旧石器捏造事件と多地域進化説
旧石器捏造事件の発覚(2000年)の数年前より、私は古人類学に関心をもつようになったのですが、2000年までに読んだ古人類学関係の本では、東北旧石器文化研究所(以下、研究所と略)による「華々しい成果」がほとんど取り上げられておらず、研究所の「業績」についてはほとんど知らないと言ってよい状況でした(引用箇所は青字)。その頃まで、私は古人類学関係ではおもに翻訳本を読んでいたのですが、同研究所の「業績」は海外ではほとんどまともに扱われていなかったわけです。
日本人の執筆した本も読んではいましたが、たとえば馬場悠男氏は、捏造発覚の三ヶ月ほど前に刊行された著書(『ホモ・サピエンスはどこから来たか』P159~161)にて、研究所の「業績」について触れ、だが一方で、これらの“物証”には、疑問をもつ研究者も少なくない、と指摘しています。さらに馬場氏は、山形県寒河江市の富山遺跡について触れ、この遺跡に他の旧石器時代の遺跡のような不自然さがないことを指摘し、研究所の「業績」への疑問を示唆しています。馬場氏は藤村氏との会話から、すでに捏造発覚以前に研究所の「業績」が怪しいと考えていた、とのことです(『発掘捏造』P220~221)。
その後、研究所の「業績」についての知見が増えていくと、研究所の「業績」を支持する雰囲気を形成した一因に、現生人類多地域進化説への支持があるのではないか、と考えるようになりました。たとえば、考古学界の大御所である小林達雄・國學院大學教授(当時)は、研究所の「業績」に触れ、2000年3月14日付の毎日新聞夕刊に以下のような一文を寄せていますが(『発掘捏造』P47~48)、これを読むと、日本の多地域進化説派のなかに、研究所の「業績」を好ましいものと受け止める雰囲気が少なからずあったのではないか、と推測されます。
旧人から新人への交代劇には諸説あって、旧人は滅ぼされて地上から姿を消したという仮説が優勢である。けれども、今回の『日本原人』の発見は、彼らが日本列島に腰を据えて、相当程度の知的水準を獲得しながら旧人へと進化し、その末嫡が新人に変わったのではなかったかという仮説の有力な根拠になりそうな気配を見せている
また、新潟日報2000年2月22日付の日報抄によると、黄慰文・中国科学院教授(当時?)のように、中国の研究者のなかにも研究所の「業績」にエールを送っている人がいるとのことで、これは珍しく、海外から研究所の「業績」が好意的に評価された例かもしれません。中国の形質人類学・考古学の研究者のなかには多地域進化説の支持者が多いだけに、黄慰文氏の発言も、多地域進化説の立場から研究所の「業績」を歓迎した事例と解釈したくなるのですが、黄慰文氏がじっさいのところ研究所の「業績」をどのように評価していたのか、さらには黄慰文氏が当時多地域進化説を支持していたのか、確証は得られませんでした。したがって、黄慰文氏の発言は、多地域進化説支持者には研究所の「業績」を好ましいものと受け止める傾向があった、との見解を補強する証拠の一例となる可能性が高いものの、そうだと断言するのは避けておきます。
1990年代後半には、すでに現生人類のアフリカ単一起源説の優勢(多地域進化説の劣勢)は明らかでしたが、河合信和氏のサイトのニュースの過去ログ(37)にあるように、21世紀初頭においても、少なからぬ日本の考古学者は多地域進化説を支持していたようです。じっさい、考古学者の宮本一夫・九州大学教授は、2005年刊行の本においても、人類の多元説はいまだ忘れ去られているわけではないし、その重要な起源地が中国大陸にある可能性は、われわれも注目しておく必要があろう、と述べています(『中国の歴史01 神話から歴史へ』P73)。このように、日本の考古学界において多地域進化説を容認する傾向があることも、捏造発覚が遅れた一因になったと思われます。
旧石器捏造事件は、たんに日本列島に古くから人類が存在したということだけではなく、上高森遺跡の「石器埋納遺構」が人類史の常識を覆すものだ、という点でも注目されました。この60万年前頃の「石器埋納遺構」は、研究所によって「祭祀遺構」との解釈が提示されました。20世紀後半の時点では、祭祀のような象徴的思考は5万年前以降に始まるとの見解が有力で、こうした象徴的思考の起源は中期石器時代のアフリカにさかのぼる、との見解が有力になりつつある現在(この問題については私見を参照してください)から見ても、研究所による「石器埋納遺構」の解釈は常識外れのものと言えます。しかし、研究所の理事(当時)で東北福祉大学教授の梶原洋氏は、以下のように述べました(『発掘捏造』P35)。
欧米の研究者の間では、上高森で想定されるような人類の能力は、現生人類になってからのものだとする考え方が強い。しかし『埋納という事実』は、どのような思弁的な仮説よりも強いのであり、原人の能力を低く考えるこれまでの欧米を中心とした学説の一部を覆す決定的な証拠といってよいであろう
もちろん、通説に反するような見解が後に通説になることもありますが、そのためには証拠の積み重ねがいっそう要求されるものです。象徴的思考の起源が中期石器時代のアフリカにさかのぼるという見解もずいぶんと批判されましたが、着実に証拠が積み重ねられてきたので、今では有力な見解とみなされるようになりました。通説に反する度合いが大きいほど、そうした証拠の積み重ねが要求されるというべきで、当時の梶原氏の判断が早まったものであるとの批判は、けっして後知恵とは言えないと思います。
恥ずかしながら、2000年11月の捏造発覚までは、上高森遺跡の「石器埋納遺構」について私はまったく知りませんでしたし、捏造発覚直後も、「石器埋納遺構」があまりにも異質であることを大して理解できていなかったように思います。しかし今になってみると、研究所はなんと恐ろしい解釈を提示していたのだろう、と理解できます。海外の研究者がほとんどまともに「石器埋納遺構」を取り上げなかったのも、仕方のないことだと言うべきでしょう。
参考文献:
馬場悠男(2000)『ホモ・サピエンスはどこから来たか』(河出書房新社)
毎日新聞旧石器遺跡取材班(2001)『発掘捏造』(毎日新聞社)
宮本一夫(2005)『中国の歴史01 神話から歴史へ』(講談社)
日本人の執筆した本も読んではいましたが、たとえば馬場悠男氏は、捏造発覚の三ヶ月ほど前に刊行された著書(『ホモ・サピエンスはどこから来たか』P159~161)にて、研究所の「業績」について触れ、だが一方で、これらの“物証”には、疑問をもつ研究者も少なくない、と指摘しています。さらに馬場氏は、山形県寒河江市の富山遺跡について触れ、この遺跡に他の旧石器時代の遺跡のような不自然さがないことを指摘し、研究所の「業績」への疑問を示唆しています。馬場氏は藤村氏との会話から、すでに捏造発覚以前に研究所の「業績」が怪しいと考えていた、とのことです(『発掘捏造』P220~221)。
その後、研究所の「業績」についての知見が増えていくと、研究所の「業績」を支持する雰囲気を形成した一因に、現生人類多地域進化説への支持があるのではないか、と考えるようになりました。たとえば、考古学界の大御所である小林達雄・國學院大學教授(当時)は、研究所の「業績」に触れ、2000年3月14日付の毎日新聞夕刊に以下のような一文を寄せていますが(『発掘捏造』P47~48)、これを読むと、日本の多地域進化説派のなかに、研究所の「業績」を好ましいものと受け止める雰囲気が少なからずあったのではないか、と推測されます。
旧人から新人への交代劇には諸説あって、旧人は滅ぼされて地上から姿を消したという仮説が優勢である。けれども、今回の『日本原人』の発見は、彼らが日本列島に腰を据えて、相当程度の知的水準を獲得しながら旧人へと進化し、その末嫡が新人に変わったのではなかったかという仮説の有力な根拠になりそうな気配を見せている
また、新潟日報2000年2月22日付の日報抄によると、黄慰文・中国科学院教授(当時?)のように、中国の研究者のなかにも研究所の「業績」にエールを送っている人がいるとのことで、これは珍しく、海外から研究所の「業績」が好意的に評価された例かもしれません。中国の形質人類学・考古学の研究者のなかには多地域進化説の支持者が多いだけに、黄慰文氏の発言も、多地域進化説の立場から研究所の「業績」を歓迎した事例と解釈したくなるのですが、黄慰文氏がじっさいのところ研究所の「業績」をどのように評価していたのか、さらには黄慰文氏が当時多地域進化説を支持していたのか、確証は得られませんでした。したがって、黄慰文氏の発言は、多地域進化説支持者には研究所の「業績」を好ましいものと受け止める傾向があった、との見解を補強する証拠の一例となる可能性が高いものの、そうだと断言するのは避けておきます。
1990年代後半には、すでに現生人類のアフリカ単一起源説の優勢(多地域進化説の劣勢)は明らかでしたが、河合信和氏のサイトのニュースの過去ログ(37)にあるように、21世紀初頭においても、少なからぬ日本の考古学者は多地域進化説を支持していたようです。じっさい、考古学者の宮本一夫・九州大学教授は、2005年刊行の本においても、人類の多元説はいまだ忘れ去られているわけではないし、その重要な起源地が中国大陸にある可能性は、われわれも注目しておく必要があろう、と述べています(『中国の歴史01 神話から歴史へ』P73)。このように、日本の考古学界において多地域進化説を容認する傾向があることも、捏造発覚が遅れた一因になったと思われます。
旧石器捏造事件は、たんに日本列島に古くから人類が存在したということだけではなく、上高森遺跡の「石器埋納遺構」が人類史の常識を覆すものだ、という点でも注目されました。この60万年前頃の「石器埋納遺構」は、研究所によって「祭祀遺構」との解釈が提示されました。20世紀後半の時点では、祭祀のような象徴的思考は5万年前以降に始まるとの見解が有力で、こうした象徴的思考の起源は中期石器時代のアフリカにさかのぼる、との見解が有力になりつつある現在(この問題については私見を参照してください)から見ても、研究所による「石器埋納遺構」の解釈は常識外れのものと言えます。しかし、研究所の理事(当時)で東北福祉大学教授の梶原洋氏は、以下のように述べました(『発掘捏造』P35)。
欧米の研究者の間では、上高森で想定されるような人類の能力は、現生人類になってからのものだとする考え方が強い。しかし『埋納という事実』は、どのような思弁的な仮説よりも強いのであり、原人の能力を低く考えるこれまでの欧米を中心とした学説の一部を覆す決定的な証拠といってよいであろう
もちろん、通説に反するような見解が後に通説になることもありますが、そのためには証拠の積み重ねがいっそう要求されるものです。象徴的思考の起源が中期石器時代のアフリカにさかのぼるという見解もずいぶんと批判されましたが、着実に証拠が積み重ねられてきたので、今では有力な見解とみなされるようになりました。通説に反する度合いが大きいほど、そうした証拠の積み重ねが要求されるというべきで、当時の梶原氏の判断が早まったものであるとの批判は、けっして後知恵とは言えないと思います。
恥ずかしながら、2000年11月の捏造発覚までは、上高森遺跡の「石器埋納遺構」について私はまったく知りませんでしたし、捏造発覚直後も、「石器埋納遺構」があまりにも異質であることを大して理解できていなかったように思います。しかし今になってみると、研究所はなんと恐ろしい解釈を提示していたのだろう、と理解できます。海外の研究者がほとんどまともに「石器埋納遺構」を取り上げなかったのも、仕方のないことだと言うべきでしょう。
参考文献:
馬場悠男(2000)『ホモ・サピエンスはどこから来たか』(河出書房新社)
毎日新聞旧石器遺跡取材班(2001)『発掘捏造』(毎日新聞社)
宮本一夫(2005)『中国の歴史01 神話から歴史へ』(講談社)
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