小島毅『織田信長 最後の茶会』
光文社新書の一冊として、光文社より2009年7月に刊行されました。小島氏の著作はこれまでにもこのブログで紹介してきましたが(『靖国史観-幕末維新という深淵』、『足利義満 消された日本国王』)、
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_29.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_30.html
この2冊、とくに『足利義満 消された日本国王』と比較すると、ふざけた感じの文章が激減したのはなによりでした。一般向け啓蒙書は分かりやすくなければいけませんが、平易な文章はふざけた文章とは異なるものです。おそらく、『足利義満 消された日本国王』にたいして、ふざけすぎているとの批判が多く寄せられ、小島氏も態度を改めたのでしょう。小島氏の著書にふざけた文章が多いのは、氏が青年期を過ごした1970年代後半から1980年代前半の、軽薄な時代風潮に影響されたことも一因になっているのではないか、と思われます。
それはともかくとして、本書の内容ですが、『足利義満 消された日本国王』と同じく、「一国史観」を批判し、「東アジア世界」のなかに位置づけての考察が主題となっています。信長がなぜ自害に追い込まれた要因として、「東アジア世界」における暦の問題があったのではないか、と提示されています。この推測自体は、小島氏自身も認めているように憶測であり、ただちに認められるものではありません。しかし、本書の価値は、本能寺の変を題材とした、「東アジア世界」的観点からの、16世紀後半の日本列島(の大部分)の政治・経済・文化的位置づけと、「東アジア文化」の薀蓄にあると思いますので、本書で提示された本能寺の変の要因が的外れだったとしても、読むに値しないということにはならないでしょう。
本書でも散々指摘されている信長の「中国志向」については、上記の『足利義満 消された日本国王』についての記事
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_30.html
でも少しだけ述べましたが、3年近く前にもう少し詳しく私見を述べたことがあります。
https://sicambre.seesaa.net/article/200610article_10.html
信長の「中国志向」があまり指摘されない理由は、近代以降の日本社会の知の在り様に基づく、根深い問題だろうと思います。
本題からは外れますが、本書の記述でとくに気になったのは、宇宙は唯一の絶対神が創造したとするユダヤ=キリスト=イスラームの独りよがりの教条が、21世紀の世界各地の紛争の大きな原因になっていることに鑑みて、キリスト教の太陽暦でもイスラームの太陰暦でもなく、男性原理(陽)と女性原理(陰)の両方に配慮した東アジアの太陰太陽暦こそが、「男女共同参画社会」にふさわしいと思うのだが、いかがであろうか。我が国の古い伝承によると、この列島は男女二人の神が混合することによって生み出されたとされている。二つの原理のバランスがあってはじめて世界は安定するのではなかろうか、との一節です(P203、段落を省略し、一部漢数字を算用数字に改めました)。非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界という、現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる俗論については、慎重な検討が必要でしょう。また、現代日本社会においては、男性を陽・女性を陰に喩えるような固定観念は、さすがにそろそろ捨て去るべきだろうと思います。
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_29.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_30.html
この2冊、とくに『足利義満 消された日本国王』と比較すると、ふざけた感じの文章が激減したのはなによりでした。一般向け啓蒙書は分かりやすくなければいけませんが、平易な文章はふざけた文章とは異なるものです。おそらく、『足利義満 消された日本国王』にたいして、ふざけすぎているとの批判が多く寄せられ、小島氏も態度を改めたのでしょう。小島氏の著書にふざけた文章が多いのは、氏が青年期を過ごした1970年代後半から1980年代前半の、軽薄な時代風潮に影響されたことも一因になっているのではないか、と思われます。
それはともかくとして、本書の内容ですが、『足利義満 消された日本国王』と同じく、「一国史観」を批判し、「東アジア世界」のなかに位置づけての考察が主題となっています。信長がなぜ自害に追い込まれた要因として、「東アジア世界」における暦の問題があったのではないか、と提示されています。この推測自体は、小島氏自身も認めているように憶測であり、ただちに認められるものではありません。しかし、本書の価値は、本能寺の変を題材とした、「東アジア世界」的観点からの、16世紀後半の日本列島(の大部分)の政治・経済・文化的位置づけと、「東アジア文化」の薀蓄にあると思いますので、本書で提示された本能寺の変の要因が的外れだったとしても、読むに値しないということにはならないでしょう。
本書でも散々指摘されている信長の「中国志向」については、上記の『足利義満 消された日本国王』についての記事
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_30.html
でも少しだけ述べましたが、3年近く前にもう少し詳しく私見を述べたことがあります。
https://sicambre.seesaa.net/article/200610article_10.html
信長の「中国志向」があまり指摘されない理由は、近代以降の日本社会の知の在り様に基づく、根深い問題だろうと思います。
本題からは外れますが、本書の記述でとくに気になったのは、宇宙は唯一の絶対神が創造したとするユダヤ=キリスト=イスラームの独りよがりの教条が、21世紀の世界各地の紛争の大きな原因になっていることに鑑みて、キリスト教の太陽暦でもイスラームの太陰暦でもなく、男性原理(陽)と女性原理(陰)の両方に配慮した東アジアの太陰太陽暦こそが、「男女共同参画社会」にふさわしいと思うのだが、いかがであろうか。我が国の古い伝承によると、この列島は男女二人の神が混合することによって生み出されたとされている。二つの原理のバランスがあってはじめて世界は安定するのではなかろうか、との一節です(P203、段落を省略し、一部漢数字を算用数字に改めました)。非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界という、現代日本社会で支持を集めつつあるように思われる俗論については、慎重な検討が必要でしょう。また、現代日本社会においては、男性を陽・女性を陰に喩えるような固定観念は、さすがにそろそろ捨て去るべきだろうと思います。
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