」として、鎌倉幕府の実権を握る正当性を有したのですが、それは、天皇と摂関家との関係に類似したものであり、当時の人々にとって不自然なことではなかったのでしょう。この他にも、義時の人物像や時宗の権力集中志向や貞時の政治への意欲と挫折など、興味深い見解が多く、なかなか読み応えがあると思います。とくに、時宗が義時の再来を目指しており、承久の乱の類比としてモンゴル襲来を認識していたことが、強硬な対応につながったのではないか、との指摘は興味深く、今後検証されていくべきではないか、と思います。
残念なのは、小島毅氏の著書とも通ずるような、くだけ過ぎというかふざけていると受け止められてもおかしくない箇所が少なくないことですが、著者は小島氏と同じく1962年生まれですから、青年期を過ごした1970年代後半から1980年代前半の、軽薄な時代風潮に影響を受けたのかもしれません。もっとも、小島氏の著書、とくに『足利義満 消された日本国王』と比較すると、かなりましだとは思いますが。本書のような研究者による一般向け啓蒙書では、編集者が研究者に分かりやすさを強く求めることが多いのでしょうが、平易な文章はふざけた文章とは異なると思います。
以上の文章を執筆したのは少し前なのですが、その後、細川氏のブログを発見しました。
http://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
偏見はよくないのですが、細川氏の年齢を考えると、さすがにどうかなあ、という痛いブログなのでやや驚きました。しかし、考えてみると、本書からもその片鱗は窺えたので、やはりなあ、という思いもあります。しかし、良くも悪くもというか、良くもの方の比重が高いという意味で、精神の若い人ということなのかもしれません。もっとも、こう感じるのも、私が保守的なところの多分にある人間だからなのかもしれません。
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