『一万年の進化爆発 文明が進化を加速した』(日経BP社、2010年)

 グレゴリー=コクラン、ヘンリー=ハーペンディング著、古川奈々子訳で、日経BP社より2010年5月に刊行されました(Cochran, and Harpending.,2010)。原書の刊行は2009年です。人類の進化は5万年前に止まったわけではなく、この1万年間はそれ以前と比較して加速している、遺伝的変異と環境には相互作用が認められる、との本書の見解は、おおむね妥当なものだろうと思います。

 農耕開始以降の人口の急増は、それだけ人類における遺伝的変異の回数を増やしたでしょうし、現生人類はそれ以前の人類よりも生息地域を拡大し、それだけ多様な環境で生きていくことになりましたから。この1万年間の遺伝的変異の実例としては、乳糖耐性(ユーラシアとアフリカ東部の二箇所で、それぞれ塩基配列は異なるものの、似たような効果のある遺伝的変異が生じました)や、心臓発作・脳卒中の発症の可能性を引き下げる効果をもたらすものなどが知られています。

 ただ、本書には文化的「発展」を遺伝的変異と直結させる傾向が見られ、少なからず疑問も残ります。本書が指摘するアシュケナージ系ユダヤ人の「知能の高さ」と、その要因として想定される遺伝的変異も、それと関連するのですが、本書の主張の根拠となっているIQの測定・評価という問題については、私は無知に等しいので、この問題は後日調べるべき課題として残すことにします。同様に、この1万年間の知能・心に関わる遺伝的変異についても、後日の課題とします。

 本書では、5~4万年前頃のヨーロッパで、文化上の「大躍進」があった、との見解が採用されています。文化的「発展」を遺伝的変異と直結させる傾向が見られる本書では、やはり、この大躍進は急速な遺伝的変化により現生人類が新たな能力を獲得したためだ、と推測されています。そのさいに、現生人類がネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人から有用な遺伝子を得た可能性が指摘されています。確かに、ネアンデルタール人と現生人類が交雑し、現代人(の大部分)がネアンデルタール人由来の遺伝子を有している可能性は低くないだろう、と思います(関連記事)。その意味では、ネアンデルタール人のゲノムと現生人類のゲノムとの比較・検証が期待されます。

 しかし、そもそも、5~4万年前頃のヨーロッパにおける文化上の「大躍進」という見解は妥当なのか、20世紀後半以降疑問視されるようになってきており、こうした見解はヨーロッパ中心主義だとして、徹底的に批判する長大な論文も専門誌に掲載されるくらいですが(Mcbrearty, and Brooks.,2000)、本書では、5万年前よりもさかのぼる、アフリカの中期石器時代の「革新」や「先進的要素」は、5~4万年前頃のヨーロッパにおけるそれよりも決定的に劣る、という見解が採用されています。

 5~4万年前頃のヨーロッパにおける文化上の「大躍進」とは、具体的には彫像や壁画や副葬品を伴う埋葬や効率的な石器などですが、残存状況の偶然性やヨーロッパでは発掘が進んでいるという状況は、本書ではほとんど考慮されていないようです。また、残存状況の偶然性とも関係しますが、そもそも5万年という時間を越えて考古学的指標として残存するような「文化」がどれだけあるかということも考えると、他の地域で「派手な」壁画や彫像が見つかっていないとしても、それが遺伝子に起因する何らかの知的能力の違いと判断できるのか、きわめて怪しいように思います。

 たとえば、植物性の素材で「高度な文化的作品」を製作していたとしても、それが5万年以上も残って発見される可能性はきわめて低いでしょうし、複雑で壮大な口承文学が存在していたとしても、5万年前はもちろんのこと、1万年前のことであっても、その存在を証明することは無理でしょう。考古学から分かることには限界があり、時代をさかのぼるほど推測できることは少なくなるわけですから、5~4万年前頃のヨーロッパにおける文化上の「大躍進」を前提とした本書の見解の一部には、大いに疑問が残ります。全体として興味深い指摘が多く、読むに値する一冊だとは思いますが、かなり注意して読む必要がある、というのが率直な感想です。


参考文献:
Cochran G, and Harpending H.著(2010)、古川奈々子訳『一万年の進化爆発 文明が進化を加速した』(日経BP社、原書の刊行は2009年)

Mcbrearty S, and Brooks AS.(2000): The revolution that wasn't: a new interpretation of the origin of modern human behavior. Journal of Human Evolution, 39, 5, 453-563.
http://dx.doi.org/10.1006/jhev.2000.0435

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