天武の年齢が不明なのは異常なことなのか
この問題について調べたのはずいぶんと昔のことで、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/032.htm
『日本書紀』の諸本について詳しく調べたわけではないので、間違いがあるかもしれず、お気づきの方にご教示いただければ幸いですが、過疎ブログなので、そもそも読者数がひじょうに少ないわけですから、これは私の自分勝手な願望と言うべきかもしれません。それはともかくとして、兄天智と弟天武という同父同母の兄弟関係を疑う説においてよく指摘されるのが、『日本書紀』において天武の年齢が不明なことで、これを異常だとする見解もあります(井沢元彦『逆説の日本史』文庫版2巻)。同書では、『日本書紀』は天武を顕彰するための史書であり、現代にたとえるならば、創業者の作らせた御用社史のようなものだと指摘された後に、以下のように述べられています(P237~239)。
しかし、だからこそ、天武の年齢がわからない(明記されていないし推定する材料もない)というのは極めて異常なことなのだ。
おわかりだろうか。
年齢というのは、人物の伝記を書く場合、最も必要な、基本的なデータである。これは誰しも異論がないだろう。
あの人の伝記を書きました。ただし年齢はわかりません、などと言ったら現代でも笑い者である。ところが「書紀」には、年齢を推定する手がかりになる記述すらないのだ。
何度も言っているが、「書紀」は国家事業として多くの学者が編纂に参加している。
歴史学界の先生方が、「書紀」は信頼できると主張するのも、多くはこの理由である。
しかし、だからこそおかしいのだ。
多くの学者が編集・校訂に参加したということは、ケアレスミスによる「書き落とし」は、極めて可能性が少ないはずだ。
ましてや天武は、「書紀」の主役であり、記述全体の一割強も使って持ち上げているヒーローでもある。しかも、作らせたのは天武ファミリーなのだ。それなのに年齢がわからない。
これから下される結論は唯一つしかない。
それは「天武の年齢は故意に書き落とされている」ということだ。
常識に沿って合理的に考える限り、これ以外に考えようはない。
もし、私の推理がおかしいと言うなら、なぜ「国家事業」の「史書」なのに「主役の年齢」が確定できないのか、合理的に説明して頂きたい。
なぜ、こんなことを言うかというと、こんな常識的な推論ですら、推論に過ぎないと否定するのが、現代の歴史学界の大勢だからだ。これは本当の話である。
その理由というのが、『日本書紀』は「正史」であり、古い資料だから信頼できるというものだ。
これも本当の話である。
これが天武ファミリーの手になる「御用社史」だなどとは考えてもみないのである。
この一節には、トンデモ説の典型的特徴がよく表れており、その意味でもひじょうに興味深いのですが、その問題は後日改めて述べることにします。天武の年齢が『日本書紀』で不明なのは異常だという考えはそれなりに浸透しているようで、中には、「日本書記には、神武から持統までの40代(弘文天皇を入れれば41代)の天皇が登場しているが、年齢が不明なのは天武だけとなっています」との理解さえ見られます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=189281
ところが、『日本書紀』における歴代天皇の年齢について見ていくと、宣化以前で不明なのは28人中8人(現在は天皇とされていない神功は除きます)で、欽明以降で不明なのは11人中9人(重祚の斉明と、即位したとの記述がない弘文は除きます)となります。古い時代の天皇(天皇の称号が用いられたのは、7世紀になってからでしょうが)の方が、かえって年齢が明記されている場合が多いというのは変に思えますが、その理由についいては、この問題を調べた10年前も現在も上手く説明できません。ともかく、その理由が何であれ、『日本書紀』で天武の年齢が不明なのは、他の天皇の事例と比較すると、とくに異常なこととは言い難いでしょう。
欽明以降で年齢が明らかなのは推古と天智ですが、天智の場合、父の舒明の殯のさいに年齢が記されているだけで、皇太子時代(皇太子という制度が天智存命の頃に存在したのか、定かではないと思いますが)や自身の即位後の記事では年齢が記されていません。その意味では、欽明以降の『日本書紀』の記事を見ていった場合、年齢が詳細に記されている推古こそ例外的存在だと言えそうです。なお、推古は『日本書紀』において、立后時・夫(異母兄でもあります)の敏達崩御時・即位時(前帝の崇峻崩御時)・崩御時の年齢が記されており、それぞれの年齢のなかには他の記事と矛盾を生じる場合がありますが、この問題については、いつか考えがまとまったら、記事にするつもりです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/032.htm
『日本書紀』の諸本について詳しく調べたわけではないので、間違いがあるかもしれず、お気づきの方にご教示いただければ幸いですが、過疎ブログなので、そもそも読者数がひじょうに少ないわけですから、これは私の自分勝手な願望と言うべきかもしれません。それはともかくとして、兄天智と弟天武という同父同母の兄弟関係を疑う説においてよく指摘されるのが、『日本書紀』において天武の年齢が不明なことで、これを異常だとする見解もあります(井沢元彦『逆説の日本史』文庫版2巻)。同書では、『日本書紀』は天武を顕彰するための史書であり、現代にたとえるならば、創業者の作らせた御用社史のようなものだと指摘された後に、以下のように述べられています(P237~239)。
しかし、だからこそ、天武の年齢がわからない(明記されていないし推定する材料もない)というのは極めて異常なことなのだ。
おわかりだろうか。
年齢というのは、人物の伝記を書く場合、最も必要な、基本的なデータである。これは誰しも異論がないだろう。
あの人の伝記を書きました。ただし年齢はわかりません、などと言ったら現代でも笑い者である。ところが「書紀」には、年齢を推定する手がかりになる記述すらないのだ。
何度も言っているが、「書紀」は国家事業として多くの学者が編纂に参加している。
歴史学界の先生方が、「書紀」は信頼できると主張するのも、多くはこの理由である。
しかし、だからこそおかしいのだ。
多くの学者が編集・校訂に参加したということは、ケアレスミスによる「書き落とし」は、極めて可能性が少ないはずだ。
ましてや天武は、「書紀」の主役であり、記述全体の一割強も使って持ち上げているヒーローでもある。しかも、作らせたのは天武ファミリーなのだ。それなのに年齢がわからない。
これから下される結論は唯一つしかない。
それは「天武の年齢は故意に書き落とされている」ということだ。
常識に沿って合理的に考える限り、これ以外に考えようはない。
もし、私の推理がおかしいと言うなら、なぜ「国家事業」の「史書」なのに「主役の年齢」が確定できないのか、合理的に説明して頂きたい。
なぜ、こんなことを言うかというと、こんな常識的な推論ですら、推論に過ぎないと否定するのが、現代の歴史学界の大勢だからだ。これは本当の話である。
その理由というのが、『日本書紀』は「正史」であり、古い資料だから信頼できるというものだ。
これも本当の話である。
これが天武ファミリーの手になる「御用社史」だなどとは考えてもみないのである。
この一節には、トンデモ説の典型的特徴がよく表れており、その意味でもひじょうに興味深いのですが、その問題は後日改めて述べることにします。天武の年齢が『日本書紀』で不明なのは異常だという考えはそれなりに浸透しているようで、中には、「日本書記には、神武から持統までの40代(弘文天皇を入れれば41代)の天皇が登場しているが、年齢が不明なのは天武だけとなっています」との理解さえ見られます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=189281
ところが、『日本書紀』における歴代天皇の年齢について見ていくと、宣化以前で不明なのは28人中8人(現在は天皇とされていない神功は除きます)で、欽明以降で不明なのは11人中9人(重祚の斉明と、即位したとの記述がない弘文は除きます)となります。古い時代の天皇(天皇の称号が用いられたのは、7世紀になってからでしょうが)の方が、かえって年齢が明記されている場合が多いというのは変に思えますが、その理由についいては、この問題を調べた10年前も現在も上手く説明できません。ともかく、その理由が何であれ、『日本書紀』で天武の年齢が不明なのは、他の天皇の事例と比較すると、とくに異常なこととは言い難いでしょう。
欽明以降で年齢が明らかなのは推古と天智ですが、天智の場合、父の舒明の殯のさいに年齢が記されているだけで、皇太子時代(皇太子という制度が天智存命の頃に存在したのか、定かではないと思いますが)や自身の即位後の記事では年齢が記されていません。その意味では、欽明以降の『日本書紀』の記事を見ていった場合、年齢が詳細に記されている推古こそ例外的存在だと言えそうです。なお、推古は『日本書紀』において、立后時・夫(異母兄でもあります)の敏達崩御時・即位時(前帝の崇峻崩御時)・崩御時の年齢が記されており、それぞれの年齢のなかには他の記事と矛盾を生じる場合がありますが、この問題については、いつか考えがまとまったら、記事にするつもりです。
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