宗教の排他性についての小沢発言
「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は今、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ」との小沢一郎民主党幹事長の一昨日の発言が報道されました。
現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる、一神教世界の排他性を強調して多神教世界の寛容性を賞賛するという俗論については、徹底した検証が必要だと思いますが、この発言が事実だとすると、もし小沢幹事長の発言にかなりの妥当性が認められるとしても、与党、それも衆参両院で第1党であり、衆院では圧倒的多数の議席を有する政党の幹部、しかも実質的な最高権力者としては問題発言だと思います。たとえ個人の信念がどうであれ、政治家、それもきわめて影響力のある正当幹部が、個々の宗教を比較して優劣の判断をくだした、と解釈できる発言をしてはならないでしょう。1986年の衆参同日選挙で圧勝した直後の、中曽根康弘首相(当事)の「知的水準発言」以上の大問題に発展しかねない、とも思いますが、首相としての発言ではなくてまだよかった、と言うべきでしょうか。
それにしても、自民党幹事長時代からずっと小沢氏のことが心底嫌いとはいえ、その判断力については、国会議員のなかでは平均より上だろう、と私は評価してきただけに、今回の問題発言は意外でした。久々の与党生活ということで、浮かれてしまったのでしょうか。下衆な楽しみとしては、小沢信者、それも以前からの新自由主義的な立場の人たちではなく、反新自由主義的立場で「良心的・進歩的」と自負している人たちが、どのようにこの小沢発言を擁護するか、ということが挙げられます。おそらく、大半の小沢信者は無視し、この小沢発言を取り上げる一部の小沢信者は、文脈を無視して一部を切り取っているとか、そもそも捏造だ、とか言って、「マスゴミ」とやらを批判するのでしょう。
現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる、一神教世界の排他性を強調して多神教世界の寛容性を賞賛するという俗論については、徹底した検証が必要だと思いますが、この発言が事実だとすると、もし小沢幹事長の発言にかなりの妥当性が認められるとしても、与党、それも衆参両院で第1党であり、衆院では圧倒的多数の議席を有する政党の幹部、しかも実質的な最高権力者としては問題発言だと思います。たとえ個人の信念がどうであれ、政治家、それもきわめて影響力のある正当幹部が、個々の宗教を比較して優劣の判断をくだした、と解釈できる発言をしてはならないでしょう。1986年の衆参同日選挙で圧勝した直後の、中曽根康弘首相(当事)の「知的水準発言」以上の大問題に発展しかねない、とも思いますが、首相としての発言ではなくてまだよかった、と言うべきでしょうか。
それにしても、自民党幹事長時代からずっと小沢氏のことが心底嫌いとはいえ、その判断力については、国会議員のなかでは平均より上だろう、と私は評価してきただけに、今回の問題発言は意外でした。久々の与党生活ということで、浮かれてしまったのでしょうか。下衆な楽しみとしては、小沢信者、それも以前からの新自由主義的な立場の人たちではなく、反新自由主義的立場で「良心的・進歩的」と自負している人たちが、どのようにこの小沢発言を擁護するか、ということが挙げられます。おそらく、大半の小沢信者は無視し、この小沢発言を取り上げる一部の小沢信者は、文脈を無視して一部を切り取っているとか、そもそも捏造だ、とか言って、「マスゴミ」とやらを批判するのでしょう。
この記事へのコメント
I would like you to tell me what you think actually?
私には、英語で的確にお答えできるほどの英語力はなく、一神教(唯一神教)について深く語れるだけの見識もないので、日本語での簡単な返答になってしまい、申し訳ありません。
大多数の日本人と同じく、私も一神教の信徒ではなく、一神教についての知識もじゅうぶんではありません。
ただ、日本は近現代にヨーロッパ文化の影響を強く受けており、この世のすべての創造主・根源としての唯一の神という一神教の観念について、現代日本人の多くは、理屈としてはなんとなく受け入れられるのではないか、と思います。しかし、感情的には、この世のすべてを司る存在を受け入れるのは私には難しく、私が一神教の信徒になることは今後もないでしょう。
一神教が排他的との言説には、多神教は寛容という意味が込められていることが多いのですが、一神教にしても多神教にしても排他的となることは、日本列島も含むユーラシア東部圏の歴史でもしばしば見られることであり、一神教が排他的と一概に言えるものではないし、傾向として一神教のほうが多神教よりも排他的かという問題も断定するのは難しいだろう、と思います。