論点抱き合わせセット
未読なのですが、内藤朝雄『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)では、「論点抱き合わせセット」という概念が提示されているそうです。
http://d.hatena.ne.jp/izime/20080321/p1
著者の説明によると、「論点抱き合わせセット」とは、「右と左が源氏と平家のように縄張りをひき、各トピックについて批判したりしなかったり、擁護したりしなかったりする」ことだそうです。もっとも、これはいわゆる左派・右派に限らず、他の区分でも見られる問題でもあるとは思います。
確かに、そうしたところが日本社会にはありますが、もちろんそれは日本社会にかぎったことではなく、広く人類社会に認められるものなのでしょう。「良心派」であるための、あるいは「愛国者」であるための「言論作法」のようなものがあり、それぞれの一員に認定されたいがために、特定の問題を無視したり、普段とは異なる論理を用いたりといったことは少なからずあるように思います。
上記の記事ではチベット問題について論じられていますが、日本では、チベット問題を熱心に論じるのは右派で、左派は忌避している、という印象が根強くあるように思います。じっさい、どこのサイトだったかは忘れましたが、チベット問題はネット右翼を利するので取り上げたくない、といった趣旨の発言をしていた人もいたように記憶しています。似たような構図は、北朝鮮による日本人の拉致問題でも見られました。
ただ、こうした印象も多分に固定観念的なところがあり、匿名での発言が多く、それだけ現実のしがらみに囚われることの少ないネット上では、「論点抱き合わせセット」に縛られないような言説を展開している人が少なからずいるように思われます。たとえば、現代の日本で歴史修正主義批判に熱心な人は、ネット右翼などから売国奴・反日とみなされ、チベット問題については沈黙しているだろう、といった印象をもたれているようですが、私の印象では、歴史修正主義批判に熱心な人は、チベット問題についておおむね中国政府に批判的でした。それは、チベット問題における中国政府の公式的立場が歴史修正主義的であることからして当然のこととも言えます。
たとえば、
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090129/1233243161
歴史修正主義に批判的なこのブログでも、
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/zgxz/t62928.htm
という中国政府の公式的見解が批判されています。このブログでは、「ガザには同情するのにチベットには同情しないダブスタ左翼」といった印象を、歴史修正主義に批判的なブログ主に当てはめていることが批判されていますが、そうした印象は、少なからぬネット右翼に浸透しているのでしょう。なお、上記の中国政府の公式的見解は、チベット史研究者からも批判されています。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-331.html
この記事では、「チベットのような研究者の薄い地域に関しては、ネット検索程度で手に入る情報は、ほんとーに限定されたもんか、こんな偏ったもんです」と述べられており、私のような素人はとくに注意しなければなりません。
「論点抱き合わせセット」の提唱者が、「右と左が源氏と平家のように縄張りをひき」と述べているように、これは左派だけの問題ではなく右派の問題でもあります。右派もからんだ問題として、たとえば、新自由主義・国家主義・伝統主義・夫婦別姓容認についても、ねじれた「論点抱き合わせ」があるように思われます。
この十数年間の日本社会の右派的言論活動においては、新自由主義と国家主義との結びつきが強いように思われます。それは、新自由主義的言説が政府や政府に近い立場から強力に主張されていたためでもあるのでしょう。しかし、自立した強い個人を前提とする新自由主義は、国家主義と整合的でないところが多分にあるように思われます。最近では、反新自由主義的風潮が強まるとともに、反新自由主義で国家主義・伝統主義という立場の人も増えてきたように思いますが、本質的には、それが整合的な思想的立場なのでしょう。
もちろん、一個人の思想を新自由主義・国家主義・伝統主義などとたんじゅんに区分することはできないでしょうから、矛盾したように見える選択の組み合わせも、各個人について詳細に見ていけば、それぞれに納得のできる理由が見出せることもあろうとは思います。ただこの記事では、あるていど割り切って分類して述べていくことにします。
この新自由主義・国家主義・伝統主義の問題については、小泉元首相と安倍元首相との比較が面白いのではないか、と考えています。それは、「論点抱き合わせセット」のように見えて、じつは各自が整合的な価値観を有しており、「論点抱き合わせセット」も多分に固定観念的な印象ではないか、と考えたくなるような例になりそうだからです。
一般的には、両者の路線は同類と括られることが多いように思われるのですが、両者の思想・価値観はかなり異なるのではないか、と私は考えています。単純に分類すると、小泉元首相は新自由主義的傾向が強く、安倍元首相は国家主義・伝統主義的傾向が強いように思われます。
安倍元首相は、郵政民営化にもそれほど熱心ではなく、麻生首相のように本心では反対だったように思われるのですが、小泉路線の継承者として小泉元首相と同類視されてしまうのは、当時の政治的立場からして小泉路線の継承を主張しなければならなかったからでしょう。じっさい、安倍元首相と親しい政治家のなかには、城内実前衆院議員のように、新自由主義に批判的な人もいます。安倍元首相が新自由主義的とみなされたのは、当時の日本における「論点抱き合わせセット」の実例と言えそうです。
また、小泉元首相と安倍元首相の歴史観もかなり異なり、安倍元首相には「復古的」なところが見受けられますが、小泉元首相にはそうした側面は希薄であるように思われます。それなのに両者の歴史観が同一視されてしまうことがあるのは、小泉元首相の靖国神社参拝のためなのでしょうが、小泉元首相の靖国神社参拝は、「復古的」歴史観によるものではなかろう、と思います。
では、その目的はというと、最初は、総裁選において本命視されていた橋本龍太郎元首相の支持基盤の一つだった遺族会を、自らに取り込むことにあったのでしょう。もう一つの目的は、中国からの反発が強いことを逆に利用して、中国との距離を置き、中国からの政治的自立を高めることだったと思われます。イラク戦争への支持に象徴される対米従属の強化などから考えると、小泉元首相は、日米の緊密化により、中国の膨張にともなって日本が中国の影響圏に組み込まれることを阻止しよう、と考えたのでしょう。
その意味で、小泉元首相が北朝鮮との国交回復を図ったのは、歴史に残る外交成果を挙げたいという個人的な野望や、北朝鮮につながる利権の掌握(これは、小泉元首相自身というよりは、小泉元首相に近い政治家たちの要望が大きいのでしょうが)もさることながら、北朝鮮に中国を牽制する役割を担わせよう、との長期的意図もあったからではないか、と思います。
やや脱線したので、本題に戻します。小泉元首相と安倍元首相の価値観が根本的なところでかなり異なるとなると、この他の問題についても、当てはまるのではないか、と推測されます。その実例として、夫婦別姓容認論があります。小泉元首相は、選択的夫婦別姓に積極的に賛成したわけではありませんが、強く反対したわけでもなく、容認論的立場だったと思われます。
http://fb-hint.hp.infoseek.co.jp/comment03.htm
一方、安倍元首相は選択的夫婦別姓に批判的です。夫婦別姓容認論が、じつは自立した強い個人を前提とする新自由主義とかなり親和的であることを考えると、選択的夫婦別姓に、小泉元首相が容認的で、安倍元首相が批判的なのは当然とも言えるでしょう。その意味で、新自由主義的傾向の強い前原誠司前民主党代表が選択的夫婦別姓に賛成なのも、不思議ではありません。
夫婦別姓容認論はリベラル的・左派的とみなされることも多く、反新自由主義的立場から、夫婦別姓容認論を主張する人も少なくありません。たとえば、社民党の党首である福島瑞穂参院議員がそうで、福島党首の家族論からすると、夫婦別姓容認論は不思議ではありません。しかし、福島党首の家族論は自立した強い個人を前提としており、その意味で新自由主義とは親和的と言えます。好意的に考えれば、止揚と言えるかもしれませんが、「論点抱き合わせセット」の左派的実例と考えるのが妥当だろう、と思います。
なお、夫婦別姓容認論の側では、日本における夫婦同姓は西欧の模倣でたかだか100年の歴史しかなく、「創られた伝統」にすぎないとの物語が定説化してしまった感があり、夫婦同姓を日本の伝統とする見解にたいする嘲笑が見られる傾向にあります。しかし、以下の記事で述べたように、夫婦同姓は日本の伝統社会に多分に根ざしたものだ、と私は考えています。
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_7.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_17.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_30.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200804article_17.html
もし、夫婦別姓容認論の側において、夫婦同姓を日本の伝統とする見解は嘲笑すべきだ、との見解が「選択すべき正解」だと考えられているとしたら、「論点抱き合わせセット」の実例と言うべきかもしれません。
http://d.hatena.ne.jp/izime/20080321/p1
著者の説明によると、「論点抱き合わせセット」とは、「右と左が源氏と平家のように縄張りをひき、各トピックについて批判したりしなかったり、擁護したりしなかったりする」ことだそうです。もっとも、これはいわゆる左派・右派に限らず、他の区分でも見られる問題でもあるとは思います。
確かに、そうしたところが日本社会にはありますが、もちろんそれは日本社会にかぎったことではなく、広く人類社会に認められるものなのでしょう。「良心派」であるための、あるいは「愛国者」であるための「言論作法」のようなものがあり、それぞれの一員に認定されたいがために、特定の問題を無視したり、普段とは異なる論理を用いたりといったことは少なからずあるように思います。
上記の記事ではチベット問題について論じられていますが、日本では、チベット問題を熱心に論じるのは右派で、左派は忌避している、という印象が根強くあるように思います。じっさい、どこのサイトだったかは忘れましたが、チベット問題はネット右翼を利するので取り上げたくない、といった趣旨の発言をしていた人もいたように記憶しています。似たような構図は、北朝鮮による日本人の拉致問題でも見られました。
ただ、こうした印象も多分に固定観念的なところがあり、匿名での発言が多く、それだけ現実のしがらみに囚われることの少ないネット上では、「論点抱き合わせセット」に縛られないような言説を展開している人が少なからずいるように思われます。たとえば、現代の日本で歴史修正主義批判に熱心な人は、ネット右翼などから売国奴・反日とみなされ、チベット問題については沈黙しているだろう、といった印象をもたれているようですが、私の印象では、歴史修正主義批判に熱心な人は、チベット問題についておおむね中国政府に批判的でした。それは、チベット問題における中国政府の公式的立場が歴史修正主義的であることからして当然のこととも言えます。
たとえば、
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090129/1233243161
歴史修正主義に批判的なこのブログでも、
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/zgxz/t62928.htm
という中国政府の公式的見解が批判されています。このブログでは、「ガザには同情するのにチベットには同情しないダブスタ左翼」といった印象を、歴史修正主義に批判的なブログ主に当てはめていることが批判されていますが、そうした印象は、少なからぬネット右翼に浸透しているのでしょう。なお、上記の中国政府の公式的見解は、チベット史研究者からも批判されています。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-331.html
この記事では、「チベットのような研究者の薄い地域に関しては、ネット検索程度で手に入る情報は、ほんとーに限定されたもんか、こんな偏ったもんです」と述べられており、私のような素人はとくに注意しなければなりません。
「論点抱き合わせセット」の提唱者が、「右と左が源氏と平家のように縄張りをひき」と述べているように、これは左派だけの問題ではなく右派の問題でもあります。右派もからんだ問題として、たとえば、新自由主義・国家主義・伝統主義・夫婦別姓容認についても、ねじれた「論点抱き合わせ」があるように思われます。
この十数年間の日本社会の右派的言論活動においては、新自由主義と国家主義との結びつきが強いように思われます。それは、新自由主義的言説が政府や政府に近い立場から強力に主張されていたためでもあるのでしょう。しかし、自立した強い個人を前提とする新自由主義は、国家主義と整合的でないところが多分にあるように思われます。最近では、反新自由主義的風潮が強まるとともに、反新自由主義で国家主義・伝統主義という立場の人も増えてきたように思いますが、本質的には、それが整合的な思想的立場なのでしょう。
もちろん、一個人の思想を新自由主義・国家主義・伝統主義などとたんじゅんに区分することはできないでしょうから、矛盾したように見える選択の組み合わせも、各個人について詳細に見ていけば、それぞれに納得のできる理由が見出せることもあろうとは思います。ただこの記事では、あるていど割り切って分類して述べていくことにします。
この新自由主義・国家主義・伝統主義の問題については、小泉元首相と安倍元首相との比較が面白いのではないか、と考えています。それは、「論点抱き合わせセット」のように見えて、じつは各自が整合的な価値観を有しており、「論点抱き合わせセット」も多分に固定観念的な印象ではないか、と考えたくなるような例になりそうだからです。
一般的には、両者の路線は同類と括られることが多いように思われるのですが、両者の思想・価値観はかなり異なるのではないか、と私は考えています。単純に分類すると、小泉元首相は新自由主義的傾向が強く、安倍元首相は国家主義・伝統主義的傾向が強いように思われます。
安倍元首相は、郵政民営化にもそれほど熱心ではなく、麻生首相のように本心では反対だったように思われるのですが、小泉路線の継承者として小泉元首相と同類視されてしまうのは、当時の政治的立場からして小泉路線の継承を主張しなければならなかったからでしょう。じっさい、安倍元首相と親しい政治家のなかには、城内実前衆院議員のように、新自由主義に批判的な人もいます。安倍元首相が新自由主義的とみなされたのは、当時の日本における「論点抱き合わせセット」の実例と言えそうです。
また、小泉元首相と安倍元首相の歴史観もかなり異なり、安倍元首相には「復古的」なところが見受けられますが、小泉元首相にはそうした側面は希薄であるように思われます。それなのに両者の歴史観が同一視されてしまうことがあるのは、小泉元首相の靖国神社参拝のためなのでしょうが、小泉元首相の靖国神社参拝は、「復古的」歴史観によるものではなかろう、と思います。
では、その目的はというと、最初は、総裁選において本命視されていた橋本龍太郎元首相の支持基盤の一つだった遺族会を、自らに取り込むことにあったのでしょう。もう一つの目的は、中国からの反発が強いことを逆に利用して、中国との距離を置き、中国からの政治的自立を高めることだったと思われます。イラク戦争への支持に象徴される対米従属の強化などから考えると、小泉元首相は、日米の緊密化により、中国の膨張にともなって日本が中国の影響圏に組み込まれることを阻止しよう、と考えたのでしょう。
その意味で、小泉元首相が北朝鮮との国交回復を図ったのは、歴史に残る外交成果を挙げたいという個人的な野望や、北朝鮮につながる利権の掌握(これは、小泉元首相自身というよりは、小泉元首相に近い政治家たちの要望が大きいのでしょうが)もさることながら、北朝鮮に中国を牽制する役割を担わせよう、との長期的意図もあったからではないか、と思います。
やや脱線したので、本題に戻します。小泉元首相と安倍元首相の価値観が根本的なところでかなり異なるとなると、この他の問題についても、当てはまるのではないか、と推測されます。その実例として、夫婦別姓容認論があります。小泉元首相は、選択的夫婦別姓に積極的に賛成したわけではありませんが、強く反対したわけでもなく、容認論的立場だったと思われます。
http://fb-hint.hp.infoseek.co.jp/comment03.htm
一方、安倍元首相は選択的夫婦別姓に批判的です。夫婦別姓容認論が、じつは自立した強い個人を前提とする新自由主義とかなり親和的であることを考えると、選択的夫婦別姓に、小泉元首相が容認的で、安倍元首相が批判的なのは当然とも言えるでしょう。その意味で、新自由主義的傾向の強い前原誠司前民主党代表が選択的夫婦別姓に賛成なのも、不思議ではありません。
夫婦別姓容認論はリベラル的・左派的とみなされることも多く、反新自由主義的立場から、夫婦別姓容認論を主張する人も少なくありません。たとえば、社民党の党首である福島瑞穂参院議員がそうで、福島党首の家族論からすると、夫婦別姓容認論は不思議ではありません。しかし、福島党首の家族論は自立した強い個人を前提としており、その意味で新自由主義とは親和的と言えます。好意的に考えれば、止揚と言えるかもしれませんが、「論点抱き合わせセット」の左派的実例と考えるのが妥当だろう、と思います。
なお、夫婦別姓容認論の側では、日本における夫婦同姓は西欧の模倣でたかだか100年の歴史しかなく、「創られた伝統」にすぎないとの物語が定説化してしまった感があり、夫婦同姓を日本の伝統とする見解にたいする嘲笑が見られる傾向にあります。しかし、以下の記事で述べたように、夫婦同姓は日本の伝統社会に多分に根ざしたものだ、と私は考えています。
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_7.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_17.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_30.html
https://sicambre.seesaa.net/article/200804article_17.html
もし、夫婦別姓容認論の側において、夫婦同姓を日本の伝統とする見解は嘲笑すべきだ、との見解が「選択すべき正解」だと考えられているとしたら、「論点抱き合わせセット」の実例と言うべきかもしれません。
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