ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA分析と社会構造
ホモ=ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)のミトコンドリアDNAを分析・比較した研究(Lalueza-Fox et al., 2010)が報道されました。この研究は昨年すでにオンライン版で公開されていました。この研究では、スペイン北部のエルシドロン遺跡で発見された少なくとも12個体分のネアンデルタール人骨が形態学・遺伝学的に分析され、その社会構造・婚姻システムについても言及されています。エルシドロン遺跡はカルスト地形で、そのなかの通称「骨壺部屋」において、2000年以降発掘が続けられており、これまでに、1800以上の人骨の断片と、400にも及ぶムステリアン(ムスティエ文化)石器が発見されていますが、人間ではない動物の骨はほとんど発見されていません。
「骨壺部屋」で発見された人骨は少なくとも12個体分になり、年代はおよそ49000年前と推測されています。これらのネアンデルタール人の骨の現在の集積状況は、上部の部屋の崩壊の結果によるもので、その崩壊は骨の主であるネアンデルタール人が死亡して間もなくのことだろう、と推定されています。これらのネアンデルタール人の骨にはすべて、食人の痕跡が見られるので、骨の集積は食人の結果かもしれません。49000年前頃という年代とスペイン北部という場所から考えると、食人の行為者もネアンデルタール人である可能性が高いでしょう。これら食人の犠牲となったネアンデルタール人が同時代の社会集団であると証明することはできないのですが、長期にわたって何度も同じ場所で食人があり、人骨が蓄積されていった、というような他の説明はもっと可能性が低いだろう、と指摘されています。
上記報道では食人行為に重きが置かれているのですが、この研究の主題はネアンデルタール人のミトコンドリアDNA解析・比較とネアンデルタール人の人口構造や婚姻システムであり、食人行為自体は、その痕跡があったと述べられるにとどまっています。どのような状況で食人行為があったか不明なのですが、人間以外の動物の骨がほとんど見られないことを考慮に入れると、飢餓状況下での食人だったのかしもれません。その場合でも、殺人の結果食人行為となったのか、それとも飢餓や病気や危険な狩猟にともなう事故などにより死亡した個体が食べられたのか、現時点では判断の難しいところです。
さて、この研究の主題についてですが、「骨壺部屋」は低温な環境であるため、DNAが保たれるのに適した条件とのことです。そのため、12個体分のミトコンドリアDNAも解析できました。その結果については、表2に詳しく記載されています。そこには、12個体の年齢・性別・ミトコンドリアDNAの系統が記載されているのですが、年齢は厳密に特定されたものではありませんし、性別不明の個体もあります。また、何が標本として用いられたかも記載されていて、歯が多いのですが、下顎骨・大腿骨・指骨もあります。
年齢別に見ていくとは、成人が6人・思春期(適当な訳語が思い浮かばなかったのですが、12~15歳と推定されています)の少年が3人(そのうち1人はやや性別に曖昧なところがあるようですが)・5~6歳と8~9歳の子供が1人ずつ・2~3歳の幼児が1人となります。性別は、形態学・遺伝学の両方から推定されており、仕方のないところではありますが、10歳未満となると、やはり形態学的に性別の判断は難しいようです。遺伝学的な性別の判断にはY染色体分析が用いられました。4つの標本からY染色体が得られましたが、それは形態学的分析と一致しています。もっとも、Y染色体が得られなかったのは女性だからとは限らず、じゅうぶんゲノムが残っていない可能性も想定されることが指摘されています。
12人のミトコンドリアDNAは、相互に似てはいるものの、はっきりと異なる3つのハプロタイプ(この研究ではA・B・Cと分類されています)に区分されます。また、これらエルシドロンのネアンデルタール人のミトコンドリアDNAは、ドイツのフェルトホーファーやクロアチアのヴィンディヤで発見されたネアンデルタール人のそれと近い系統的関係にあり、ヨーロッパのネアンデルタール人の遺伝的多様性の乏しさを示唆しています。12人のミトコンドリアDNAの分類は、Aが7人・Bが1人・Cが4人となります。
興味深いのは、3人の成人女性がそれぞれ異なるミトコンドリアDNA系統に属している一方で、3人の成人男性は同じ系統Aに属していることです。これは、ネアンデルタール人集団における夫居制的婚姻行動を示唆している、とこの研究では指摘されています。夫居制は現代社会の約70%に存在し、その場合、女性の間のミトコンドリアDNA系統の多様性が、男性間のそれより大きい結果になると予測されます。夫居制ではまた、Y染色体系統と比較して、ミトコンドリアDNA系統のほうが地理的により広範に拡散する、とも予測されます。
この研究では、12人の年齢とミトコンドリアDNA系統からは、表2の子供‘Juvenile 2’は成人女性‘Adult 5’の子供(近縁の母系親族である可能性も指摘されています)であり、子供‘Juvenile 1’と幼児は成人女性‘Adult 4’の子供ではないか、と推定されています。もしこの推定が正しければ、後者の関係はネアンデルタール人の約3年間隔の出産を示唆している、とこの研究では指摘されています。授乳期間は女性の繁殖力の決定における主要因で、それ故に、この情報はネアンデルタール人の人口の変遷をモデル化するのに役立つだろう、とこの研究では指摘されています。
以上、この研究についてざっと見てきましたが、5万年前頃の人類集団の、婚姻システムも含む社会構造について、貴重な情報が得られたかもしれないという意味で、たいへん興味深く、この研究には大いに注目すべきではないか、と思います。これまで、5万年前頃やそれ以前の人類集団の社会構造となると、直接的証拠は、完新世と比較してきわめて少ない人骨や解釈の難しい考古学的遺物であり、現代社会や、かなりのていど文献・考古学的に判明している完新世における過去の一部の社会や、現代人と近縁な現存生物の社会をモデルとして構築していくしかなかったわけですから、この研究の意義は大きいと言えるでしょう。
もちろん、少なくとも12個体分になる人骨群が同時代に属するのかといった問題など、この研究の結論はいくつもの推定が前提となっていますし、標本数はまだ少ないわけですから、ネアンデルタール人社会における夫居制的婚姻行動という解釈も確定したわけではありませんが、その可能性については今後も真剣に検証されるべきでしょう。また、かりに5万年前頃のイベリア半島北部のネアンデルタール人社会に夫居制的婚姻行動の傾向が認められるとしても、それを他の時代・地域のネアンデルタール人社会に適用することには慎重でなければならないでしょう。もちろん、初期ホモ=サピエンス(現生人類)社会に適用することには、もっと慎重でなければならないでしょう。ネアンデルタール人の社会も現代人の社会と同じく、環境に応じて社会構造が異なっていた可能性が高いのではないか、と私は考えています。
参考文献:
Lalueza-Fox C. et al.(2011): Genetic evidence for patrilocal mating behavior among Neandertal groups. PNAS, 108, 1, 250-253.
http://dx.doi.org/10.1073/pnas.1011553108
「骨壺部屋」で発見された人骨は少なくとも12個体分になり、年代はおよそ49000年前と推測されています。これらのネアンデルタール人の骨の現在の集積状況は、上部の部屋の崩壊の結果によるもので、その崩壊は骨の主であるネアンデルタール人が死亡して間もなくのことだろう、と推定されています。これらのネアンデルタール人の骨にはすべて、食人の痕跡が見られるので、骨の集積は食人の結果かもしれません。49000年前頃という年代とスペイン北部という場所から考えると、食人の行為者もネアンデルタール人である可能性が高いでしょう。これら食人の犠牲となったネアンデルタール人が同時代の社会集団であると証明することはできないのですが、長期にわたって何度も同じ場所で食人があり、人骨が蓄積されていった、というような他の説明はもっと可能性が低いだろう、と指摘されています。
上記報道では食人行為に重きが置かれているのですが、この研究の主題はネアンデルタール人のミトコンドリアDNA解析・比較とネアンデルタール人の人口構造や婚姻システムであり、食人行為自体は、その痕跡があったと述べられるにとどまっています。どのような状況で食人行為があったか不明なのですが、人間以外の動物の骨がほとんど見られないことを考慮に入れると、飢餓状況下での食人だったのかしもれません。その場合でも、殺人の結果食人行為となったのか、それとも飢餓や病気や危険な狩猟にともなう事故などにより死亡した個体が食べられたのか、現時点では判断の難しいところです。
さて、この研究の主題についてですが、「骨壺部屋」は低温な環境であるため、DNAが保たれるのに適した条件とのことです。そのため、12個体分のミトコンドリアDNAも解析できました。その結果については、表2に詳しく記載されています。そこには、12個体の年齢・性別・ミトコンドリアDNAの系統が記載されているのですが、年齢は厳密に特定されたものではありませんし、性別不明の個体もあります。また、何が標本として用いられたかも記載されていて、歯が多いのですが、下顎骨・大腿骨・指骨もあります。
年齢別に見ていくとは、成人が6人・思春期(適当な訳語が思い浮かばなかったのですが、12~15歳と推定されています)の少年が3人(そのうち1人はやや性別に曖昧なところがあるようですが)・5~6歳と8~9歳の子供が1人ずつ・2~3歳の幼児が1人となります。性別は、形態学・遺伝学の両方から推定されており、仕方のないところではありますが、10歳未満となると、やはり形態学的に性別の判断は難しいようです。遺伝学的な性別の判断にはY染色体分析が用いられました。4つの標本からY染色体が得られましたが、それは形態学的分析と一致しています。もっとも、Y染色体が得られなかったのは女性だからとは限らず、じゅうぶんゲノムが残っていない可能性も想定されることが指摘されています。
12人のミトコンドリアDNAは、相互に似てはいるものの、はっきりと異なる3つのハプロタイプ(この研究ではA・B・Cと分類されています)に区分されます。また、これらエルシドロンのネアンデルタール人のミトコンドリアDNAは、ドイツのフェルトホーファーやクロアチアのヴィンディヤで発見されたネアンデルタール人のそれと近い系統的関係にあり、ヨーロッパのネアンデルタール人の遺伝的多様性の乏しさを示唆しています。12人のミトコンドリアDNAの分類は、Aが7人・Bが1人・Cが4人となります。
興味深いのは、3人の成人女性がそれぞれ異なるミトコンドリアDNA系統に属している一方で、3人の成人男性は同じ系統Aに属していることです。これは、ネアンデルタール人集団における夫居制的婚姻行動を示唆している、とこの研究では指摘されています。夫居制は現代社会の約70%に存在し、その場合、女性の間のミトコンドリアDNA系統の多様性が、男性間のそれより大きい結果になると予測されます。夫居制ではまた、Y染色体系統と比較して、ミトコンドリアDNA系統のほうが地理的により広範に拡散する、とも予測されます。
この研究では、12人の年齢とミトコンドリアDNA系統からは、表2の子供‘Juvenile 2’は成人女性‘Adult 5’の子供(近縁の母系親族である可能性も指摘されています)であり、子供‘Juvenile 1’と幼児は成人女性‘Adult 4’の子供ではないか、と推定されています。もしこの推定が正しければ、後者の関係はネアンデルタール人の約3年間隔の出産を示唆している、とこの研究では指摘されています。授乳期間は女性の繁殖力の決定における主要因で、それ故に、この情報はネアンデルタール人の人口の変遷をモデル化するのに役立つだろう、とこの研究では指摘されています。
以上、この研究についてざっと見てきましたが、5万年前頃の人類集団の、婚姻システムも含む社会構造について、貴重な情報が得られたかもしれないという意味で、たいへん興味深く、この研究には大いに注目すべきではないか、と思います。これまで、5万年前頃やそれ以前の人類集団の社会構造となると、直接的証拠は、完新世と比較してきわめて少ない人骨や解釈の難しい考古学的遺物であり、現代社会や、かなりのていど文献・考古学的に判明している完新世における過去の一部の社会や、現代人と近縁な現存生物の社会をモデルとして構築していくしかなかったわけですから、この研究の意義は大きいと言えるでしょう。
もちろん、少なくとも12個体分になる人骨群が同時代に属するのかといった問題など、この研究の結論はいくつもの推定が前提となっていますし、標本数はまだ少ないわけですから、ネアンデルタール人社会における夫居制的婚姻行動という解釈も確定したわけではありませんが、その可能性については今後も真剣に検証されるべきでしょう。また、かりに5万年前頃のイベリア半島北部のネアンデルタール人社会に夫居制的婚姻行動の傾向が認められるとしても、それを他の時代・地域のネアンデルタール人社会に適用することには慎重でなければならないでしょう。もちろん、初期ホモ=サピエンス(現生人類)社会に適用することには、もっと慎重でなければならないでしょう。ネアンデルタール人の社会も現代人の社会と同じく、環境に応じて社会構造が異なっていた可能性が高いのではないか、と私は考えています。
参考文献:
Lalueza-Fox C. et al.(2011): Genetic evidence for patrilocal mating behavior among Neandertal groups. PNAS, 108, 1, 250-253.
http://dx.doi.org/10.1073/pnas.1011553108
この記事へのコメント