三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日新聞社)
朝日選書の一冊として、2007年2月に刊行されました。おもに1939年~1941年の独ソ関係を、日本も絡めて、日ソ独伊の四国連合構想成立の可能性という観点から考察しています。この時期の日本にとって重要な課題の一つに、泥沼化していた日中戦争の解決があります。この大きな制約が、当時の日本の外交路線をかなりのところ規定していました。中国を屈服させるためにはイギリスとソ連が大きな障壁となっており、ドイツやソ連への接近も、日中戦争解決の重要な手段と考えられたために進められた、という側面が多分にありました。
当時の外交交渉の緻密な復元と考察は読み応えがあり、この時代について私が不勉強ということもあるのですが、じつに面白く読めた一冊になりました。日本という国家は外交が下手だとよく言われ、ほとんど通説になっている感もありますが、こうした言説は慎重に検証しなければならない、と私は考えています。ただ、本書を読むと、この時期の独ソとの関わりにおいて、日本がつねに後手に回ったことは否定できませんから、日本の外交下手という俗説が定着しているのはやむをえないかな、とも思います。当時の日本人のなかには、独ソ不可侵条約調印前に独ソ接近に気づき、独ソ開戦の前に独ソ関係の悪化とその結果としての独ソ戦を予測していた人もいるのですが、日本の権力中枢部は、つねに対応が遅れました。これは、仕方のないところもあるとはいえ、当時の日本に、最高権力者に政策決定権の集中した独裁色の強い体制への理解が不足していたことも一因ではないか、と思います。
本書では、日ソ独伊の四国連合構想が関係各国の権力中枢部において真剣に検討されたことが論証されており、もし日ソ独伊の四国連合が成立していたら、アメリカは日本との戦争および対英武器援助により慎重になり、イギリスはドイツに屈服し、ドイツとソ連が世界の主導国となって、アメリカは不愉快さを抱きつつもそれを傍観していたのではないか、と推測されています。この四国連合構想が破綻した理由として、本書ではヒトラーとスターリンの見込み違いが指摘されています。
ヒトラーは、対フィンランド戦でのソ連の苦戦から、ソ連軍は弱体であり、精鋭のドイツ軍ならば容易にソ連を屈服させられる、と考えました。一方スターリンは、イギリスを屈服させることができていない段階で、ドイツがソ連を攻撃することはありえない、と考えていました。ドイツの同盟国である日本が自国との不可侵条約締結に熱心だったことも、ドイツによる自国への攻撃はない、とスターリンにより強く確信させる一因となりました。そのため、スターリンはドイツとの交渉において、要求をできるだけ吊り上げようとしていました。おそらくスターリンは、その要求から少し水準を下げたところでドイツと妥協し、日ソ独伊の四国連合を成立させようとしたのではないか、と本書では推測されています。こうしたスターリンの態度が、ヒトラーに対ソ開戦を決断させたわけですが、ソ連・フィンランド戦争の前であれば、あるいはヒトラーはソ連の要求を受け入れたかもしれません。
スターリンは、ドイツのソ連への攻撃計画が本気であると考えるようになった1941年4月以降、急速にドイツに譲歩するようになりましたが、すでに手遅れでした。ヒトラーとスターリンという二大独裁者の誤算が、1941年6月の独ソ開戦を招来したのでした。日ソ中立条約が調印されたのは1941年4月ですが、難航していた日ソ交渉が妥結した背景として、ドイツからの攻撃の可能性が高まっている、とのスターリンの判断があったのでしょう。日ソ独伊の四国連合構想が成立し、日米戦が避けられて大日本帝国がその後も長期間存続したとすると、日本の歴史も大きく変わったことでしょう。史実では失われた多くの人材・設備が助かることになるでしょうが、軍事偏重体制が続くことになるので、現在よりも経済的地位は低くなっていたかもしれません。
ただ、けっきょくのところ、かりに日ソ独伊の四国連合構想が成立したとしても、それは一時的なことであり、独ソ戦は避けられなかったかな、というのが正直な感想です。ヒトラーは、1940年11月のソ連外相モロトフとの会談までは日ソ独伊の四国連合構想も考えていましたが、本質的には親英反ソ路線であり、反英親ソ路線のドイツ外相リッベントロップとは根本的なところで相違があった、ということなのでしょう。ヒトラーにとっては、日ソ独伊の四国連合は一時しのぎであり、その世界観からして、いずれはソ連への攻撃に踏み切った可能性が高いでしょう。
一方、ソ連側に1941年秋以降、さらにさかのぼって同年7月という時期でのドイツ攻撃計画が存在した、との見解が本書では紹介されています。この見解の妥当性について本書では述べられていませんが、そうした計画があっても不思議ではないだろう、と思います。いずれにしても、独ソ戦は避けられなかったかな、と思います。もちろん、ヒトラーとスターリンの両者が失脚もしくは死亡すれば、戦争は避けられたのではないか、との見解はあるでしょう。しかし、そうなった場合、先に独裁者が死んだ方の体制の動揺に付け入って、もう一方が攻め込む可能性が高いでしょう。独ソ戦がもし避けられるとしたら、ヒトラーとスターリンの両者がほぼ同時に失脚もしくは死亡するしかなさそうですが、それでも、両者の体制構造からして、戦争は避けられなかったかもしれません。
この他にも、リッベントロップは日本について無知で、それが日本への過大評価につながっていたことや、独ソ不可侵条約以前に日本でも日ソ独伊の四国連合構想が存在したことや、ソ連国防相のヴォロシーロフが、対フィンランド戦での不手際をスターリンから面罵されたところ激怒し、苦戦の責任は粛清を進めたスターリンにある、と言い返してしまったことなど、本書では興味深い史実が多数紹介されています。このブログで取り上げている本は、基本的には私が面白いと思ったものなのですが、本書のように一気に読み進めるくらい面白い本となると、久しぶりです。
当時の外交交渉の緻密な復元と考察は読み応えがあり、この時代について私が不勉強ということもあるのですが、じつに面白く読めた一冊になりました。日本という国家は外交が下手だとよく言われ、ほとんど通説になっている感もありますが、こうした言説は慎重に検証しなければならない、と私は考えています。ただ、本書を読むと、この時期の独ソとの関わりにおいて、日本がつねに後手に回ったことは否定できませんから、日本の外交下手という俗説が定着しているのはやむをえないかな、とも思います。当時の日本人のなかには、独ソ不可侵条約調印前に独ソ接近に気づき、独ソ開戦の前に独ソ関係の悪化とその結果としての独ソ戦を予測していた人もいるのですが、日本の権力中枢部は、つねに対応が遅れました。これは、仕方のないところもあるとはいえ、当時の日本に、最高権力者に政策決定権の集中した独裁色の強い体制への理解が不足していたことも一因ではないか、と思います。
本書では、日ソ独伊の四国連合構想が関係各国の権力中枢部において真剣に検討されたことが論証されており、もし日ソ独伊の四国連合が成立していたら、アメリカは日本との戦争および対英武器援助により慎重になり、イギリスはドイツに屈服し、ドイツとソ連が世界の主導国となって、アメリカは不愉快さを抱きつつもそれを傍観していたのではないか、と推測されています。この四国連合構想が破綻した理由として、本書ではヒトラーとスターリンの見込み違いが指摘されています。
ヒトラーは、対フィンランド戦でのソ連の苦戦から、ソ連軍は弱体であり、精鋭のドイツ軍ならば容易にソ連を屈服させられる、と考えました。一方スターリンは、イギリスを屈服させることができていない段階で、ドイツがソ連を攻撃することはありえない、と考えていました。ドイツの同盟国である日本が自国との不可侵条約締結に熱心だったことも、ドイツによる自国への攻撃はない、とスターリンにより強く確信させる一因となりました。そのため、スターリンはドイツとの交渉において、要求をできるだけ吊り上げようとしていました。おそらくスターリンは、その要求から少し水準を下げたところでドイツと妥協し、日ソ独伊の四国連合を成立させようとしたのではないか、と本書では推測されています。こうしたスターリンの態度が、ヒトラーに対ソ開戦を決断させたわけですが、ソ連・フィンランド戦争の前であれば、あるいはヒトラーはソ連の要求を受け入れたかもしれません。
スターリンは、ドイツのソ連への攻撃計画が本気であると考えるようになった1941年4月以降、急速にドイツに譲歩するようになりましたが、すでに手遅れでした。ヒトラーとスターリンという二大独裁者の誤算が、1941年6月の独ソ開戦を招来したのでした。日ソ中立条約が調印されたのは1941年4月ですが、難航していた日ソ交渉が妥結した背景として、ドイツからの攻撃の可能性が高まっている、とのスターリンの判断があったのでしょう。日ソ独伊の四国連合構想が成立し、日米戦が避けられて大日本帝国がその後も長期間存続したとすると、日本の歴史も大きく変わったことでしょう。史実では失われた多くの人材・設備が助かることになるでしょうが、軍事偏重体制が続くことになるので、現在よりも経済的地位は低くなっていたかもしれません。
ただ、けっきょくのところ、かりに日ソ独伊の四国連合構想が成立したとしても、それは一時的なことであり、独ソ戦は避けられなかったかな、というのが正直な感想です。ヒトラーは、1940年11月のソ連外相モロトフとの会談までは日ソ独伊の四国連合構想も考えていましたが、本質的には親英反ソ路線であり、反英親ソ路線のドイツ外相リッベントロップとは根本的なところで相違があった、ということなのでしょう。ヒトラーにとっては、日ソ独伊の四国連合は一時しのぎであり、その世界観からして、いずれはソ連への攻撃に踏み切った可能性が高いでしょう。
一方、ソ連側に1941年秋以降、さらにさかのぼって同年7月という時期でのドイツ攻撃計画が存在した、との見解が本書では紹介されています。この見解の妥当性について本書では述べられていませんが、そうした計画があっても不思議ではないだろう、と思います。いずれにしても、独ソ戦は避けられなかったかな、と思います。もちろん、ヒトラーとスターリンの両者が失脚もしくは死亡すれば、戦争は避けられたのではないか、との見解はあるでしょう。しかし、そうなった場合、先に独裁者が死んだ方の体制の動揺に付け入って、もう一方が攻め込む可能性が高いでしょう。独ソ戦がもし避けられるとしたら、ヒトラーとスターリンの両者がほぼ同時に失脚もしくは死亡するしかなさそうですが、それでも、両者の体制構造からして、戦争は避けられなかったかもしれません。
この他にも、リッベントロップは日本について無知で、それが日本への過大評価につながっていたことや、独ソ不可侵条約以前に日本でも日ソ独伊の四国連合構想が存在したことや、ソ連国防相のヴォロシーロフが、対フィンランド戦での不手際をスターリンから面罵されたところ激怒し、苦戦の責任は粛清を進めたスターリンにある、と言い返してしまったことなど、本書では興味深い史実が多数紹介されています。このブログで取り上げている本は、基本的には私が面白いと思ったものなのですが、本書のように一気に読み進めるくらい面白い本となると、久しぶりです。
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