小秋元段「『太平記』の名義」
乱世を描いていながらなぜ『太平記』なのかという疑問にたいしては、
●太平の時代から戦乱を追憶して書いたとする祝言説。
●戦乱の記録であることを忌んで称したとする反語・忌詞説。
●太平の崩壊の所由を明らかにする作品の主題と関わる、または太平を渇望する民衆の声を反映するという説。
などがあります。
現在の『太平記』は書き継がれた結果としてのものであり、観応擾乱の直前に足利直義の命により修訂されていることから、当初は太平の到来と足利政権への祝寿の意味が込められていたのではないか、と推測されます。しかし、直義の命による修訂のあとも戦乱は続いて『太平記』は書き継がれ、細川頼之の管領就任により天下に静謐が訪れたことを告げて終わる現在のような形になりました。
その結びの文言である「中夏無為の代になりて目出かりし事共なり」という一節を真実の祝言とみなすか、とってつけたような結辞とみなすかについては評価の分かれるところでしょうが、この問題の手がかりとなりそうなのが、巻三十五の「北野通夜物語」です。ここでは、物事とは人の予期しない、思いもよらない原理によって展開するのだと主張されていて、君臣がいかに努力しても世が乱れることも、たいして努力しなくても太平が訪れることもあり、太平の到来は政権の努力とは何の関係もなく、たまたま到来したものにすぎないという認識が見られます。
つまり、当初は祝言としての性格を帯びていたであろう太平記という呼称は、完結する段階においては細川頼之政権にたいする皮肉へと反転していたのではないか、というのがこの論考での見解です。『太平記』という名称の皮肉さについて、なかなか面白い見解が提示されていて、南北朝時代や『太平記』への関心があまり強くない私にとっても、興味深い論考でした。
●太平の時代から戦乱を追憶して書いたとする祝言説。
●戦乱の記録であることを忌んで称したとする反語・忌詞説。
●太平の崩壊の所由を明らかにする作品の主題と関わる、または太平を渇望する民衆の声を反映するという説。
などがあります。
現在の『太平記』は書き継がれた結果としてのものであり、観応擾乱の直前に足利直義の命により修訂されていることから、当初は太平の到来と足利政権への祝寿の意味が込められていたのではないか、と推測されます。しかし、直義の命による修訂のあとも戦乱は続いて『太平記』は書き継がれ、細川頼之の管領就任により天下に静謐が訪れたことを告げて終わる現在のような形になりました。
その結びの文言である「中夏無為の代になりて目出かりし事共なり」という一節を真実の祝言とみなすか、とってつけたような結辞とみなすかについては評価の分かれるところでしょうが、この問題の手がかりとなりそうなのが、巻三十五の「北野通夜物語」です。ここでは、物事とは人の予期しない、思いもよらない原理によって展開するのだと主張されていて、君臣がいかに努力しても世が乱れることも、たいして努力しなくても太平が訪れることもあり、太平の到来は政権の努力とは何の関係もなく、たまたま到来したものにすぎないという認識が見られます。
つまり、当初は祝言としての性格を帯びていたであろう太平記という呼称は、完結する段階においては細川頼之政権にたいする皮肉へと反転していたのではないか、というのがこの論考での見解です。『太平記』という名称の皮肉さについて、なかなか面白い見解が提示されていて、南北朝時代や『太平記』への関心があまり強くない私にとっても、興味深い論考でした。
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