竹内康浩『中国王朝の起源を探る』
世界史リブレット95として、山川出版社より2010年3月に刊行されました。著者の姿勢はきわめて慎重というか禁欲的で、それは夏王朝の認定についての見解によく表れています。現代の中国では、夏王朝の実在は学界においても確実なこととして認定されており、夏王朝の実在について、日本では慎重な姿勢を示すことの研究者が多いことと対照的です。著者によると、中国では、二里頭遺跡をもって夏王朝実在の考古学的根拠とされているのですが、中国で刊行される概説や通史では、二里頭遺跡の考古学的成果が夏王朝史として述べられているのではなく、文献で伝えられている夏王朝の記載を根拠として夏王朝史が述べられていることがきわめて多い、とのことです。考古学的に夏王朝の実在が証明されたので、夏王朝に関する文献上の記述がそのまま史実を伝えるものとして認定される傾向が強い、というわけです。
しかし著者は、後世の文献に見える夏王朝に関する記述と結びつくような出土文字資料がまだ発見されていないことから、夏王朝の実在の認定に慎重というか消極的で、日本の学界も、著名な研究者のなかに夏王朝の実在を認める人もいるものの、全体的には夏王朝の実在の認定には慎重なようです。ただ、著者が強調しているように、こうした姿勢は夏王朝の実在を断定的に否定したのではなく、夏王朝の実在は確認できないということであり、さらに言えば、王朝が実在しなかったということではなく、二里頭遺跡に認められる組織が、後世の文献に夏として記載されたものかはっきりしない、ということです。
こうした著者の姿勢はもっともであり、正直なところ、現在の中国における夏王朝についての見解にはかなりの問題があるように思います。また著者は、王朝とは王(皇帝)世界(天下)の中心におき、そこからいっさいの価値が周縁へ広がり階層序列化した構造を設定する、本質的に世界の構造の理解の仕方の表象なのだとし、王朝と国家との混同を戒め、二里頭遺跡は国家の時限としては大きな力を有していただろうが、王朝としての性格は未だにじゅうぶんには解明されていない、とも指摘しています。
夏王朝についてだけではなく、新石器時代・殷(商)王朝・周王朝についても興味深い指摘がなされており、文字数は少ないのですが、じつに充実した一冊だと言えます。とくに興味深いのは西周王朝についての指摘で、後世の儒家が文や礼の面で理想化し、それを継承した『史記』の記述により、本質的には武によって成立していた西周王朝の重要な側面が捨象されてしまい、それが創業時と滅亡時以外には存在感の希薄な西周王朝像として残されたのではないか、ということです。碩学宮崎市定氏の西周王朝抹殺論も、後世の儒家と司馬遷による西周王朝の理想化に惑わされたためだ、と言えるかもしれません。
しかし著者は、後世の文献に見える夏王朝に関する記述と結びつくような出土文字資料がまだ発見されていないことから、夏王朝の実在の認定に慎重というか消極的で、日本の学界も、著名な研究者のなかに夏王朝の実在を認める人もいるものの、全体的には夏王朝の実在の認定には慎重なようです。ただ、著者が強調しているように、こうした姿勢は夏王朝の実在を断定的に否定したのではなく、夏王朝の実在は確認できないということであり、さらに言えば、王朝が実在しなかったということではなく、二里頭遺跡に認められる組織が、後世の文献に夏として記載されたものかはっきりしない、ということです。
こうした著者の姿勢はもっともであり、正直なところ、現在の中国における夏王朝についての見解にはかなりの問題があるように思います。また著者は、王朝とは王(皇帝)世界(天下)の中心におき、そこからいっさいの価値が周縁へ広がり階層序列化した構造を設定する、本質的に世界の構造の理解の仕方の表象なのだとし、王朝と国家との混同を戒め、二里頭遺跡は国家の時限としては大きな力を有していただろうが、王朝としての性格は未だにじゅうぶんには解明されていない、とも指摘しています。
夏王朝についてだけではなく、新石器時代・殷(商)王朝・周王朝についても興味深い指摘がなされており、文字数は少ないのですが、じつに充実した一冊だと言えます。とくに興味深いのは西周王朝についての指摘で、後世の儒家が文や礼の面で理想化し、それを継承した『史記』の記述により、本質的には武によって成立していた西周王朝の重要な側面が捨象されてしまい、それが創業時と滅亡時以外には存在感の希薄な西周王朝像として残されたのではないか、ということです。碩学宮崎市定氏の西周王朝抹殺論も、後世の儒家と司馬遷による西周王朝の理想化に惑わされたためだ、と言えるかもしれません。
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